再生<1>
終盤にグロ表現がありますので、苦手な方はご注意ください
小さい頃、僕は車が苦手だった。
路面の凸凹で上下動する車の動きによって内臓を揺すられる感覚が嫌いで、小学校低学年の頃までは車に乗るたびに気持ち悪くなることが多かったように思う。
成長するにつれ体力がついてきたからなのか気持ち悪くなる頻度も少なくなってきたが、それでも子供の頃はあまり車に乗るのが好きではなかったような思い出がある。
やがて成人して自動車運転免許を取得し自分で運転するようになる頃には、そんなことはすっかり忘れてしまっていたのだが、確かに子供の頃は度々両親に迷惑を掛けていたことを覚えている。
考えてみれば、生まれた街は坂が多いところだった。東京からJRで四十分、駅からバスで十分程度の、当時は住宅街の中に離れ小島のように緑が残る古い街。駅前から続く丘超えのバス通りは曲がりくねっていて、そこを進むバスの車体が大きく揺れていたのを覚えている。
多分、そんな地理条件も乗り物酔いしがちだった子供時代の要因の一つなのだろう。
苦手な車の助手席に小さくなって座っている僕。運転席を見上げると、車窓を流れる街灯のあかりがハンドルを握る女性の顔を照らす。
運転席のシートを一番前にし、小柄な身体でハンドルを抱え込むようにしている特徴的な姿は見間違えするはずも無い、この人は僕の母親だ。彼女の髪型が肩までのセミロングの髪型だったのは、ずいぶん昔のことだったのではないだろうか。確か僕が高校生の頃にバッサリ切って、ベリーショートのヘアスタイルにしたはずだ。
◆
小柄で童顔な母親を、僕はある時期嫌いになった。
自分の身長が人より低くて、顔立ちも女の子みたいだって苛めらるのは母親のせいだと。
今になって思えばただの八つ当たりでしかなかったのだが、当時はそれが人生を左右するほどの重大な問題に思えたものだ。
それに苛められた、といってもたいしたことは無くせいぜい親しい友人からからかわれる程度だったのだけれど、多感な小学生時代の一時期、僕は軽い引きこもりになっていた。もしかしたらそのまま部屋から出られず、子供時代を無駄にした可能性が在ったかもしれない。
その頃僕は反抗期をむかえていて、そもそも苛められている(と僕は思い込んでいた)原因の根本は母親(の容姿の遺伝)であると、そんな理由で母親を拒絶するようになっていた。
父親は自動車部品メーカーの製造ライン設計の技術職で、当時は出張を繰り返す毎日だった。
大人になった今の自分から見れば、彼は人間的にはそこそこ頼り甲斐もあり、優しさも厳しさもほどほどにバランスされた平均的な父親だったと思う。だけれど子供としては、助けて欲しいときに家にいないのでは、それだけで父親失格だと決め付けるに十分だった。
だから僕は扉をノックする父親に対してドアを開けることが出来なかった。
何度も言うけれど、今になって考えればその当時の自分の行いは本当に子供の八つ当たりでしかないのだけれど、結局そんなことが原因となって子供時代とその後の人生すら無駄にしかけていた僕を助けてくれたのは、物心つく頃から傍にいてくれた飼い犬、シベリアンハスキーのオスだった。
「彼」は僕よりも二年ちょっと早く菅原家に迎えられた。当然だけどそのころの記憶は僕には無い。けれど僕が乳飲み子の頃から僕の傍にいたそうだ。
始めて「彼」と触れ合う者は手を出すのを躊躇するぐらいの、一見怒っているようにも見える顔つきをしているけれど、その外見とは裏腹な明るくそれに優しい性格をしていた。
幼い僕が泣いている時は何をするわけではなかったけれど必ず一緒にいてくれた。それまでの僕の記憶の中の映像には、必ず「彼」の姿があった。
だから自分の部屋に引きこもり、両親の話しかけにも満足に応えなかった時も、「彼」が自分の傍らに来ることだけは拒絶できなかった。
そして、引きこもる自分を再び外の世界に連れ出してくれたのも「彼」だった。
◆
車の窓の外を見慣れた風景が流れる。母親が運転する車はここの所何度も繰り返し往復していた道を進んでいる。
