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第十一話 世の数字

 ワイザの怒りは大きくふくれあがった。このまま感情のままに暴れてしまいたい衝動にかられたが、下げた震える拳を、なんとか歯を食いしばっておさえつけていた。

 しかしさきほどの海斗の言葉は、まごうことなき事実である。下手に暴れて、国を壊してしまったり、誰かを殺してしまうと、こちらが違反者となってしまう。

 そんなもので、自分の道を壊すことは許されないと、目つきを鋭くした。


「口が達者でうらやましいことだ。 だが、口だけでは、乗り越えられん壁もある」


 ワイザは左の手をあげて、振り返り、うしろにさがっていった。すると周りの兵たちが槍など剣などをかまえ、ワイザが通った道を埋め、海斗を睨んだ。

 そうだ、どれほど驚かせても、依然として海斗の劣勢は変わらない。二千の悪魔を、一人の人間が相手をしなくてはならない。

 アイナの胸中は、複雑な感情を抱えていた。なぜ、彼はここに立つのかと。

 海斗。お前はほんとうに、ここから逃げようとはしないのか。

 バルバロッサのためと、平然と立っていたことを思い出す。しかし姫とは、この短時間でなんの関係も構築できてはいない。そんな者のために、傷つき、圧倒的な兵力差を見せつけられても立てるものなのか、甚だ疑問であったのだ。

 心配そうに海斗を見つめるアイナの頬を、一粒の汗が伝った。

 別に逃げてもいいじゃないか。私たちはとうに覚悟を決めていた。お前が逃げても、やはり姫を救えるものはいなかったと、諦めることができるんだ。そんな救済の手が微塵もない状況で、助けようとしてくれただけでも礼を言わなくてはならんのに。

 アイナの瞳は、息が切れ気味になっているのだろう海斗の、上下にゆれる背中を刺し、離れようとはしなかった。

 そして、且つ、自分にできることはないのか、考え始めた。

 悪魔の自分が、いま、できることを。

 半円状ににじりよってくる敵へ、海斗は逃げ腰にならず、ただただ尖る双眸をぶつけていた。

 優勢と劣勢が、より濃く深く色づいていく中、一人の兵が海斗へと、真正面に走り出した。

 そしてそれに続いて一人、また一人と波状に走って、得物を海斗へ薙いだ。

 海斗はなんとかそれらを乱暴に、がむしゃらにはじいては受け流し、命を繋いでいた。

 この命のやり取りの中で、脳裏に、バルバロッサたちの姿が、言葉が浮かんだ。

 全てが救済を求めていた。確実な救済を、完璧な救いの手を求めていた。

 歯を食いしばった。

 自分は完璧ではない、確実に。だが、だからこそ救いたいと思った。だからこそ完璧になろうとし、こうして抗っている。

 それでも良くならない状況に、少し苛立ちをおぼえて、揺らぐ腕。

 無理なのか? やっぱ一人が千単位に勝つ事は不可能なのか?

 海斗は一人、また一人と敵を打ち砕いていくものの、その勢いは急速に衰えていく。

 海斗のたった一つの命の炎は消えかけ、多数の命は笑みを膨らませる。


 すると、なんのきっかけもなく腕が軽くなった。

 力の伝達はしなやかに、木刀を薙げば周囲にいる五人が舞い飛んだ。

 彼自身も、周囲の悪魔たちの目は大きくひらかれ、不思議に染まった。

 いったい何が起きた?

 さきの爆発で痛む海斗の身体はなにもなかったかのように、木刀を握る手も足も、力がたぎって疲労を感じさせることもない。


「あんなに大ボラを吹いていた男がそのザマか」


 背後から声がした。

 振り返ってみれば、薄緑の光がただよう右手を、こちらに向けているアイナの姿があった。

 不思議そうに、手とアイナの顔を交互に見る海斗の髪を、風が揺らした。

 アイナは微笑を浮かべた。


「大ボラはさすがに一人では成し遂げられんか? じゃあ、二人ではどうだ?

