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始まりの地<5>

 宿の部屋を出て廊下を進むと、突き当たりに小さなベランダがあった。ベランダからは村の広場が一望できる。時間はちょうど夕食時、見渡す建物の窓からは明かりが漏れ、家族の団欒だろう楽しげな会話が風に乗って聞こえてくる。スーノはベランダに置いてあるロッキングチェアに腰掛け、背もたれに寄りかかり夜空を見上げる。

 視界を占めるのは満天の星空。現実の東京では到底目にすることのできない星の煌きであり、スーノはしばしの間それに見とれていた。

  

 現実世界では、スーノは東京の外れの保谷という街に住んでいた。その街の夜空には、見ることができる星は数えるほどしか無く、夜空を見上げるのはいつ以来かなんてスーノは覚えていなかった。

 椅子に座り夜空を見上げながら今日の出来事の記憶を呼び起こす。この世界への転移、杏奈との出会い、この世界での初めての戦闘。信じられないことばかりだったが、この静かで落ち着いた夜の空気の中で思考が整理されてくる。

 知らなければならないのは、エルダーテイルの世界に酷似したこの世界のこと。

 しなければならないのは、アキバへの帰還。

 とにかく情報が足らなかった。一人でどう足掻いても、集められる情報量は高が知れている。

 ここは助けを借りるしかない。できるならギルドの仲間に連絡を入れたくは無かったのだけれど、こうなってしまっては仕方ない、とステータスウインドウを開き念話の準備をする。


 正確な時刻はわからないが、今は夜の帳が降りたばかり。今なら時間的にも迷惑にはならないだろう。

 もっとも、こんな異世界へ転移させられたような状況では、迷惑も何もないかもな。などと、考えながら、スーノはため息を吐きつつ、フレンドリストの名前をタップした。

 何回かコールが鳴った後、念話が繋がれる。


「はてさて記憶に無いお名前からの念話ですね、どちらさまでしょう」


 低音の耳触りの良い声がスーノの耳に響く。その落ち着いたリズムが心地よい。


「突然の念話失礼します。僕はスーノといいます」

「ふむん、どちらのスーノさんでしょうか。でもこの声はどこかで聴いた記憶がございますね」

「ビクトルって言えば、分かってもらえますよね」


 数秒の沈黙の後、


「ほほう、そうですね、この声はビクター君ではないですか」

「・・・ビクトルです」


 ちなみにゲームの殆どの知り合いが彼のことを「ビクター」と呼んでいて、「ビクトル」とは読んでくれなかったのが、スーノ・菅原直人にとっては大いなる不満だった。

 アイツがビクターっていつも呼んでいたから、誰も彼も僕のことビクター呼ばわりじゃないか。確かにそちらのほうが発音し易いのはわかるけど、僕はどこかのオーディオメーカーじゃないやい。

 なんて文句を言っても、文句の矛先のはずのその友人は、今のこの世界にはいないけれど。


「たしかにこの男性にしては微妙な、でも女性にしては無理のある声はビクター君ですね」


 声質の件はスーノ・菅原直人にとっては、少年期を過ぎ声変わりを終えた頃よりコンプレックスに感じていたことだった。さすがにこの年齢になってしまえば、もう声の高さを気にするようなことはなくなったけれど、やっぱりこういう風に覚えれられているのね。スーノは苦笑い浮かべる。


 菅原直人の現実世界の身長は160cmにギリギリ届かないくらい、本人は頑なに160cmだと主張するが、そうムキになる度に周囲からは生暖かい態度を取られていた。体型も細身でその身体に合わせるように声質も高かった。

 スーノ・直人がエルダーテイルを始めたのは八年前。そのころはまだそのコンプレックスに悩まされている頃で、その裏返しでエルダーテイルで初めて製作したのは高身長でレスラーのようながっしりとした体格のキャラクターだった。

 しかし今現在の身体は、ほぼ同じ身長のキャラクターの<森呪遣い>のスーノである。


 余談だが、もしビクトルの体型でこの異世界に出現していたなら、その身長差から歩くことが精一杯で、戦闘などまともにこなすことはできなかっただろう。そういう意味では、スーノは幸運だったと言える。