時間は日付が変わったばかり。いつもなら必ず車の後席に陣取り、運転席と助手席の間から大きな頭を伸ばしている「彼」の姿が今は無い。
運転席の母親の顔も強張り、せっつかれる様に車を走らせる。
深夜のバス通りは走る車も殆ど無く、人気の無い道を街灯とヘッドライトが照らす。目の前の信号が赤に変わる。いつも通り母親の運転は雑で、ブレーキで前のめりになった車が減速のおつりを貰い停止する瞬間に前後にガクンと揺れる。
[この先には行きたくない]
だんだん自分が置かれている状況を思い出してきた。
一時間前、深夜に電話が掛かってきたこと。
電話を受けた母親が真っ白な顔色で、寝入ったばかりの自分を起こしたこと。
いつも一緒にいるはずの「彼」が今この場にいないこと。
そしてこの道の行く先が何処に向かっているのか、ということも。
不安に膝を抱え、シートの上で丸くなる僕。
この時の気持ちは忘れることができない。呼吸が浅くなり、目の前にフィルターが掛かったようになって世界から現実感が失われていく。
そう、これは過去の自分の記憶。
自分の半身を奪われたような、何年もの時の流れを経て、ようやく”思い出”へと昇華することができた、子供時代の悲しい出来事。
[ああ、そうだ。この後、動物病院に到着するはずだ]
今のこの車の助手席に座る自分は、十二歳の小学生だ。その姿を背後から俯瞰し観察するのは二十六歳の現実世界で土木設計をしている会社員の菅原直人でもあるのと同時に、セルデシア世界で<森呪遣い>の職に就く冒険者のスーノでもある。
目に入るのは、運転する母親と一切会話することも無く、窓の外の風景をじっと見つめる十二歳の菅原直人。
やがて、母親の運転する車が、動物病院の駐車場に到着する。
車を降りる母親。
十二歳の菅原直人は、車から降りようとしない。
助手席の窓を叩く母親。それでも動かない直人に母親が助手席のドアを開けて直人の肩に手を添える。
[覚えている。この時何を言われたのか。そうだよ。逃げてたんだよ。怖かったんだよ。見たくなかったんだよ]
母親に説得された十二歳の菅原直人は車から降り、駐車場から建物へと歩いていく。
動物病院の正面玄関、ガラス張りの自動ドアからみえる待合室の灯りは消されていて、非常灯の赤いランプの光に照らされた室内は薄気味悪い。
母親に手を引かれた十二歳の直人は正面玄関の前を素通りして、深夜に訪れる救急患者のために施錠されていない裏口から待合室に入る。
薄暗い待合室で看護師の女性が母親に説明をしている。
自分の耳にもその言葉は聞こえていたはずだけれど、良く覚えていない。
足元を見つめて全てを拒絶する少年の姿を、彼の頭上から見下ろす二十六歳の自分。
[この後、何を見ることになるのか今の僕は覚えている。そしてそれが”十二歳の僕”にとってどれだけ衝撃的で残酷なことだったか、も]
母親が中腰になり、伏せた”僕”の顔を下から見上げる。
[そうさ、何年も掛かって僕はこの記憶を自分なりに消化することができた。悲しい現実から逃げることを止め、この事実を受け入れることができた]
この時の母親の言った言葉は良く覚えている。
「直人は逃げちゃだめだよ。大事な家族なんだからキチンと見送ってやらなきゃ」と。
今になって思えば良く分かる。
逃げたって、現実は消え去らない。
”生”にはいつか終わりが来る。
永遠に続く”生”なんて何処にもいない。
誰しも終わりのある限られた"生”を謳歌し、やがて訪れる”死”は誰にでも平等だ。
それはいつか学ばなければならない大事なこと。
それを母は教えたかったのだろう。
それに母だって辛かったはずだ。「彼」の主だったのは、父では無くもちろん僕でも無く、母だった。そして「彼」と一緒に暮らした月日は僕より長い。
[結局は”傷”を癒してくれたものは”時間”だった。いや、本当に”癒され”たのか?実際は流れる月日が雪のように堆積し、血を流し続ける”傷”を、思い出したくない記憶を覆い隠していただけじゃないのか?]
