マウントリムの隧道<4>
フォレストベアのケンポウに、その胴体を組み付かれ動きを封じられたミノタウロス。その斧を持つ右手をがっちり咥え込んだエンジがその頭部を猛烈な勢いで振り回す。ミノタウロスは必死に抵抗しエンジの顎を振り払おうとするが、エンジの太く鋭利な牙が深く食い込みその拘束は到底外せそうも無い。エンジは全身を使って噛みついたミノタウロスの腕を振り回す。長きに渡る戦闘でミノタウロスの持久力は既に枯渇し、右手の力だけではエンジに対抗することが出来ない。そしてエンジの猛攻に耐え切れず斧を持つその右手が強風に煽られる旗のように振り回され、大木が折れるような乾いた低音が周囲に響いた。 その瞬間、ミノタウロスの咆哮が隧道に響き渡った。その咆哮にはすでに敵を威嚇する迫力など全く無く、そんなことがあるのか信じられないが、ディーノには巨大で獰猛なまものが悲鳴を上げたようにすら見えた。
ボロ布を振り回すようにミノタウロスの右手を翻弄するエンジ。骨をバラバラに粉砕されれば握る拳に力を込めることなど出来ない。ミノタウロスの右手から鉄の塊である斧が振り払われ、トンネルの外壁に激しい衝撃を伴って激突した。
「ディーノ!!」
そのスーノ声を受け、「撃て!!」の号令がディーノから発せられた。矢を番えてタイミングを計っていた団員達が号令に合わせ矢を放つ。
顎を仰け反らせ対抗するミノタウロスの背中に、包囲したディーノ達傭兵団が放った矢が雨のように降り注ぎ、ミノタウロスのその背中に多くの矢が突き刺さった。
お互いの戦力を並べ単純な力比べをしたのなら、今回の戦いでのまものの集団相手では、スーノとディーノ達傭兵団の力では太刀打ちすらできなかっただろう。だがその不利な状況を打開するのは「知恵」の力だ。道具(武器)をより活用し戦術を突き詰める。この戦いに当て嵌めるのなら、ミノタウロスとラットマンの連携を阻止し各個撃破する。この戦術があればこその現在の展開といえる。
すでにラットマンの集団は壊滅している。エンジとケンポウのみでは押さえ込むことだけで精一杯だった強力なミノタウロスも、傭兵団の援軍が加わったことでその勢いを失った。
ミノタウロスはケンポウと組み合うことで自由な動きを妨害され体力を奪われている。そこにエンジの鋭い牙の攻撃を受け全身を切り裂かれ、さらに傭兵団には間断なく矢を射られ、すでにミノタウロスは死に体となっていた。
そしてミノタウロスの後背を襲う矢が急所の脊椎に集中する。それが効いたのかミノタウロスの四肢から力が抜けた。その瞬間を逃さず、四つに組んでいたケンポウが腰を落としてミノタウロスを腹の上に乗せリフトした。そしてそのまま肩越しに後方へ、ミノタウロスの腰に回しロックした腕を放さずミノタウロスの頭部を垂直に地面に投げ落とす。すでにミノタウロスに受身を取る余力は無く、頭部から舗装された硬い路面に垂直に激突した。その巨体の体重も重く、更にケンポウの投げの威力も加わり、頭部に生えた威圧的な二対の角の片方が粉々に砕けた。それだけで収まらずに骨が粉砕する音と共にミノタウロスの首があらぬ方向に曲がった。
倒れたミノタウロスから離れるケンポウとエンジ。だがミノタウロスに動く気配は既に無かった。
離れた位置から様子を伺うスーノとディーノ達傭兵団の面々だったが、地面に倒れ動きを止めたミノタウロスの姿にようやく勝利を確信し、そして歓声が上がった。
手にした弓を高々と掲げる団員達。勝ち鬨の歓声がトンネルにこだまする。
「勝ったよ、すげーだろ、おい!!」
ディーノは隣にいるスーノに抱き付き腰を抱え上げて喜びを表す。その行動に目を回して驚いたスーノだったが、最後には笑ってディーノに応えていた。