「いやいや、それを言うならこの状況でも相変わらずの渋い美声に変わりありませんね、十条さん」


 ほほほ、と紳士然としたダンディーな笑い声を発しながら返事をする男性の名は<十条=シロガネ>、人間族で職業・暗殺者アサシン

 エルダータイルのキャリアは長く、最古参の部類に入る経歴を持ち、ギルド<ホネスティー>に所属しているベテランプレーヤーである。

 その声は響きの素晴らしいバリトンで、その長いエルダーテイルの経歴でわかるように年齢もかなり重ねており、すでに中年の域に入っている、と十条自身が話している。

 そして昔は熱心に戦闘を行い、レイド攻略に勤しんでいたらしいが、現在ではもっぱらチャットメインの活動に留まっている。

 本人によれば、仕事が急がしくなり、昔のように長時間のログインは行えないから、本格的なレイド攻略のような遊び方はもう無理、とのことだ。

 それでもアップデートごとのレベル上限の更新時にはきちんとカウントストップまでのレベルアップを行っているのは、長年の癖なのか意地なのか。もちろん昔取った杵柄で、今でも大規模戦闘のスキルは一線級であり、気が向くときはレイド攻略のヘルプにはいることもあった。



「しかしながら、なぜ名前が違うのですか?スーノさんとはイヤに可愛らしい響きでございますね」

「実は・・・」


 スーノは、これまでの状況を説明する。できるだけ要約して説明したつもりだが、それでも30分ほどの時間が掛かる。特に重点的に説明したのは、杏奈のこと。このことが今一番の難問である。


「なるほど。全くゲームと関係ない人物が、この異変に巻き込まれてしまったということですか」


 話すべきことが多すぎて、自分でも要領を得ない説明だったと思ったのだが、十条はスーノのまとまらない説明から重要な事柄を抜き出し整理する。


「その状況では帰還呪文を使うのは無理でしょうね。杏奈さんはどこに飛ばされるか定かではありません。実際に歩いて帰還するにしても、容易なことではないでしょう」


 ホネスティーはアキバでトップクラスの戦闘ギルドだ。特色はゲーム内の情報の蓄積と公開である。エルダーテイルの地理情報から、他のギルドでは秘匿されて当然の大規模戦闘攻略方法やそこでで得られる情報を積極的に公開していた。その情報量は他ギルドの追随を許さないほどである。

 そしてそのギルドのメンバーである十条の判断はスーノと同じものだった。やはり帰還は簡単にはいかないと考えるべきだろう。


「出来るなら救出要員を送り出したいところですが、残念ながらアキバの状況も予断を許さないものになってきているのですよ・・・」


 十条の語るアキバの現状、それはスーノの想像していた通り、いやそれ以上に良くない状況だった。混乱と停滞、絶望と無気力。あのプレーヤーで溢れ賑やかだったアキバの街が今では死んだように落ち込み、活気を失っていた。


「アインス先生も、まずギルドメンバーの安全と生活を重視すると宣言されました。現在も多くのギルドメンバーが不安を抱えギルドホールに集まりつつあります。申し訳ございませんが今の状況では助けを出すのは中々難しいことかと・・・」


 十条の言葉が重く沈む。そこからも現在のアキバの状況が伺い知れる。それも無理ないだろう、とスーノも納得するしかない。

 混乱と停滞、絶望と無気力。自分もそういう負の感情に囚われてしまっていた可能性は大いにあった。それから逃れられたのは、エンジと杏奈の存在があったこそだ。この一人と一頭がいたからこそ、その存在に助けられ、自分がしっかりしなければ、と奮起できたのだ。

 助けられているのは、他の誰でもなく自分自身だ。そうスーノは思っている。


「もちろんです。それはこちらで対処します。そもそも今の僕はホネスティーのメンバーではないですし」

「申し訳ございません。なにか問題がありましたら連絡ください。私にできることならば助力を差し出すのはやぶさかではございません」

「ありがとうございます」


 スーノの表情に力が戻る。とにかくやらなければならないことははっきりしている。後はどう実行するかだ。


「ところで、食事はされましたか」

「ええ、味無いですね。参りましたよ。やっぱりアキバでも同じですか」


 ため息混じりに十条が聞いてくるが、それを受けるスーノの声にも張りはない。

そして、「アキバでも同じということは、こちらの土地のせいってことではないんですね」と続ける。

 味の無い食事、その衝撃と落胆は、この世界に転移させられ落ち込んだプレーヤーに追い討ちをかけるように襲ってきた。つい先ほどその衝撃と落胆を味わったばかりのスーノであるが、十条からその詳しい内容を教えてもらった。