非常灯の赤いランプでしか照らされていない薄暗い待合室から診療室に続く扉を見ると、扉枠との隙間から光が漏れ、その光が四角くドアを縁取っている。
十二歳の直人には、そのドアの先が足を踏み入れてはならない場所のように思えた。
扉を開き看護師が中に入っていく。
後に続く母親が十二歳の直人の手を引くが、直人は抵抗しその場を動かない。
振り返った母親が直人の顔を見つめる。
扉の向こうの光が逆光になって、母親の表情は直人には良く見えなかったが、それでも彼女が何を言いたいのかは直人にも理解できた。
縋るように母親の顔を見つめる直人に、首を横に振る母親。
直人は諦めたのか顔を伏せ母親の後に続く。扉の向こう側、診療室の中に入っていった。
◆
二十六歳の菅原直人/スーノの意識は診療室の天井付近にふわふわと浮び、この場面を上から見下ろしていた。
母親と十二歳の直人の前で説明を続ける白衣を着た獣医の男性。
彼の向こう側にある診察台の上に、灰色の体毛の大きな犬、シベリアンハスキーが寝かされている。
そこに横たわる犬、「彼」には動きが無い。呼吸をしていれば胸がゆっくり動いているはずだ。寝ていたとしても、その動きがとまることは無い。
だけれど、動かない。
説明が終えた獣医が数歩後ろに下がる。そして「彼」が横たわる診察台に母親と直人が近付いていく。
「彼」の顔を覗きこみ、母親が「彼」の身体を愛おしそうに撫でた。そして目を伏せて、小さく嗚咽を漏らす。
その隣で、恐る恐る「彼」の背中に手を添える直人。
「彼」の身体はまだ体温を失っていなかった。
母親に直人は訴える。
まだ暖かいと。だからまだ生きてるんだと。今は寝てるだけで直ぐに起き上がってきていつものように顔を舐めてくれるんだと。
直人の言葉に、涙に濡れたままの顔を横に振る母親。そして優しく諭すように、直人に語り掛ける。
直人は母親の言葉に納得できず、反抗する。
嘘だ。まだ生きてるんだ、と。頑なに現実を認めない。
それでも、そうしている少しの間にでも「彼」の身体の熱がゆっくりだが確実に失われてゆき、痩せ細った身体から柔らかさが消えていく。
「彼に」に添える手のひらの感触から、直人はそのことを感じ取り、そして戸惑い混乱する。
感情の昂ぶりに身体を震わせ立ち尽くす直人を、背後から母親が抱きしめた。全身の力を込めて、堅く。
母親の温もりを全身に感じる。生きている者と死した者、その違いを直人は心で理解する。
そして、直人の感情が爆発した。
呼吸を忘れたように泣きじゃくる。流れる涙が止め処なく十二歳の直人の頬を流れた。そのまま、「彼」の身体に縋りつき、まだ仄かに暖かいその身体を抱きしめた。
天井付近から、その光景を二十六歳の直人/スーノは見ていた。
覚えている。
物心つく頃からずっと一緒に過ごしてきた家族を奪われたあの時の悲しさを。
十四年の”生”を全うして旅立っていった「彼」のことを。
歳を重ね、もう過去の出来事として心の中で清算出来ていたつもりだった。
「彼」の死から数年後、僕が「彼」の死を乗り越えるのを待って、両親は新しい家族を迎えている。
もう「彼」のことは思い出になっているはずだった。
だけど、その光景を再び目にして、清算など出来ていなかったことを悟る。
見下ろす直人/スーノの瞼から、涙が一滴溢れ出た。
◆
目が覚める。
瞼を数回瞬くと、自分が涙を流していたことに気づいた。指で下瞼を撫でると、指先に冷たい液体の感触を覚える。直人は、誤魔化すように手で瞼を擦り涙を拭う。
背もたれに身体を預け、椅子の中にに沈み込んで寝ていた身体を伸ばし、直人は周囲を見回す。
目に入ってくるのは見慣れた、勤務先のオフィスの風景だ。低いパーティションで仕切られたオフィスの中には誰もおらず、部屋の中は電灯が消され薄暗かった。ブラインドが上げられた窓の向こうも暗く、既に夜が訪れている。
