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仕事はじめ

~仕事はじめ~


5月。すこしだけ寒さが和らいだ気がした。太陽の光を少し感じられるような日もあるが、肌寒いことには変わりない。

五月晴れという言葉があったらしいが、今の日本はたいてい曇天だ。

だが、その日は少しだけ晴れ間が見えていたので、家を出るのには心地よかった。

紺のスーツにネクタイ。マフラーは雪がくれた黄緑色のものだ。コートはベージュ。これは自分で購入したが、選んだのは雪だった。

身近に雪がいるから涙を流すことはない。だが、たまに思い出す時がある。不意にだが。

このままでいいのだろうか。

だが、新たな恋をするまで私の心は回復していないのだろう。ぽっかりあいた穴を感じている内は恋などできそうにない。

駅に向かい電車に乗る。行き先は霞ヶ関だ。満員電車に揺られながら、この圧迫骨折しそうな電車にもなれないといけないのだろうと思った。

電車は人が多いためか空調が聞いていないように感じた。空気が薄く、そしてなんともいえない暑さがあった。駅に近づいた時にドア付近に江見がいるのがわかった。

霞ヶ関駅で降りるときに「おはよう」と声をかけただ、江見は一瞬私を見てそのまま歩き始めた。

無視ですか。まあ、いきなり愛想よくなられてもびっくりしますけれどね。

私は気にせずに歩き始めた。どうせ行き先は同じなのだから。私は少しだけ江見から距離を取って歩き出した。

いつも思うのがどこからこれだけの人が現れるのだろうと思う。

階段をあがり地上にでる。配布されたIDカードで入場し、エレベーターで上がっていく。

建物自体は大きいが構内はまるで学校のようなつくりだ。しかも一部屋ごとがやけに小さく感じる。

配属されたのは632という番号の部屋だった。

入口に別に部署の名前があるわけでない。

「失礼します」

大きな声で部屋にはいった。部屋には机が7席あった。

手間の席に江見が座っている。一番奥にいた男性が立ち上がってこっちにやってきた。

男性は40代くらいなのだろうか。ダークブラウンのスーツに同色のベストをきている。シャツは薄い茶色でネクタイは濃い茶色だった。全身茶色の人だ。

背は高いのだろうが猫背のため視線はそこまで高く感じない。細身のその体系は不健康にしかみえなかった。

いや、不健康を感じさせたのは頬がこけていて目の下にくまがあったからかもしれない。

そして、なんともいえない目つきをしていた。言うならば生気がない感じだ。さらに無精ひげがまたやる気のない感じを加速させていた。

その男性が言う。

「あ~君が配属された中村七海くん?ま、よろしく。私は奈良原といいます。一応このセクションの責任者をしています。どうかよろしく」

棒読みのように、そしてゆっくり話すその仕草になんだか怖さを感じた。覇気がないだけにも見えるが目線が一切ぶれないのだ。怖さを振り払うために私は大きな声で「よろしくお願いします」と言った。奈良原はだが気にせずこういってきた。

「中村くんの席はここだから。今日の指導は横に座っている八重くんが担当だから」

そう言うとすぐに奈良原は奥の席に戻った。私の横には黒縁のメガネをかけて髪は何でかためているのかわからないけれどほとんどの右側にわけていた。全体的に短いのに無理してわけていて、ワックスか何かで固めているのがわかる。年は少し上なのだろうか。まだわかそうだった。

「中村くん、よろしく。すぐに出かけるから準備をしておくように」

それだけを言われた。とりあえず自分の席と言われた場所に座って引き出しをあけてみる。

右側一番上の引き出しに入っていたのは文房具。下の引き出しには何かのファイルだった。ファイルの背表紙には人頭税滞納者リスト(20)とあった。インデックスには市区町村がかかれていた。その様子を見ていて八重先輩が行ってきた。