素材には味があること。

 しかしその素材を使用して料理コマンドで製作すると、出来上がるものは、見た目は良くても食感と味は水でふやけた段ボールのような物体になっていしまうこと。

 その段ボールのような物体も、食べれば問題なく消化され、おそらく栄養がありエネルギーとして摂取可能ではないか、と予想されること。

 すでにアキバでは素材の買占めが始まっており、店頭から食材の姿が綺麗に消えてしまったこと。


「なるほど、了解です。ところで十条さんはお酒は試しました?」

「いやいや、さすがにまだ飲酒を嗜む気にはなれません、私の周りでも試されたという方はおられなかったようにお見受けいたしますが」

「はは、じゃ僕たちが最初の被験者ってことですかね。お酒も同じで味は無いです。けどアルコールは入ってるみたいですよ。きっちり酔いますし」

「おやおや、ビクター君は豪胆な性格ですね」

「呑んだのは僕じゃなくて杏奈ですけどね。僕は舐めただけです。杏奈はすでに酔いつぶれてベッドで寝てますよ」


 ははは、と呆れた様に笑うスーノ。十条もその話に興味を持っているようだ。


「ほほう、どうやら愉快なお嬢さんのようですね。是非お会いしたいものだ」


 念話の向こうで、ダンディーな相貌をした紳士がにやりと笑っているのが手に取るようにわかる。

 そして、更に「ところで」と十条の台詞は続く。


「杏奈さんの外見はいかがなものですかな?もちろんお美しいのでしょうな」


 始まった。この人の悪い癖だ。

 とにかくこの十条というお人、女好きである。特に胸部の周長が大きい女性への執着は甚だしく、そのこだわりだけで一晩語り明かせると豪語するほどだ。もちろん、そうでない女性も十分守備範囲に入っているらしいが、どうしても彼の興味が胸部の数値からあらわされるその外観と出で立ちに向かってしまうそうだ。

 「女性という存在には貴賎などございません。しかしながら私の狭量なる心がおっぱいを求めるのでございます」との言葉を苦痛に耐えるかのような歪んだ口調で、あたかも血を吐きながらのごとく吐露しているのを見た男連中は、「このおっさん、壊れてる」と誰しもが思ったものだ。


 このような難儀な趣味をしているが、実際女性の前に立つと強靭な自制心を発揮し、その奇特な言動がその口から発せられることは無く、まさしく紳士然とした態度を貫き通すため、女性からの批判を受けることはほぼ無い。

 そればかりか、ベテランプレーヤーの豊富な知識、そしてその甘いバリトンボイスと紳士然とした立ち振る舞いから、多くの女性プレーヤーからの信頼を勝ち得ている。

 スーノとしても、その女性への敬意を持った態度だけは、男子として尊敬に値すると考えている。が、こうも考えている。女性プレーヤーの皆さん、あなた達は騙されてますよ。


 ところで、女性からの批判が”ほぼ無い”ということは、その珍妙な性癖がたまに隠し通せないこともあるということだ。

 それは親しい間柄の女性、だいたいギルド内の近しい女性、に対してなので、その問題が広まることは無いというのが良いことなのか悪いことなのか。

 ちなみにこんなおかしな人間なのだが、何故か男性からの批判も受けることが無いのは不思議なところだ。このあたりは人徳ということだろうか。


「まあ、そのへんは実際に合ったときの楽しみにして下さい。たぶん十条さんの期待を裏切らないと思いますよ」


 それは期待が膨らみますなぁ」などと十条は機嫌よく話す。

 もしゲーム時代のアバターと似た外観だったら、たぶん十条さん、にやけながらて口ひげを撫でているんだろうなぁ

 スーノにとって、その映像を想像することは呼吸をすることと同じくらい容易であった。






「それではお酒の件、先生にも報告しておきます」


 それで、と十条は言葉をつなぐ。


「先生にはビクター君、いや、現在はスーノというお名前でしたか、あなたがこちらにいることを伝えておきますが」


 スーノの額に汗が流れる。あまり今の自分ことは表に出したくない。表に出れば、否応も無く今の身体のことも説明しなければならないだろう。これは問題の先送りなのはわかっているが、それでもなんというか男の矜持というか、できるだけ秘密にしておきたいのがスーノの本音だ。