デスクの上のモニターの画面の光が、顔を照らす。不覚にも、残業中に居眠りをしてしまったようだ。
眠気を払うように首を振って、部屋の端にある給湯室に向かう。流し台から洗っておいた自分のカップにインスタントコーヒーの粉を適当に入れて、備え付けの給湯器からお湯を注いだ。
コポコポと音を立ててカップに注がれたお湯が焦げ茶の粉末と混ざり合うと、インスタントコーヒーの安っぽい香りが辺りに漂う。
せめてレギュラーコーヒーのサーバーを置いてくれ、と設計部から会社に要望を上げているのだけれど、会社は一向に動こうとはしてくれない。
まあ、いつものことだ、と、皆もとっくに諦めているのだけど。
カップを持って自分のデスクに戻る。無人のオフィスの中、聞こえてくるのは静かに唸るPCの冷却ファンの音と、自分の立てる足音だけだ。
ギシリと、椅子に座って背もたれに体重を預け足を伸ばす。デスクに置いたコーヒーカップから立ち上る湯気が、モニターの光に照らされて浮かび上がる。
揺れながらゆっくり上る湯気を眺めつつ、直人は見ていた夢の内容を思い出した。
出来れば思い出したくない、「彼」の死の記憶。
子供の頃、家族以上の自分の半身と思えるほど仲が良かった「彼」との別れ。
最近はあの時のことを思い出すことも殆ど無くなり、その記憶が表に出てきたとしても心が動くことは無いだろうと思っていたが、どうやらそれは自分の思い込みだったようだ。
十四年という歳月は、大型犬としては十分に長生きしたといえるだろう。
そう思っていても、胸に空いた大きな空洞に冷たい風が吹き抜けるような、遣る瀬無い喪失感が直人の心を襲ってくる。
この歳になっても、未だににこんな思いをするのか……直人は目を伏せて冷めた微笑みを浮かべる。
「彼」は満足して天国に行けたのかな?
子供の頃から幾度と無く繰り返してきた問いかけ、それを心の中で再度問いかけてみるが、もちろん答えは返ってこない。
「今更こんなこと考えてどうするんだよ」
自嘲するようにため息を吐く。
すると、直人から見て右手にあるオフィスの入り口の辺りから音が聞こえてくる。そこにはオフィスに入ってくる影、その人影が抱えきれないほどの書類ケースを腕の間に抱え込んで両開きの扉を肩で押し開ける。グレーのスーツを着た男性だが、箱に隠されて顔が見えない。
「おっ、まだ誰かいるのか?」
男性が器用にケースを壁に押し付け片手を空けて壁際を手で探る。スイッチを操作しオフィスに電灯が点された。
箱に邪魔されて男性も直人の姿が見えていないが、なんとなく感じる人の気配と、漂うコーヒーの香りを嗅ぎ取り、誰かが残っていることに気づいたのだろう。
「僕です。主任」
「ああ、菅原か。○○川の橋梁の計算書、明日の昼までに提出してくれよな」
「ういっす。今やってます」
結構重いのだろう、ふらつきながら一抱えもあるケースの山を自分のデスクまで運び置いた。苦労して運んで疲れたのか、う~んと唸りながら腰を伸ばして主任と呼ばれた男性が直人のほうに視線を向けた。
そして、首を傾げて目を細める。
「お前、菅原だよな」
「何言ってんですか。そうに決まってるじゃないですか」
「いやぁ、オレも疲れてるのかなぁ。幻覚が見えてるみたいだ」
「主任、働きすぎですよ。また奥さん実家に帰っちゃいますよ」
モニターに向かいキーボードを叩く直人の下にグレーのスーツが大きな足音を立てながら足早に歩み寄る。そして、直人の肩に手をかけ振り返らせた。主任の鋭い視線が直人に刺さる。どうしたんですか?といぶかしげな表情をして直人が主任の顔を見返した。
「お前誰だ?勝手に入っちゃダメだろう」
主任が険しい顔つきで詰問する。
「菅原ですよ。要領が悪くて残業時間が多すぎるって上司の評判の悪い」
「……んなわけあるか。オレの部下の菅原は男だ。お前どう見たって女じゃないか。えっ、何の目的で侵入したんだ?!」