 今お前には、聞こえは悪いだろうが、悪魔の加護をかけた。女の悪魔しかできん技だ。これで身体能力は格段にあがったはず。これで勝算もあがりそうか?」


 アイナは、少しだけ目と口を細くさせた。

 海斗も自然とそのマネをした。


「0に2ィかけて、数増えんのかよ」


 アイナは失笑した。


「増えんな。

 まぁこの世全てが掛け算でなりたっているわけではないさ。0に1でも足しておいてくれよ」


 他の守護者が心配そうに見守る中、二人の視線は奇妙なつながりとなって離さなかった。 

 しかしこの状況を良しとしないワイザが、怒髪天をついて叫び始めた。


「契約破綻させようとする男を助けるかそこな騎士ィッ!

 貴様、アイナだな! その行為自体が違反だと理解しているのかァッ!」


 だがアイナは平然と、表情など変えることはなかった。


「自分にとってその男は客人。客を死なせたとあっては、騎士として、いやそれ以前に国民としての恥だ。

 それに、規約に、客は守ってはならぬとでも書いてあったのだろうか」


 ワイザは言葉につまった。

 確かにそんな文言は書いていなかった。

 下がっていたウルウが、近づいてワイザを見上げた。


「陛下。兵力差は火を見るよりあきらかでございます。

 あのような抵抗ではいささか心もとない差。ただの人口呼吸にすぎません。あの人間の心臓は止まりかけていますとも。ですからおちつきくださいませ、陛下」


 ワイザはしばらくアイナを睨みつけていたが、ウルウの言葉をしばらく反芻し、浅く長く息をはいた。


「そう、だな。彼奴の運命は決まっておるな」


「そうでございます。

 それに、こちらの兵は、しっかりとあなたの意思を飲み込んでいますよ」


 そして女は海斗の方へとそっと目を向けた。すれば彼の周りには、さきほどよりも多くの兵がつどい、猛攻をしかけていた。

 海斗はそれらをいなしていた。前よりもスムーズに、的確に。

 しかしやはり、どこかしんどそうにも見えた この圧倒的な兵力差を打開する一手を出せないようであった。

 だがそれを、信頼の眼差しで見つめるのはアイナ。決して心配そうに、ではなく、強く強く、信頼の視線を突き刺していた。


「アイナさん。大丈夫なのですか」


 そんな彼女に、心配の声があがった。

 それから次々と、あの男に加護をつけてもいいのか、そんなに信頼できる男なのか。そして、かえって貴女が危険にさらされるだけじゃないのか、などの声が上がり続けた。

 アイナは目を細めた。


「そうだと思う」


 怯えも覚えずそう言った。


「とても危ないことをしているのは百も承知。

 ワイザにはああ言ったが、白か黒かでいえば、黒にほぼ両足をつっこんでいると思う」


隣に立つ赤髪の女が口を開く。


「じゃあ」


「だが、いま」


 それを中断させるようにまた、アイナが言葉をついだ。


「あいつと私、どちらが危険だ」


 周りは口を閉ざした。


「あいつは一瞬先で死ぬかもしれない。それはあいつも理解して、戦っているはず」


 赤髪の女は眉をひそめた。


「同情、ということですか」


 アイナは首をふった。


「こうして黒に身を投げてでも、あいつの未来を見たくなったのさ」


 どこか穏やかな顔でそう言ってのけた。

 騎士たちは考え始めた。目の前で戦うあの男のことを。

 あの言葉に嘘偽りはないか、覚悟がどれほどのものだったのか。

 そして、姫だけではなく、一人の騎士の心までをも変えてみせたなにかを。



「苦しい時は言いなさい。どんなささいなことでも大丈夫、『我慢しろ』って言う人なんていないから」


 ひざをすりむいたことを黙っていたわたしに、姫は大きな樹の下でばんそうこうを貼りながら言ってくれた。

 でもやっぱりわたしははずかしくて、でもうれしくて……よくわからない気持ちになったの。

 それで、もじもじしてたら、そう言ってくれた。


「でも、大人の人はみんな、たえることができる人の方が強いって言うの。

