【競演】 意識の海の全書
SMD様主催第三回競演出展作品です。
テーマは出会いと別れを少しづつ……
意識の海にぽつりとたたずむ、世界の全てが記された一冊の本。
訪れる人に知識をもたらすその本が、どうしても知りたいひとつの事。
全てが記された本がありました。
例えば、世界がどのように誕生したのか。
例えば、世界はどうして滅びるのか。
どんな知識も、人知の及ばない謎でも、何もかもが刻銘に、それはもう刻銘に記されていました。
しかし、その本にはひとつだけ……そう、たったひとつだけ書かれていないが事柄がありました。
多くの人々がその本を求めました。
それは当然でしょう。
万病に効く薬、不老不死、土くれから黄金を作り出す方法。その本を手に入れることは、すなわち世界を手に入れる事と同義なのですから。
曰く、その本は森のさらに奥、未踏の地に置かれている。
曰く、その本は空の天辺よりもずっと高い所にある。
曰く、その本は深い海の底に眠っている。
人々はそう噂し、また探しだそうと躍起になりました。けれど、誰もその本へと至る道を見つけ出すことはできませんでした。
本は一冊で、ぽつりと佇んでいました。
果てなく続く意識の海で、波間に揺れる一片の枝のよう、進むわけでも、また戻るわけでもなく。本は静かに漂います。ゆらゆら、ゆらゆらと……
ゆれる意識の海は水に似て、ときに宝石のような紫色であり、ときに陶器のような真白でもあり。刻々と色彩を変える姿は、虹のようでもありました。
茜に染まる空は雲一つなく、その姿態を変えることなく、意識の海と本を映していました。
そこは隔離された幻想。形ない夢想。
時の概念からは隔絶された地で、本は静かに待ちつづけています。それが本を求める人をなのか。それとも、自分にただひとつ書かれていないものをなのか。いつしか本自身も判らなくなるほど長い時間。
ある時でした。淡々と色彩を変える万華鏡……意識の海の上で、ひとりの男の子がぽつんとしゃがみ込んで泣いていました。
本は訊ねました。
―――どうして泣いているの?
男の子は答えました。
「お父さんが重い病気にかかっちゃったの」
本は知っています。それが彼の時代では不治の病だということを。
医者にかかるお金もなく、仮にあったとしても助かる見込みのない病。
すでに亡き母を想い、日に弱ってゆく父を想い、途方に暮れる男の子はさめざめと泣きました。
男の子が暮らす時代は、子供ひとりで生きていくには余りにも厳しい時代でした。
本は暫く考え、それからサラサラと自らのページを開きました。
―――この薬なら、お父さんは助かるよ。
彼は泣き止んで言いました。
「ほんとう?」
―――本当だよ。さあ、早く読んでごらん。
促された男の子は食い入るようにページをめくります。
記されていた内容は、小さな男の子には到底理解できるはずのない難解なもの。けれど不思議に、彼はすっかりと覚える事ができました。
「ありがとう」
読み終わった男の子が立ち去ろうとした間際、本は「ねえ」と、呼び止めました。
―――ねえ、教えて欲しいことがあるんだ。
「なに?」
それはもう何度目になるのか分からない問い。
知りたいと切望し、それでも届かないもの。
―――僕は、いったい何?
男の子は目をしばたたき、
「ごめんね。ボクには分かんないや」
そう言い残して、消えるように去りました。
残された本はこうしてまた、知る事ができませんでした。
―――誰の、どんな質問にも答えられるのに。
消えた背中を追いかけるように、ぽつりと呟きました。
呼吸もしなければ、肩と呼べるものもないけれど、落胆に肩を落として大きく溜息をついたようでした。
……嗚呼。
見渡すかぎりの一面に、たゆたう静かな海原は、
意思の色を濃く映し、広く深く、とめどない。ひと時として同じ色を残さない。
空は雲ひとつない茜色。
それがはたして美しいのか、そうでないのか、本にはわかりません。
……たぶん、自分がわからないから。本はそう思います。
ここは意識の海。
全ての知識が積もる場所。
華やかなはずなのに、どうしてこんなにも侘しいと感じるのでしょう。
そんな侘しさの中で、無心で空を見上げたのは、どうしてでしょう。
そして1ページ、また1ページとめくってゆく。
どこかにきっとあるはずだと。永遠にも等しい時間の中で、ずっと繰り返してきた行為。
ただひとつ、書かれていないもの。
それは自分の事―――
過去を変えたいと願って訪れた人に、時の流れに逆らう方法が記されたページを開きました。その人に訊ねると、彼はこう答えました。
「君は根源に違いない」
―――……でも、僕は何も生み出していないし、創めたことも始まったこともないけれど、それでも根源と言えますか?
純粋な疑問に、彼がそれ以上答える事ができなかったとしても、誰も責められはしないでしょう。
王になりたいと野望を語る人に、本は今後起きる出来事……つまり未来を見せました。その人は問いかけにこう返答しました
「あなたはきっと真理だろう」
―――記録されただけの知識を真理と呼べますか?
その男は本の疑問を前に、何も言わず立ち去りました。
なにより、彼らが『根源』や『真理』と言ったものは、すでに本の中に記述されているのです。もちろん、そこには本の事などただの一言も出てはきません。
この意識の海で、本は訪れた人に知識を与えています。いえ、むしろ求めたからこそ、人はこの場所に迷い込むのでしょう。
願いそのものをかなえるわけではなく、ただ、求めるものが記されたページを開くだけ。
そして今でも本は問いかけています。
―――僕はいったい何ですか? ……と。
意識の海を訪れたなら、どんな知識を求めますか?
そして、
……彼の問いになんと答えますか?
作者より
この度は 意識の海の全書 を読んで頂きまして、誠にありがとうございます。
作品についての感想、または評価などを頂戴できますと嬉しく思います。