何言ってるのか?と呆れたような表情を浮かべて直人は主任を見返す。しかし、そこにはふざけてからかう様な顔はなく、代わりに真剣な厳しい視線が返ってくる。
「……何言ってるんですか?僕は……」
主任の真剣な眼差しに、直人の心が不安に駆り立てられた。
そして直人はゆっくりと顔を左に向ける。
そこには夜の街をバックにして、明るい室内が映し出されている。
直人は恐る恐るガラスに反射し映し出されているオフィスの様子を確認する。
そこに映っている二人の人間。
一人は立っているグレーのスーツの男性だ。これは主任だろう。
もう一人は椅子に座っている人間。このオフィスには、今は自分と主任の二人の人間しかいないはずだ。ということは、椅子に座ったままの人物は僕なのだろう。
窓に映る自分を見つめるその人物の動きは、それこそ鏡に映したように自分と同じだった。
でも、おかしい。
その格好は会社に勤務するときにするような服装では無い。青系のハーフパンツに、オフホワイトの厚い布地の上着は柔道着や空手着のようだ。その上に多分革製の防具を急所をカバーできる位置に装着し、足元は革のブーツ。これは一体何のコスプレだろうか?
それに髪の色もおかしい。赤色の髪なんて、いつの間に僕は髪を染めたのだろう?
そしてこれが一番の問題であるのだが、主任の言うとおり、そこにいる人物の性別は紛れも無く女性だった。
ちょっと待ってくれ。ここにいるのはスーノじゃないか。MMORPG/エルダーテイルでの僕のセカンドキャラクターの。だけど、ここは菅原直人の勤務する会社で、僕は菅原直人で、二十六歳の男で、独身で今は彼女もいなくて、休みはゲーム三昧で……あれ、菅原直人だったら男のはずだ。スーノだったら、いるべき場所はエルダーテイルの世界のはずだ。
僕はいったい誰だ?そもそも僕は男なのか、それとも女なのか。
分からない……
スーノの視線が焦点を失い、世界から色が失われる。
いつの間にか窓の外の夜の街の風景が、ボードに描かれた”書割”に取って代わり、支えを失ってパタンと倒れる。
さらに目の前の主任の身体が真っ白の石膏で出来たような動かない人形になった。それだけでなく、デスクもパーティションも壁も床も建物全ても石膏造りのニセモノに取って代わる。
そして、音も無く全てがバラバラに砕けて崩れ落ちる。
足元の床も粉々に砕け、スーノは宙に投げ出された。
スーノは底の無い空間を落ちていく。
スーノの周りには何も存在していない。光も無く真っ黒な闇がスーノを包み込み、そこには天も地も無かった。
上下も分からないような空間をスーノは落下していく。
そこには空気も無いのか風も無く、まるで無重力の宇宙空間に浮んでいるよう。
どこまでも続く落下し続けていく感覚にスーノの意識が遠くなっていく。
そのうち、スーノの視界の真ん中に小さな光が点る。
何も無い闇の中、その光は縋ることの出来る存在だった。
スーノはその光に手を伸ばす。
そこには何かがある。きっと何かが。
そう考えながら、スーノの意識は闇に溶ける様に消えていった。
◆
伸ばした手の先は、ガラスの向こう、黒から群青へと変化を続ける黎明の空だ。
知らぬうちに、スーノは堅い石造りの台に横たわっていた。
何か良く分からないものを見ていた気がする。あれは夢なのだろうか?夢の中で夢を見ているよな、二重三重の迷宮に取り込まれたような世界だった。
夢は目醒めた端から細かい部分を忘却してゆく、覚えているのはブツ切りにした映画のフィルムみたいな断片だけ。
まだハッキリとしない思考を回して、おぼろげな夢の記憶を書き留めるように私は思い出す。
そう、始めの夢は「彼」の記憶。悲しい子供時代の思い出。
次、その夢から醒めて見たのは、現実世界の出来事だったのか。
自分が何者なのか分からなくなり、足元が崩れいつまでも落ち続ける、あれもやはり夢?
