門に至る深き森<3>
白い霧の壁を突き抜けて森の外に向けエンジは疾走する。
森の出口に近付いているのか、目の前を覆うミルクが溶け込んだように白く濁っていた霧は徐々に晴れだしてきているが、それでもまだ見通せる距離は五十メートルあるかどうか。
進行方向から跳ぶように現れてくる森の木々がエンジの行く手を阻むが、軽快なステップを刻んで木々を交わし全力で走る。
大きなエンジの背中に身体を預け、激しい機動に振り落とされないよう必死にしがみつく杏奈の髪が風に流され踊る。
「泣いちゃダメ」
顔を伏せ白い毛皮の中に向かって杏奈は呟く。その言葉に反して、杏奈は堅く閉じた瞼から溢れる涙を止めることができない。
目を閉じると、肉塊の触手に囚われボロボロになったスーノの姿が鮮明に写り込み、その姿が瞼の裏に焼きついて離れない。自らを犠牲として自分を逃がしてくれた彼女の姿が杏奈の心を縛る。
そして決して認められない、でも多分そうなったであろう想像が頭の片隅に消しても消しても浮び上がってくるが、杏奈は頭を振ってそれを頭の中から振り払う。
「なくな、あんな」
「……うん」
暖かな白い毛皮に顔を埋めたまま頷く。
「だいじょうぶ。スーノはかならずむかえにきてくれる。ちゃんとやくそくしたんだ。オレのあるじをしんじろ」
杏奈は額をエンジの背中に強く押し付ける。脈動する筋肉の力強さと暖かい体温が杏奈の心を勇気付けてくる。塞ぎ込んでいてもなんにもならない。それでは逃がしてくれたスーノの行為が無駄になってしまう。
顔を上げて涙を拭う。泣き腫らした瞳は充血したままだ。だけれどその顔からは先程までのスーノを一人残してしまったことへの悔恨に影を引きずったような表情は消えていた。
「うん!!」
照れたように掌で涙で濡れた顔を拭いとる。その手が頬の傷を擦ると、杏奈は刺す様な痛みに顔を歪める。
この追い詰められた状況を前にして、杏奈は今の今まで自分の頬の傷のことを忘れていた。その痛みに頬を引きつらせながら手を伸ばして、傷口をそっと撫でる。
(うん、大丈夫、出血は止まっている。これくらいどうってことは無いよ。傷跡が残るのはイヤだけど、この世界には治癒魔法がある。後で再会したスーノさんに綺麗に治してもらおう!!)
スーノはアキバで生き返る。そして迎えに来てくれると、杏奈はそう信じることに決めた。必ず再会できると。
考えが決まればやるべきことは見えてくる。今は霧に包まれた森から脱出して生き残ることが一番の目的だ。走るエンジの背中にしがみ付いたまま、杏奈は顔を振って周囲を警戒する。霧はかなり晴れてきている。おかげで森の中もかなり見通せるようになってきていた。
「いた」
案の定と言うべきか、杏奈は背後の霧の向こうに微かながら追っ手の姿を見つける。おそらくあの二体の黒い獣だろう。執念深く追跡を続け、簡単には諦めてくれそうに無い。
「エンジ、黒いヤツが!!」
「うん、わかっている。あいつらしつこい」
杏奈は何度も振り返って後ろの獣を確認する。黒い煙を棚引かせて走るまもの二体の姿が、霧の向こうに見え隠れしている。
「逃げ切れる?」
「もうすぐ、もりがおわる。このままならいける」
霧に覆われた森から出て視界が確保できればこちらものだ。
今までは緊張で読み取れなかった相手のステータスが、ここに来てようやく杏奈の目に入ってくる。名は<蒼黒色の猟犬>レベルは70と75。ヤツらのフィールドである森の中、霧で視界を奪われた条件では、視覚以外の感覚器官が優れたエンジとは違いどうしても視覚情報に頼ってしまう人間である杏奈はその能力を発揮することが困難となる。だか視界が確保できる環境となれば話は変わってくる。
このまものがどんな能力を持っているのかは杏奈には分からないが、ハンデの無い状況ならばレベル90の杏奈の能力を持ってすれば間違いなく戦いを優位に展開できるだろう。そして<ミニオンクラス>とは言えどエンジも自身の主であるスーノと同じレベル80だ。防御専門の守護戦士である杏奈と、攻撃職相当の打撃力を持つ契約獣のエンジ。回復役はいないけれど、二人が連携して叩けば<蒼黒色の猟犬>二体を打倒することは不可能ではない。
(霧さえ晴れてくれれば、アタシも戦える)
杏奈は後方の黒の獣に向けていた視線を前に向きかえる。
前方の霧は明るく光っている。もう直ぐに霧の中から脱出できるだろう。
そうすれば、戦える。
二体の黒の獣を殲滅することは簡単ではないかもしれないけれど、きっと勝てる。
安心して杏奈の集中力が少し緩んだのか、それとも激しく揺れるエンジの背中の上で何回も振り返り頭を動かしすぎたのか、杏奈は一瞬平衡感覚が狂ったような違和感を感じた。
(そういえば、さっきからどこか熱っぽいような気がしてたのは気のせいかな?身体がゆらゆらと揺れているみたいに感じるのは走るエンジの背中にしがみついているからなのかな?)