 弱音吐くほうが弱いんじゃないの? この世界は強い人が生き残るって、街の人たちは言ってたよ?」


 姫ははにかんで、首をふった。


「みんな極端につたえるからね。耐えるほうが良い、弱音吐くほうが弱いんだって、バカみたいに言ってくる。

 でもね、それは違う」


 赤色と青色の目が、わたしをみつめる。


「どっちもできる人が強い……私はそう思ってる。だってどっちもできるということは、誰かがそばにいるってことだから」


 わたしは困ったの。言ってることがあんまりわかんなかったから。


「誰かが……友達がいる人のほうが強いの?」


 姫はうなずいた。


「……よくわかんない」


「いい、今はわからなくて。きっと、もう少ししたらわかるようになるから」


 ばんそうこうがはられたひざが暖かくなった。

 見たら、そこに木漏れ日がさわっていた。



 ラーファは廊下を歩いていた。 最低限の光源で照らされる空間を、少女は胸を張って、されども頭をほんの少し垂らして、瞳は真正面をとらえて堂々と歩く。

 脳裏に浮かぶバルバロッサとの過去をあじわって、不満げに歩いている。

 床を踏む音はどこかきつく、ずんずんとある場所に向かっていた。

 やや歩いた頃、上部からふたつのランプに照らされた扉が、ラーファの目に入ってきた。

 バルバロッサの自室だった。

 もう、出国する時刻はとうに過ぎていた。

 ただ、彼女がいないとわかっていても、ここに来ずにはいられなかったのだ。

 しかし、扉が全開になっていて、ラーファは不思議そうに眉を曲げた。

 覗いてみると、驚いた。

 部屋には慌てる二人の女と、立って窓の外に目をやるバルバロッサの後ろ姿が見えるではないか。

 そして床には引き裂かれたドレスの残骸……部屋のすみには真っ裸にされたトルソーがあった。


「裂いてよかったのですか姫……!?」


「あの人が、婚約を破棄してくれるそうですから」


「必ずそうなるとは言い切れないではありませんか! これで彼が殺されてしまっては、貴女の願いは!」


「絶対に勝つって約束してくれたんです」


 女の眉間にしわがよった。


「それでも」


 バルバロッサは、女の言葉を強くさえぎった。


「あの魔王と海斗さん。どちらを信じるかと言われれば……私は海斗さんを信じます。 私のわがままを、あの人は最後まで聞いてくれたんですから」


 二人は肩をすぼめた。


「姫……」


 ラーファはいつのまにか隠れることをやめ、扉のど真ん中で、バルバロッサを見つめていた。

 海斗さんに、わがままを言った?

 複雑な気持ちが少女の胸の中でのたうちまわった。

 自分が怪我をしたとき、バルバロッサは「苦しい時は言え」と言った。

 しかし誰もがわかりきった「結婚が嫌だ」という気持ちを、決して誰にも言うことはなかった。なのに、今日初めて出会った人間には弱音を吐くのか。

 すると自然に、大声をあげていた。


「弱音吐くの! 遅いです!」


 その声に驚き、振り向いたバルバロッサ。


「わたしに教えたこと、自分ができてないじゃないですか! 今日会った人には弱音を吐くのに、ずっといたわたしたちには何もなしですか!?」


 そう言って、ラーファはどこかへ走り去っていった。


「ラーファ……ッ!」


 バルバロッサは手を伸ばしたが、複雑な後悔の念にかられ、手が徐々にさがっていった。

 追おうともしたが、急に足が重くなった。

 わたしに教えたこと。──経つ時間とともに、それがなんなのか、わかった。

 ラーファは、ずっとこれを考えていたのだと、言葉がこれ以上でてこなかった。

 バルバロッサは、二人の悪魔の心配そうな視線を集めたまま、少しの間うなだれていた。



 海斗は、確実に相手の数を減らしていった。鬼気迫る表情は、相手に小さくとも確かな恐怖を芽生えさせた。

 しかし身体は軽くなったが、膨大な数の差にやはりそれだけでは勝てないらしく、かわせなかった攻め手に一瞬ひるみ、攻撃の隙をあたえてしまうという、よろしくない連鎖が垣間見える時が、ままあった。