そして、最後。これは良く覚えていない。
そこは今まで行ったことも見たことも無い場所だったような気がする。
そこには何の不安も無かった。
静かな、青い場所。何かが暗い空に浮んでいた。
あれは何だったのだろうか?
……思い出せない。
石の台から起き上がり、両足で床を踏みしめる。まだ、ぼうっとして思考がはっきりしない。
ここは何処だろう?
私は辺りを見回しながら、ゆっくりと歩く。
天井は見上げるほどの高さで、天井を支える太い石の柱が何本もそそり立っている。その造りは、あたかもヨーロッパの教会のようでもある。
ああそうだ、ここはアキバの大神殿だ。この世界に転移してから初めて見るが、この建物の造りは間違いないだろう。
ここが大神殿ならば、私は死んだのか?死んで生き返ったのか?この世界もゲーム時代と同じように僕達は不死の存在のはずだ。多分、私はまものと戦闘を行い、それに敗北して死んだのだろう。
さて、私は何と戦ったのか?
どうも、まだ意識が薄ぼんやりとしたままで、その時の記憶がはっきりと思い出せない。
何と戦ったのか?うん、あれは大きくて気色の悪い肉の塊だった。
あの時は独りだったかな?誰か傍にいたような、確か何かを守ろうとしてたような気が……
段々と記憶の上に覆いかぶさっていた靄が晴れてきて、思考のサイクルが回転を上げていく。
”何か”を守る?違うだろう、”誰か”をだろう。
そう、私には守りたかった人がいた。
私、いや”僕”が守りたかったのは……!!
意識が鮮明となり、全てを思い出す。自分が何者で、あの時何が起こって、何者と戦い、どう負けたのか。そして今何をしなければならないのか、全てがはっきりと分かった!!
杏奈は無事だろうか?杏奈に連絡を取ろうと、スーノは念話を使用した。
呼び出しのコールが回数を重ねる。
三回、四回。
出ない。この時間だ、寝ているのか?
七回、八回。
あの時、二体の黒い獣が杏奈を追っていった。それと戦闘になり杏奈も死んでしまったのか?そしてミナミ(おそらくそこが杏奈の復活ポイントだろう)の大神殿で蘇生中なのか?