気の抜けた調子で「あれっ」と呟く杏奈。そのまま目の前の世界が回りだす。
中空に放り投げられたのか、自分がどちらを向いているのか分からなくなり、空と地面が回転して入れ替わりながら自由落下しているような感覚が襲ってくる。そんな地に足が着いていないような感覚が何秒も続いたような気がした後、杏奈の身体を衝撃が襲ってくる。目を瞑ったわけではないのに目の前が真っ暗になり、そして頭の中に火花が散った。
さっきまでの無重力の世界でグルグル回っているような浮遊感は消え去り、グルグルと回転しながら身体の各部を順番に繰り返し叩きつけられる。一体何回転回ったのだろう、知らぬ間に口の中に森の土が入ってきていたた。
(……食事は味が無いのに土に味があるなんズルイ、苦くて不味いし)
そんな馬鹿なことを考える杏奈は、いつの間にか自分が地面に倒れていることに気がついた。視界には木々の豊かな枝葉と、霧が晴れかかって薄っすらと見える青空。
「アタシ、仰向けに倒れてるんだ」
起き上がろうと手足を動かそうとするが、全く力が入らず身体の自由が効かない。今の杏奈に出来る事は、瞼を開くこと、瞳を動かすこと。
(それとまだ少し声が出るかな?)
自分のステータスをチェックすると、ちかちかとアイコンが点滅している。種類は<毒>それに<麻痺>。思い当たるのは、頬を掠ったあの気色の悪い<蹄持つ赤黒き肉塊>の触手の一撃だ。今になって思い返せば、ぬらぬらと触手の肉の表面を濡らす黒い体液には、何らかの状態異常を与える効果があったのだろう。時の経過と共に杏奈の視野が狭まってくる。
◆
首の毛皮を握る指の力と背筋をしっかりと挟み込む足の感触がすっと無くなり、背中に乗っかっていた杏奈の存在感が消えた。
足を止めその場で急減速してエンジが振り返ると、下生えの藪の中に半ば埋もれている杏奈の身体。駆け寄ってくるエンジに気づき、動かない身体に瞳だけを向ける。
「えへへ、どうしよう。身体が全然動かないよ」
エンジに心配をかけたくないのだろう、おどけるように杏奈が辛うじて動かせる口元を微かに曲げる。気になるのか杏奈の頬の傷を舐めようとするエンジだったが、杏奈はそれを止める。
「舐めちゃダメ。多分毒を貰っちゃってるから、舐めたらエンジにも移っちゃう……でも心配してくれてありがとね」
不安の色に染められたエンジの赤い瞳に杏奈の姿が映しこまれる。「くぅ~ン」と母犬を探す子犬のような鳴き声を出して、エンジは杏奈の顔を覗きこんだ。
「大丈夫!!って言いたいけど、なんかダメっぽいよ。だんだん目の前が暗くなってきた……」
杏奈を守ること。これはスーノと交わした約束だ。それだけは絶対に譲れない。しかしエンジにはステータス異常に苦しむ杏奈を癒すことはできない。
だが、出来ることはある。
倒れた杏奈を隠すように立ち塞がるエンジの周囲を、追跡を続けていた<蒼黒色の猟犬>二体が包囲する。輪を描くように二人の周りを歩き黒の獣は徐々にその包囲の網を縮め始めた。
<蒼黒色の猟犬>どちらか一方ならば、エンジ一体だけでも対処できるに違いない。身体の大きさはエンジの三分の一程度。スピードはおそらく黒の獣がエンジを上回るだろうが、力の強さはエンジが勝ると予想できる。
レベルはエンジのほうが5〜10高いが<蒼黒色の猟犬>はノーマルランクモンスターだ。一方エンジはミニオンランクの契約獣である。その違いがお互い相殺し合い、おそらく一対一ならば同格の戦闘力ではないか。
だが、相手の数は二体。エンジがどちらか一方の黒の獣との戦闘に掛かりきってしまえば、もう一方への対処が疎かになってしまう。それでは動けない杏奈を見殺しにすることになってしまう。
挑発するように黒の獣がうなり声を上げてエンジの周囲を旋回する。しかしエンジは動けない。対面に位置した獣に向け交互に顔を向け、牽制する。
エンジの紅い瞳の色が濃さを増す。焦燥がエンジの心を支配する。
◆
毒の影響で身体が麻痺した杏奈は顔を動かすことができない。見えるものは霧に包まれた森の木々だけだ。
でも、直ぐ傍にいるエンジの様子となんとなく感じ取れる周囲の気配から、さっきから追跡してきていた黒の獣に囲まれているのがわかる。