その時抱きかかえられたスーノの耳元に念話のコール音が鳴る。何気なく念話を受けたスーノだったが、その念話の様子がおかしい。
「杏奈、どうした?」
ステータス画面を見れば相手は杏奈だということは直ぐ分かる。ただ、その様子は普通では無かった。
◆
気配に気づいたエンリコが背後に振り返るとトンネルの出口から馬車の隊列が現れた。御車台の商人達の表情が見える。その目つきは血走り必死の形相であったが、それでも恐怖に囚われ馬車を暴走させること無く、出来るだけ安全に徹している商人達にエンリコは安心する。そして順々に出口を抜け右手方向に進路を変えた馬車が広場に入っていくのを確認すると、エンリコは前方のホブゴブリンと組み合っている杏奈を見据えた。
遠巻きにホブゴブリンを一番隊の団員が包囲し弓を引き絞り狙っているが、ホブゴブリンの動きも激しく、杏奈と入れ替わるように立ち回っているため、中々矢を射ることが出来ていないようだ。それでも数本の矢がまものの身体に刺さり、ダメージを与えていることが分かる。
だからといっても隊員がホブゴブリンに切りかかるのは危険だ。ホブゴブリンとの直接の殴り合い、それは冒険者の守護戦士の能力があって出来ること。残念ながら大地人の力ではホブゴブリンと直接殴り合えば圧倒され切り倒されてしまうだろう。
それでもタイミングよく射られる矢の威力に、まものの動きも徐々に落ち、杏奈の援護には十分なっていた。
エンリコも弓を構え矢を放つ。その矢は杏奈と鍔迫り合いをしていたホブゴブリンの膝に直撃し、その威力にホブゴブリンの膝がガクりと崩れる。そのタイミングを逃さず杏奈が盾を叩き込んだ。踏ん張りが利かない脚と杏奈の盾の一撃の威力にホブゴブリンの膝が崩れ落ちる。杏奈はその胸に片足で圧し掛かって逆手に持ち替えた剣を喉に突き立てた。そして突き刺した剣を手首で抉り回し傷口を広げた。喉から肺の空気が漏れたのだろうピーっと笛が鳴るような音が響き、青い鮮血がその傷から噴出する。
剣から伝わってくる感触に顔を引き吊らせ、歯を食い縛り恐怖を押し殺して杏奈は剣を抜き去った。ホブゴブリンの胸に掛けた片足でその胸を押しやると、ドウっと土煙を上げて打ち倒れる。その背後からもう一体のホブゴブリンが杏奈に切りかかろうと剣を振り上げるが、一番隊がそこに牽制の矢を放つ。
「ひっ」っと小さな悲鳴を上げて、杏奈がまものと間合いを取った。一体を駆逐できたからといって安心できない。危うく背後から致命的な攻撃を受けるところだった。二体のホブゴブリン相手で前後に挟まれ、自分だけではとっく背後からの剣で倒されていただろう。援護してくれている一番隊の人達に目線だけを向ける。皆に感謝をしたいが、今はまだその余裕など無い。一体のホブゴブリンを倒せたが、杏奈にまだ余裕など無い。呼吸を整えながら残ったホブゴブリンに対して盾を構える。自分の涙や鼻水、それにまものの体液に汚れた顔を拭いたいが、盾と剣を構えた両手ではそれも出来ない。
(熱いシャワー浴びたい。汚れた髪を綺麗にしてドライヤーで乾かして清潔で真っ白なシーツのふかふかのベッドに倒れ込みたい)
汗で額に張り付いた髪を拭うことすらできず、杏奈は盾を構えて残ったまものに正対した。
これでホブゴブリンを一体殲滅できた。左手を見ればゴブリンは既に三番四番隊の苛烈な攻撃によって数を減らしている。おそらくそれほど時間もかけず殲滅できるだろう。