十回、十一回。
分からない。とにかく今はあの戦闘を行った森に向かおう。そうすれば、何かしらの情報が得られるはずだ。
スーノは大神殿の重く大きな扉を開け、明け方のアキバの街の中に駆け出した。振り返り見上げると、そうこの建物の姿は大神殿だ。エルダーテイルのゲームのグラフィックの特徴がしっかり残っている。
首を回して、アキバの街を見る。空は白み始め、煙るような朝靄が街を覆っている。
ゲーム時代ならば昼であろうと夜であろうと、アキバの街中にはプレーヤーの人の流れが途切れることは決して無かったが、ここはゲームでは無い現実世界となったアキバの街だ。日の出前の街中に動く者はまだ誰もいない。
スーノは大神殿前の大通りを走りぬけ、現実世界の万世橋の場所にあるアキバの街の入場門に向かった。
アキバの街の入場門、街の境界を流れる川にかかる橋の手前に、手入れもされずに幾歳月も風雨に晒され苔生した石造りの大きな門がある。その場で足を止め、スーノは弾む息を整える。
ここの門を出て、北西方向に向かえば、杏奈と別れた<門に至る深き森>だ。距離は現実世界ならば50キロメートルくらいか?ならばこの世界では半分の25キロメートルだろう。馬を飛ばせば半日くらいか?この世界では単純に真っ直ぐ進めるとは限らない。だけど急げば遅くとも翌日には到着出来るだろう。
(とにかくあの場所に行けば、杏奈と会える。会えなくても、再会の手がかりが在るはずだ)
スーノは心の中で呟き独り頷いた。そして門を潜ってアキバの街から出る。……はずだった。
目を剥いて自分の足を見つめるスーノ。
何故だ、足が前に出ない。
歩き出そうとスーノの頭から両足に指令が飛び、一歩踏み出す。それは極普通の、当たり前の現象のはずだ。
だが、スーノの両足はスーノの脳の命令を無視して、踏み出すはずの一歩を踏み出せずにいた。
「何で……何でさ」
自分の意思に従わない自分の両足。何が起きているのか、スーノには理解できない。
(動かない。なんで?歩くなんてそんな簡単なこと。ここまで走ってきただろ。なんで足が前に出ないんだよ)
何度も足を踏み出して前に進もうとするが、両足は何の反応も示さない。
何らかの機能不全でも起こしているのかと、自分のステータスを確認しても何の問題も無し。スーノは自分の足を拳でガンガンと叩く。伝わってくる痛みの感覚。お陰で足の感触が戻ってきた。
よし、これで大丈夫。
たどたどしい足取りで、スーノが門を潜ろうとしたそのとき、スーノの身体を経験したこと無い震えが襲ってきた。
血の気が引く感覚が背筋を走り、冷たい汗が全身に流れる。
そして”死”の瞬間の映像が脳裏にフラッシュバックする。
◆
バギバギと骨を砕き潰す音を立て、足先からスーノを咀嚼してく、あの醜い化け物<蹄持つ赤黒き肉塊>。この時には既に身体は麻痺してしまっていたのか、もう痛みを感じることは無かった。スーノの記憶に残っているのは、恐怖だけだった。
生きながら喰われる。
普通に生きていてそんな経験を味わうことなどまずありはしない。スーノの目に映るのは、足先から砕かれ咀嚼され嚥下されていく自分の身体だ。
やがて肉塊の牙が大腿部を通り過ぎ、腰に辿りつく。人間の骨格で一番大きな物は骨盤である。噛み応えがあるのだろう、骨盤を砕く湿った破砕音が一段と大きく響き、喰われつつあるスーノの耳に届いた。
タフな冒険者の肉体は、”即死”の効果がつかない場合、ここまで”壊されても”HPが残っている限りは死ぬことは無い。大きく開かれた肉塊の顎が、腰を砕き喰い千切り、続けてスーノの腹に牙を突き立てた。
(やめてくれ。頼む、これ以上は……!!)
肉塊がグチャグチャといやらしい音を立ててスーノだったもの、を咀嚼する。
(これ以上もういい、早く死なせてくれ。もう見たくない)
目を堅く閉じて、スーノはこの光景を見ることを拒絶するが、聞こえてくる音と辺りを漂う臭いを遮断することはできない。
(……もう…いやだ)
スーノのHPの数字がゼロになった。
消えていく意識に、訪れる終わりの瞬間を察しスーノの心は平穏で満たされていく。
ようやくだ、ようやくこの地獄が終わる。
◆
フラフラと立ち尽くすスーノの呼吸が浅くなる。全身の力が抜け、視界がぐるぐる回転して真っ白に染まっていく。そしてアキバの大通りの南側、入場門の真下でスーノは地面に崩れ落ちた。
(こんなところで立ち止まっていてはダメだ。僕は杏奈を迎えに行かなきゃいけないんだ。そう約束したんだ)
だけれど、その意思に反してスーノの身体は動こうとはしなかった。