「エンジ、アタシのことはいいから逃げて」
麻痺が進み、徐々に声を出すことも困難になってきている。擦れた声は、まものと対峙しているエンジに届いているのか?時が経つにつれ視界は狭まり視野の端は暗闇に覆われ、見える範囲は狭くなっていく。
(はは、もうこれはダメ?かな)
諦めかける杏奈。
(ごめんなさいスーノさん。せっかく命掛けで逃がしてくれたのに……)
狭まる杏奈の視野の中、真上の木の枝が揺れ、霧の向こうにロープのような一本の影が視界を横切った。次に視界に入ってきたのは、一つの黒い影。先端の鉤爪を木の太い枝に引っ掛けたロープを手繰って、振り子のようにして風の如く森を飛び渡る。
その影が杏奈の視界を一瞬通り過ぎた。
◆
<蒼黒色の猟犬>から守るためエンジは倒れた杏奈を自分の背後に隠す。すでに黒の獣はこちらの状況を見切っているようだ。焦るエンジをあざ笑うかのように周囲を旋回し、エンジの隙を窺う黒の獣。
エンジの対角に位置した黒の獣二体が同時に動き出しエンジの視覚を幻惑する。
そして二人に飛びかかろうと黒の獣が姿勢を低く構えたその時、頭上の木々から枝が擦れるガサガサという微かな音がエンジの聴覚を刺激した。
黒の獣もその音を察知したようだ。エンジと黒の獣、どちらも同じように頭上に注意を向けた。
(なにかいる……ひとのにおい?)
そうエンジが考えた瞬間、右上から風切り音が聞こえた。
それは空を走る矢が風を切り裂く音。樹上から射られた矢が一体の黒の獣に走る。
前足を貫通した矢が黒の獣の足を地面に縫い付け動きを止め、更にコンマ数秒遅れて追撃の矢が獣の身体に降り注いだ。矢の狙いは急所である眼球や眉間そして首、器用に角度をつけ心臓があるだろうその位置に狙いを付けた一撃すらあった。
思わぬところからの突然の攻撃に、黒の獣は混乱する。矢を射られた獣は当然として、もう一体の獣も見えぬ新たな敵を警戒し動きを止める。
エンジも黒の獣と同様に、何が起きたのか把握できていない。ただ、黒の獣一体が樹上からの矢の攻撃で大きなダメージを負ったことは事実だ。そうなれば、誰が射た矢かは不明であろうともこの機会を逃すわけにはいかない。
矢で地面に縫い付けられ動けぬ獣に飛び掛るエンジ。
動きを封じられた黒の獣は自らの長所であるスピードを生かせず、一方的にエンジの攻撃を受ける。正面からの体当たりで吹き飛んだ黒の獣の喉元に鋭い牙を突き立て首を振り回して黒の獣を翻弄する。そしてその勢いのまま放り投げた。
暴力的なエンジの力に地面をバウンドしながら転がっていく黒の獣。その首はエンジの顎に食い破られ、太い牙に抉られた喉から青い体液が断続的に噴き出ている。辺りに体液の青い雫を撒き散らかしながら、獣は立ち上がろうと足で地面を掻く動作を繰り返していたが、徐々にその動きも小さくなっていった。
今、牙にかけた獣はもう脅威ではない。
あの出血ならば、放っておけば絶命するだろう。
エンジは直ぐに杏奈の下に戻って、もう一体の黒の獣に牽制をする。
残った黒の獣は数の優位を失って自分の不利を悟ったのだろう、踵を返して霧の濃い森の深部に向け逃げていった。
しかし、エンジには警戒を解く様子は見られない。
追跡をかけられていた黒の獣は撃退できた。だが……
樹上の気配にエンジの索敵の手が向けられる。エンジに気づかれることなくここまで接近することが出来る能力からも、相手は森の戦闘になれた手練れだろう。
黒の獣に攻撃したからといって、それだけで自分達の味方だと考えるような能天気な考えはエンジには無い。
森の木々を見上げるエンジだが、その姿を見つけることは出来ない。だが明らかに何かの存在を感じている。気配の数は五つ。エンジと杏奈を取り囲むように頭上の木々に隠れている。
そして、木の枝からロープが垂れ、それを伝って人が降りてきた。その数は、エンジの感じ取った数と同じ五人。全て男性でその体格は痩身で小柄、肌の色は総じて白い。髪の色はそれぞれの濃さに違いはあるが、一言に纏めれば金髪だ。
そう、彼らの種族はエルフだ。