「いや、とりあえずそれは無しで、匿名情報ってところでよろしくお願いします」


 それを耳にした十条が意味ありげな物言いで、話しかけてくる。


「なるほど、確かに女性の肉体になっていることを皆に知られるのは、気が引けますか」

「・・・えっ、ちょっ、どっどうしてそれを?!」


 念話の向こうから、十条の含み笑いが聞こえてくる。


「ふむん、やはりそうでしたか」


 スーノの顔から血の気が引いていく。

 やられた、鎌を掛けられた。

 してやったりという、十条の黒い笑みを浮かべた風貌が目に浮ぶようだ。

「にょほほ、ここまで簡単にゲロするとは思いませんでしたよ」と笑いながらの十条。

 スーノは焦り、どうにか誤魔化そうと言い訳を探すが、どれだけ思考を巡らしても十条を言いくるめることが出来そうな言葉を見つけることはできなかった。


 十条はスーノがエルダーテイルを始めたばかりの頃からの知り合いで、その頃から何かとスーノ、当時は守護戦士のビクトルだったが、のことを気にかけてくれていた。スーノがギルド<ホネスティー>に入ったのも彼の誘いがあったればこそだった。

 長い付き合いだが、この人は察しが言いというか、相手が語る一から十を読み解くというか、とにかく十条相手には昔から隠し事が出来なかった。

 今回も案の定、知られたくない事情をあっさりと看破されてしまい、スーノはどうにも返事のしようが無く、その口はあわあわと言葉にならない声ではない音を発するだけだった。


 男子たる者、女体の魅力に惹かれるのは当然の欲求ですぞ、何も恥じることなどございません。そしてその先に女体化の願望を持ったとしても、それは無理からぬこと。この十条、あなたの心意気、我がことのように理解できますぞ。

等々念話の向こう側で、十条の口の回転が加速していく。あのおっさん、ここぞとばかりに調子に乗りやがって・・・


「これは早急にアキバに帰還してもらわないとなりませんね」


 その言葉を聞き、頬の火照りに顔を伏せるスーノ。念話機能が音声のみで本当に良かった。映像までついていたら、真っ赤に染まった顔を見られ、更にからかわれるところだった。


「情報ありがとうございました。また連絡します」


 そう早口で畳み掛け、スーノは一方的に念話を切断する。

 フレンドリストには自分が一方的に入れているだけで、十条のリストにはスーノの名前は無いので、彼の側から念話を繋げることはできない。

 ふう、とスーノは息をつき、ロッキングチェアの背もたれに身体をもたせ掛ける。ギィと木が擦れる鈍い音を響かせてチェアが前後に揺れるが、身体の大きさがチェアのサイズにいまいちフィットせずに、その姿は孫娘が祖父の椅子に座っているようだ。知らぬ間に足元にエンジがやってきて座り込んでいた。その頭を撫でてやると、エンジは気持ちよさそうに喉を鳴らしていた。


















 翌日から、杏奈も戦闘訓練に参加するようになった。

 スーノ一人の戦力では、アキバへの帰還を達成することはどう検討しても不可能で、杏奈の守護戦士の能力がどうしても必要とされたからだ。

 前衛、守護戦士の安奈とバックアップの神呪遣いスーノ、アタッカーとして契約獣の山犬エンジ、最低限の構成のパーティーともいえるが、スーノは各自が自分の役割を自覚し連携を研鑽すれば十分いけると踏んでいた。しかし実際に戦闘訓練を始めてみると、このパーティは思ったように機能しなかった。

 やはりネックは杏奈だった。

 杏奈はレベル90の守護戦士ではあっても、実際にはゲームとしてのエルダーテイルの経験は全く無い。まずその面で戦闘というものを一から学ばねばならない。さらにこのリアルになった世界での戦闘では、実際に身を削り恐怖を克服しなければならず、またこの面でもハードルが高い。