 そしてその苦痛が積み重なって、いま意識が一瞬ゆらめき、膝をついてしまった。

 これを好機と見た一人が、海斗の顔めがけて剣をふりおろした。

 海斗は見えていながら、完全には後ろへ避けられずに、頬に浅い傷がきざまれた。火で炙られたような痛みが、そこから身体中に駆け、血が漏れた。

 おしきれないか?

 それでも海斗は、どこかにある希望を信じ、木刀を振るった。恥も外聞も捨てて、生にしがみついて守ると決めた者を、守るため。

 しかし絶対的な敗北の中で踊る人間など、やはり悪魔たちにとっては、嘲笑う対象でしかなかった。

 海斗に対する恐怖を消し去ろうと、他の悪魔たちが怒声をあげて、士気をあげはじめた。

 それでも諦めぬ海斗の前に、ひときわ巨大な悪魔が大きな一歩を重ねて顔を出した。

 見上げる海斗に影がかかる。

 先がドリアンのようになった棍棒が、海斗に振り下ろされ、海斗がうしろに跳ねたのと、地面が大きく穿たれたのはほぼ同時だった。

 ぱらぱらと飛んできた地面の破片を、海斗は腕を盾にして防ぎ、鋭い眼光で巨体を睨みつける。巨体の動きは緩慢であるとたやすく理解できた、その瞬間に、飛びかかって木刀を脳天に叩きつけた。

 しかしながら耐久は並外れていて、垂れた頭から睨み上げられた双眸は海斗の驚きをさそい、同時に木刀を持つ手を握った。

 ほどこうとする猶予もなく、海斗は地面に投げられ、打ちつけられた。

 しかし間髪入れず、スーパーボールのように身体を跳ねさせ、後ろにさがった。またしても棍棒が垂直に落とされるのが見えたからだ。

 棍棒は海斗がいた地面を大きく穿った。

 膝をついた海斗は、ビリビリと全身を走る激痛に顔をゆがませた。

 それを押し殺し、瞬時に大男にとびつき、顎下にむけて木刀をふりあげ、叩き込んだ。

 大男はなんとか踏みとどまろうとしたが、海斗の力に負けて吹き飛ばされた。

 アイナの加護の底上げは、それほどまでに強力であったのだ。

 巨体は宙を、大の字で飛んだ。

 まさか負けるなんて、と周囲の者も驚きの目で見上げた。

 すると、海斗は次の瞬間、目を見張ることとなった。

 大男が地面に打ち付けられる寸前、急に地面が円状にあいて、そこから勢いよくモグラがとびあがって、彼のどてっぱらをくわえ、そのまま海斗の目の前に着地したのだ。

 助けた?

 そう思った海斗は、巨体とあわせてモグラも相手どることになることに、辟易した。

 が、その考えと反して、モグラは大男をそのまま食べ始めた。

 片側三つずつある瞳をせわしなく動かし、皮膚を裂き、骨を砕く音に包まれて、男はいなくなった。

 別に海斗はそれには悲観しない、恐怖なんて覚えない。ただ驚くことしかできなかった。

 すぐに、木刀をかまえて闘志をたぎらせた。


挿絵(By みてみん)