そして五人全てが同じ服装、群青色に染め上げられたチェニックを纏っていた。
その中の一人がエンジの正面に立ち近付いてくるが、エンジには警戒を解く気は無い。体勢を低くしていつでも飛びかかれるように構えたまま、鋭い視線を男に向けた。その男は四人の中では背の高いほう、それでも165センチメートルくらいといったところか。今までエンジが見てきた人間の男性と比べればその背は低く体格も細く見えるが、良く見ると骨格が華奢な訳ではないようだ。無駄な筋肉をそぎ落とした、短距離種目の陸上アスリートといえば分かりやすいかもしれない。
男はこの集団のリーダー格なのか、真っ直ぐな眼差しからも真面目そうな人柄が見て取れる。
「我らは君の敵ではない。君の助けを求める声に応じて馳せ参じたまでのこと。警戒を解いて欲しい」
肩にかけていた弓と矢筒、それに腰の短剣を地面に置き両手を横に広く広げ、丸腰で害意が無いことをアピールしながら男がエンジに近付いてきた。
しかしエンジの態度は変わらない。
「参ったな。私には君と会話する能力は無いからな」
男は立ち止まる。対峙するエンジと男たち、双方の動きが停止した。
いつの間にか森の中に微かだが風がでてきたようだ。静まり返った森の中、霧が木々の間をすり抜け流れ出した。
その重い空気を打ち払うような、落ち着いた女性の声が男達の背後から聞こえてくる。
「安心してください。私達はあなたに害を及ぼすようなことは致しません」
薄くなった霧の向こうから白いスクリーンに映し出されたような影が現れる。それは馬に乗った人間の影、その影がゆっくりと近付き姿を現す。
現れたのは白馬に跨った、繊細な色の薄い金色の髪(それは殆ど銀糸のようでもある)を編み込みシニヨンにした小柄な女性だ。白馬のように見えたのは、額にそそり立つ鋭く長い角で分かるようにユニコーン。
女性は男達の背後までユニコーンを進め、地に降り立つ。
「私達はナロウマウント王国の<群青獅子団>の一員です。あなたの助けを求める念に応え、助力に参りました」
男の横をすり抜け、エンジの前に進み出る。警戒し牙を剥くエンジの巨体を怖がることも無く、エンジの間合いに無造作に入ってくる。その姿には何の気負いも無く、全くの自然体だった。あまりにも無警戒に自分の懐に入ってくる女性に、エンジは面食う。
杏奈を守るため、全身から針を生やした様な近寄る者全てを攻撃しかねないエンジの殺気を歯牙にも掛けず歩み寄るエルフの女性。そのままエンジの鼻に触れることができるくらいまで近付き、女性はエンジの顎の下に手を伸ばし手を添えた。
「おまえは、オレのコトバがわかるのか」
「はい、遠き山の主よ」
「とおきヤマのヌシ?なんのことかオレにはよくわからない」
「……?何故あなたのような存在が私達の森に来られたのか不思議だったのですが、どうやらあなたは本来の力を奪われているようですね」
柔らかな女性の存在に、知らぬ間にエンジの警戒心が解きほぐされる。
エルフの女性が優しくエンジの喉元を撫でる。そしてエンジの後ろ地面に仰向けに倒れこんでいる杏奈の傍らに膝をついた。
「この方は<門に至る深き森>の穢れたまものの呪いを受けたみたいですね」
「たすけられるか?」
「もちろんです。この森も今はこのような姿になっていますが、元々はナロウマウント王国の象徴たる母なる湖<スフィアレイク>を源とした聖なる森の一部です。私達にお任せください」
◆
目の前が暗くなってきた。
身体の感覚が全然無くなっちゃって、もう何処も動かすことができないよ。
冒険者は死なないってスーノさん行ってたけど、ホントに生き返るのかな?
生き返るとしても、そこはどこだろう?
やっぱりミナミかな?
ミナミって大阪だよね。
遠いな。
コッチの世界に来てからの旅も大変で遠かったけど、多分もっと遠いよね。
だったら、もうスーノさんに会えないかな?エンジに会えないかな?
やっぱり寂しいよ。
消えかかった意識に浮ぶのは、そんなことばかり。
でも、もう何も出来ない。
残った感覚器官は唯一視覚だけ。
その視覚にもだんだんと真っ黒な闇が迫ってきた。