エンリコはフッと一息ついて気を落ち着かせた。そして背後の馬車の列に再び注意を向けた。既に殆どの馬車が出口を抜け広場に集結している。残りの馬車は二台か一台だろうか。商会の馬車は全て広場に抜け、最後の傭兵団の馬車が出口に差し掛かる。御車台にはキャラバンの代表の商人アルバーニとリナの姿が見えた。リナは期待に応えしっかり役目を果たしたようだ。
戦況全体を把握するため、エンリコは一旦前線から下がり周囲を見回し警戒した。
リナの乗る馬車が、隧道の出口に差し掛かる。外界の光の眩しさにリナの瞳は一瞬視界を失うが、直ぐに瞳孔が縮小し目が明るさに慣れる。
トンネル出口で待ち伏せをしていたまものは数を減らしている。ゴブリン集団は三番四番隊に攻撃によって消滅しかけ、そして杏奈と正対するホブゴブリンは既に残り一体となり、援護の一番隊が周囲を固めていた。
トンネル内でのまものの強襲、それから回避し暗闇の中の一歩間違えれば事故を起こしかねないキャラバンの前進と、更にはトンネル出口のまものの待ち伏せ、今まで緊張の連続だったが。しかしその恐怖も終わりが見えてきた。もちろん未だ戦闘は続いてはいるがもう少しで戦闘は終わるだろう。リナは緊張から開放され胸を撫で下ろす。
だが、そこでリナはいる筈の無いものを発見する。
正面の崖の中腹に大きな狼がいた。一瞬エンジかとも考えたが、エンジはまだ襲撃してきたまものとの戦闘のためスーノと一緒にトンネル内に残りまだ戻ってきていない。だとしたらあれは一体なんだろう。
その狼が崖を駆け下り、馬車に向け突進してきた。リナは違いに気づく。綺麗好きのエンジの体毛は真っ白でいつも念入りに手入れされていて毛皮に汚れなんてどこにも無い。でもこの狼は灰色でそれに泥にまみれ不潔に汚れていた。なにより瞳の色がエンジと違う。ルビーのような済んだ赤の瞳では無く、感情の感じられない墨で塗りつぶされたかの真っ黒の瞳。リナの視線はその狼に釘付けになった。
馬の手綱を握る商人のアルバーニも、馬車に真っ直ぐに向かってくる狼を発見した。そしてそれが襲い掛かってきていることに気づき、咄嗟に手綱を右に引いた。その操作に馬車を引く馬が急転進する。だが、その無理な転進に馬車のほうが付いていけずに、強く掛かる遠心力に馬車が大きく傾く。そして荷台の荷物が暴れ馬車の傾きが更に強くなった。御車台に必死にしがみ付くリナ。馬車は片輪走行になりそれでもギリギリのバランスを取っていたが、路面に転がる石に車輪を取られ上下に跳ねた。リナの腰が御車台から離れ身体が中に浮く。必死に手摺りを掴もうと手を伸ばす。リナ右手の指先が手摺りに掛かる、それ握ろうと力を入れる。だけれど思う様に右手の指が動かない。
(そうだ、右手はギプスで固めていたんだっけ・・・)
それに気づいたときには、リナの身体は馬車から投げ出されていた。
エンリコの視界に、狼から逃げようと無理に進路を変え転覆しかけた馬車から投げ出されたリナの小さな身体が映った。地面に打ちつけられてぐったりとして動かないリナの姿。そして狼の矛先が馬車からリナに移る。
それをさせまいと矢を番え狼を狙うエンリコだが、狼の疾走は思いの外速く狙いを定めることが難しい。戦士として長い修練を積み技術に秀でるエンリコといえど、あれだけのスピードで移動する目標相手では必中は望めない。
だが、地面に叩きつけられたリナはピクリともしない。頭を打ち恐らく脳震盪を起こしているのか。このままではあの灰色の狼の餌食となってしまう。
この距離と目標のスピード、狙い通りに矢が命中する確立は半々といったところだ。だが、当てなければあの娘が犠牲になる。脳の血管が破裂するくらい意識を照準に集中する。視界が狭くなり見えるのは疾走する狼の頭部のみ。覚悟を決め、エンリコは矢を放った。