 ワイザと女は、これを見て笑んだ。


「ほぅ……見ないと思ったら、地中にもぐっていたか」


「えぇ。陛下に忠実なケモノですゆえ、あの人間をつみとるために自ら向かったのでしょう。かわいいではありませんか」


 モグラは海斗に、血が滴った口をがばりとあけ、手から生えた大剣のような三本の爪を前に突き出して、高く飛び上がり襲いかかった。大きさから見て木刀ではふせげようがないと、海斗は判断した。

 だがモグラの速さはその思考よりも早く、強烈な顎と爪は、地面もろとも海斗を砕いた。

 砂が舞って、風が踊った。

 だが、モグラは瓦礫の中で首をかしげた。口の中に、海斗らしき食感がなかったのだ。

 するとモグラの頭に、影がかかった。

 海斗は上に跳び上がっていたのだ モグラがそれを理解したとき、すでに木刀が脳天を穿っていた。

 重い一撃だったろう。してやったりと、口角をあげた海斗。

 しかしモグラはたいして効いてはおらず、六つの瞳全てをぎょろりと海斗に向けた。

 するとモグラも扇風機のプロペラのように手を広げて回転しながら飛び上がり、手で海斗をはたきおとした。

 顔をゆがませ起き上がる海斗に、モグラは地に足をつけると同時に突進していった。

 地面に叩きつけられた時、海斗は木刀をもった右手を下敷きにして、しびれてしまっていた。これではあの獣をしりぞけることは叶わない。

 左の拳で鼻を突こうと決心した。

 到達するすんでのところで突きを放つ。が、海斗はぎょっとした。それを瞬時にみきったモグラは、その拳に噛みつこうとしたのだ。

 噛みちぎられた左手がふっと、脳裏にイメージとして湧き、恐れを抱いた。

 だが、好機を見つけたい思いが強くあった。目の前にあるのは勝ち誇ったように丸くした三つの左目が見えたのだ。そこを次の標的とした。

 そこならこの手でもやれる!

 強く握った木刀を噛みちぎられる前に真ん中の目に突き込んだ。

 思ったとおりモグラは口をあけて、とんでもない勢いでのけぞった。

 短い手を、目の近くでバタバタさせた。

 さぁやっと心身を整える時間ができた。

 海斗にとっては良き刹那のインターバルであり、しびれていた腕の感覚を取り戻す。

 モグラも、閉じた瞼の隙間から血を一本流しつつも、これまで以上の分厚い殺気をふくませた眼光で海斗を睨みつけた。

 無事では済まないと思った。軍団と相対したときからすでにそう思っていたが、このモグラとの戦いで、その思いがより色濃くなった。

 自分のなにもかもを、アイナの思いを背負ってでも、四肢のいずれかが欠けてしまうかもしれないと思った。

 風が少しずつ吹き始め、海斗の髪をなびかせた。

 両者、力の限り地べたを蹴った。

 海斗はどこか、死というものを目の前に見ていた。

 一という数が、千単位のものに挑みかかる。

 よくあそこであんなことを言えたもんだ。俺は授かった命を、違う世界で散らすのか。なんであいつの本心を吐かせたのか。思えば、あいつが苦しむ理由をあんなに知りたかった心境も、なんでこんな戦いをしてあいつを助けようとしているのかも、いまではもうわからない。身体と心が、別にあったような気がする。