 前日のスーノのように、ベテランプレーヤーであっても、この世界での戦闘に適応するのは簡単なことではない。ゲームと違いリアルの恐怖を克服しなければならないからだ。さらに杏奈の場合は、それに追加してエルダーテイルの戦闘についての学習も新たにしなければならず、他の冒険者よりもさらに難度は高くなっていた。


 二人と一頭は、昨日スーノが戦闘したエリアに到着する。


「ここのまものは、このパーティーならば殆ど脅威になることはないよ。杏奈は事前の打ち合わせどおりにまものを引き付けてくれたら、防御に専念して」


 その指示を杏奈は聞き取れたのかどうか、その表情は硬かった。

 スーノは、「頼むよ」とエンジの身体に手を添える。エンジを先頭にし、パーティーは警戒を厳にしつつゆっくり進んだ。本来なら、守護戦士が先頭に立ちまものに先制をかけるのが定石だが、今の杏奈にその役割を担わせるのは無理がある。だがアキバに帰還するには、いずれはその仕事を守護戦士である杏奈に担ってもらわなければならない。


 周囲の気配が殺気立ってきた。どうやらまものが集まってきているようだ。エンジも身体を低くして、うなり声を上げ周囲を警戒している。

 戦闘が始まりそうだ。スーノは獲物の薙刀を構えた。















 最初の戦闘は無事勝利に終わる。しかしその内容は惨憺たるものだった。

 エンジとスーノのフォローのおかげで、どうにかまものを撃退し戦闘を無事終了させることができたが、この戦闘で杏奈は構えた盾に縋り付くだけで何もできず、立ち尽くし顔面を蒼白にさせ恐怖に震えていただけだった。

 スーノは一旦パーティーを安全なエリアまで後退させる。

 周囲の警戒をエンジに任せ、スーノは座り込んだ杏奈に水筒を渡す。杏奈は差し出されたそれを受け取ろうとするが、指先が震え上手く水筒を掴むことができない。


「あれっなんで・・・」


 笑いながら震える右手を反対の手で押さえながら水筒を受け取る。無理に作ったその笑顔は引きつりぎこちない。


 隣に座るスーノは何も言わない。

 杏奈は水筒に口をつけ、煽るように呑む。口から水がこぼれ胸元を濡らしているけれど、そのことを気にする余裕は杏奈には無かった。

 無言の時間が二人の間を流れる。


「やっぱり怖いかい」


 スーノの言葉に、杏奈の身体がビクッと震える。杏奈は顔を上げることができずにいた。


「・・・怖いです」


 スーノは空を見上げる。それは昨日と変わらず抜けるような青さだった。小鳥の囀りが聞こえる。


「だよな、怖いよな」


 スーノとて、この世界のリアルな戦闘に完全に慣れたわけではなかった。当然恐怖もある。

 しかし昨日の経験もあり、杏奈よりは戦闘に対する恐怖への耐性ができてはいた。

 だが、実際には恐怖に震える杏奈がいるからこそ自分がしっかりしなければと、自分自身を鼓舞しどうにか格好をつけているだけだ。


「どうする、戦闘は諦める?」


 杏奈は反応しない。

 もし戦闘を諦めるならば、スーノと共にアキバに帰還することは難しくなる。杏奈にもそのことは分かっていた。

 その場合の対応策についても、スーノはもちろん考えている。

 当然、この場に杏奈を放置すると言う選択は、スーノのプライドからも取りえない。自分が帰還呪文でアキバに帰り、そこで仲間を募り十分な準備をした後、この地まで杏奈を迎えに来る。可能性がある選択肢はこのあたりだろう。しかし必ず迎えに来るとしても、この右も左も分からないこの世界に一人杏奈を残すことは、スーノにはどうしてもできそうも無かった。一番簡単な方法は杏奈が帰還呪文を使い帰還することだが、その場合どこのプレーヤータウンに跳ばされるは不明だ。


 スーノは立ち上がる。


「今日はこれで終わりにしよう」


 杏奈に手を差し出し引き起こす。杏奈は力なく立ち上がった。行えた戦闘は一回きりだったが、杏奈の消耗を考えるとそれ以上のことはできそうもなかった。

そして、この先杏奈に戦闘を強いていいのか、スーノには判断がつかなかった。


十条さんは弓アサシンに違いない。

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