「それは今後追いかけてもらう案件になるけれど、まだ滞納2ヶ月だから大丈夫だよ。今月はこっちから追いかけるから」

そういって見せてくれたのは滞納者リスト(50)というものだった。

括弧が何を指しているのかはすぐにわかった。ファイルにあるのは個人情報。そこに共通しているのは年齢だった。そう、この50というのは50代ということなのだ。八重先輩が言う。

「50代の滞納者はプライドが邪魔をして仕事につけていないだけだ。だからどんな仕事でもいいからするように指導しないといけない。まあ、それも多くの人がその行動を望んでいる時はそうなんだけれどね。今日は50代の滞納者を農場に見学に連れて行くのを手伝って欲しい」

農場といわれて保護観察のこと、国営農場のことだとわかった。実際話には聞いていたがその農場を見たことがなかったので見てみたいと思っていたからだ。

ふと目線をあげると向かいに江見が私を見ていたのがわかる。

江見の指導は江見の横に座っている宮古という女性が指導をしている。男性の指導は男性、女性の指導は女性が行うという事なのだろうか。どうやら江見とは別行動らしい。実際どうでもいい話だ。江見の凍てつくような視線は印象に残るがタイプというものではない。どちらかというと横に座っている宮古という女性のほうがかわいらしい感じである。

ショートカットで大きな目をしていて、明るくテンポ良く話すその声が魅力的だった。多分まだ20代だと思う。彼女が、雪がふんわりしていたかというとまた違うかもしれない。

雪はかわいいというより美人と表現されることが多かったかも知れない。けれど、私には雪が笑った顔は誰よりもかわいいと思っていた。

だからこそ、あの笑顔があったからこそどんな苦難も乗り越えられると思っていた。

そう、思っていたのは私だけだったのかも知れない。私はふいに思い出した雪のことでまた胸が苦しくなった。

大丈夫、この苦しみは胸に雪がいるからだ。今雪とともにいるんだね。目を閉じるとすぐそばに雪がいるように感じた。

私はそう思うことで苦しみが安らぎに変わっていった。

「では、行こうか」

八重先輩の声が私を現実に引き戻してくれた。

移動した先にはマイクロバスがあった。八重先輩が言う。

「中村くんは運転大丈夫だよね」

私は渡されたキーを受け取り運転席へ向かった。行き先はナビに指定されているので問題なかった。

まず向かったのは公民館だった。そこにはその市にいる50代の人頭税未納者が集められていた。

人数は10名。このマイクロバスならギリギリ入る人数だ。

公民館の駐車場にマイクロバスを止めると八重先輩が外に出た。迎えに来たのは警官だった。派出所勤務者なのだろうか、警察の制服を着た、少し怖そうな顔をした中年の人だった。

その警察の方が言う。

「指定があった家を訪問して全ての方に来ていただきました。事前通知があったため皆さんスムーズでしたよ。農場での勤務も視野に入れている人も多いみたいです」

私は集められた50代の方を見た。皆憔悴した感じがする。あそこまで自分に自信がなくなってしまってはどこにいっても仕事につけない可能性がある。

大学でもそういう学生はいたけれど、大学生にはまだ成長するための時間がある、けれど目の前にいる人にはその時間もない。即戦力として働いてもらうにもここまで憔悴しきっていたらもうどうにもならないように感じてしまった。

こういう現実を見てしまうとなんとも言えない感じがした。八重先輩が言う。

「はい、私は今日皆様をご案内する八重と申します。宜しくお願い致します。そろそろ皆様も自分の行く末も気になっている頃だと思います。そのため、次に勤務する可能性が高い国の指定農場を見学していただければと思っております。もちろん、見学で気に入っていただければそのまま居住し仕事をしていただくことも可能です。それでは、皆さんバスにお乗りください」

そう言って、一人、また一人とマイクロバスに乗ってきた。誰一人として何も語らない。まるでこれからこの世の終わりにでも連れて行かれるような感じだ。全員が乗り終わってから私はバスを発車させた。

今日の結果がどういうことになるのかをまだ私は知らなかった。そう、まだ何も知らなかったのだ。




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