 海斗はバルバロッサとの会話を、走馬灯のごとく脳裏に浮かばせた。


「まかせときな」


 俺は、あいつの涙を見て、気付いたらそう言っていた。そしたらあいつの目は、信じられないものを見たかのように、少しだけ大きく開いた。


「お前を花嫁の座から引きずり落としてやらァ」


 俺が背を向けたから、そのときの顔は知らない。

 ただあいつはなにも言わなかった。

 だから、気になったんだろうか。最後に見たかったんだろうか。


「結婚前に、ほかの男で泣く女が嫁なんて、あっちがかわいそうだ」


 俺はそう言いながら、少しだけ振り向いた。泣いたまんまだった。

 キレイな顔をブッサイクにさせて泣いてた。


 あの言葉も不思議だった。なんで最後に、あんなことをいってしまったんだって、その時も思っていた。

 間違いなく自分の言葉だった。自分の意思で言った言葉だ。でも、自分のもんじゃないような気もした。そう感じるくらい、あまりにも自然に出てしまっていた。

 不思議な時間だったよ、そのときからいままで。

 自分は違う世界の住民……だから、ここで誰が悲しんでいようが俺には関係ない。俺はさっさとあいつに頼んで帰ればよかったんだ。

 でもどうしてだ? どうして戦っているんだ? 帰らせてもらう礼として戦おうなんて思ったのか? バカかよ、死んだらどうすんだ。

 じゃあ同情か? 違う、そんなもんでこんな気持ちになんかなりゃしない。


 海斗の全身から、なぜ、が尽きなかった。

 海斗は、なぜこんなにもバルバロッサを特別視しているのか、わからなかった。

 そして気づけば、モグラが目の前にいた。 

 海斗は渾身の一振りを、口開くモグラの鼻先に送った。

 もしかしたら届かないかもしれないと、届く前に目を閉じた。


 当たった感触はしなかった。なにかが、地面を弱く叩きつける音がした。

 海斗は悟った。木刀を握った腕が、食いちぎられたと。その音は腕か手か、どこかのおアーツが落ちた音だと。

 まだ痛みはないが、そのうち来るだろうと。

 さぁくるぞ、叫びあげる痛みが、血が延々と吹き出る現実が。

 さぁこい、覚悟はできたと目を、強くつぶった。


 だが、一向にそれはこなかった。

 そればかりか、走り抜けたモグラが背後で叫びが聞こえた。

 おそるおそる目を開けて、モグラに目を向けるまで、ピンクのぶた鼻のようなものが血だまりのなか落ちているのが見え、そして、目を穿たれたときよりももっと手足をふって、ねずみ花火のように暴れる姿を見た。

 呆然として立っていると、ふと、その向こう側に、緑の天の川が見えた。

 それに包まれるのは、アイナを含めた守護者達。アイナのように手を出している者や、胸元で手を重ね、祈りあげているような者もいた。

 海斗は先ほどよりもとんでもなく軽くなった身体を、左手の開閉で確認した。


「お前は罪な男だ。

 お前の大ボラは姫だけじゃなく、私たちをも呑みこんだ。私たちの心をつかみ取ったわけだ、この色男が」


 アイナは微笑んだ。


「だからこそこの戦いで姫を救ってやってくれ。大ボラを大ボラのままで終わらせないでくれ。……頼む」


 海斗は背中で、ワイザのたかぶる、冷たい殺意を、憤りを感じ取った。一人の人間ではとても背負いきれないものであった。

 しかし、海斗はその中で表情を変えず、アイナと同じく微笑んだ。


「善処すらァ」


 風が、徐々に強くなり始めた。



 結婚前に、ほかの男で泣く女が嫁だなんて、あっちがかわいそうだ。

 私の頭では、ラーファがどこかに行ってからずっと、この、彼の言葉が再生されている。

 彼の目は、本当で、本物だった。

 嘘なんてなく、私を本気で助けようとしてくれていると思った。

 なぜなんだろうか。なぜ、彼は、私に手を伸ばしてくれたのだろうか。

 あぁ忘れていた。会話に夢中になって忘れてしまっていたが、彼は元の世界に戻るために私を訪ねたのだった。

 ではそのお礼? ……そんなもので命をはるのだろうか。

 では単なる同情? ……それでもないような気がする。

 なぜ、が尽きないなかでも、言葉の再生が止まらない。

 そしてそのたび私が、最低な女だということを理解する。男で泣いて、子供を泣かすのだから。

 でも、でも。勝ってほしい。助けてほしい。

 そんな思いも止まらなかった。


 二人の女をそれぞれの自室に返したバルバロッサは、両手を窓につけ、無表情の顔と、弱く潤んだ瞳を、海斗の方へと向けていた。

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