「当たれ!!」矢は狙い通り狼の頭部、その眼窩に吸い込まれた。真っ黒な眼球に突き刺さる鏃。「ギャン」と泣き声を上げ狼が脚を止めた。だが、それだけでは狼を撃退することは出来ない。手にした弓を投げ捨て、エンリコは腰の鞘から長剣を抜き取り、狼に向け駆け出した。
落車し放り出され地面に激突した衝撃で気を失ったリナの意識が徐々に戻ってくる。意識が跳んでいたのはほんの数秒だったが、まだ意識が覚醒し切れていないリナには何が起こっているのか理解できていなかった。
いつの間に自分は地面に寝転んでいたのだろうか?口の中に入った土の味に、リナは顔を顰める。身体を起こし立ち上がろうとするが、脚が言うことを利かず、ぺしゃんと腰から崩れとんび座りになる。前を見ると灰色の狼が自分に向かって鋭い牙が並ぶ大きな口を広げていた。だがリナは自分が狙われているという実感を持つことが出来ていない。
(ああ、オレはあの狼に食われて死ぬんだな)
はっきりとしない意識の中、恐怖を感じることも無くリナは現実感の無い感覚のまま考えていた。
「何をしている。立て、リナ!!」
呆けていたリナに怒鳴り声が突き刺さる。その声にリナの意識が覚醒する。
目の前に見えるのは、灰色の狼と肩で押し合っている傭兵団団長エンリコの姿だった。エンリコは両手で腰だめに構えた剣を狼の顎下から喉に向かって突き刺し押し返す。どう見ても致命傷とも思える一撃を食らってもまだ動きを止めることなく、狼は前足の爪でエンリコを切り裂こうとする。その爪を避けエンリコは、剣を更に突き上げ狼の身体を押し返す。
「立って走れリナ!!逃げるんだ」
狼の血液を頭から浴びて真っ赤に染まったエンリコの顔、リナはその顔から目を離す事が出来ないでいた。自分に向けられる鋭いエンリコの視線がリナを射すくめる。震えるように頷いて立ち上がろうとするが、まだ脳震盪が回復しきっていないのか、リナは方膝立ちになるがフラフラとバランスを崩し、しっかりと立ち上がることが出来ない。
エンリコは狼の顎下に突き刺した剣を抉り回し、傷を広げる。苦しみ暴れまわる狼を押し返しリナの逃げ道を確保しようとそのまま剣を突き上げる。
「ぐっ!!」
リナの耳にエンリコの呻き声が聴こえた。剣を突き上げ空いたその左脇に出来た革鎧の隙間に矢が突き刺さっている。
胸部に受けた衝撃にエンリコは左に視線を向けた。そこには弓を構えるゴブリンがいる。おそらくこの狼を使役する調教役だろう。伏兵といったところか、そこまで考えが及ばなかった自分の浅慮を自戒しながら、腰に差してある短剣を抜きそのゴブリンに向け投擲した。クルクルと縦に回りながら短剣は一直線に飛ぶ。そしてゴブリンの眉間に綺麗に突き刺さりその頭部を貫通した。
しかし短剣を投擲するため狼を押し返していた長剣から片手を離した結果、狼を押さえ込むことを維持できなくなった。喉に剣を突き刺されたまま、狼が押し返し剣を掴むエンリコの腕を振り払う。そしてその口を開き牙が並ぶ顎をエンリコに向けた。
長剣は狼の喉に刺さったまま、予備の短剣もゴブリンに投擲してしまったため手元には無く、エンリコは全ての武器を失った。そして左脇に刺さった矢は肺を抜け、どこまで貫通しているのか。肺から逆流した血が喉から口内に溢れ満足に呼吸ができず視界が暗転しかかるが、意志の力で強引にでも意識を手放さない。だが目前に立ちふさがる狼に対抗する術はもはや無い。牙を剥き出し襲い掛かってくる狼。その時エンリコは、咄嗟に背後のリナに振り返り、自らの身体がその鎧となるようにリナを抱きしめた。
ホブゴブリンに対して、包囲した一番隊の矢の攻撃が加わる。致命傷を与えるまでは行かないが、度重なる矢数にダメージを蓄積しているホブゴブリンの意識が杏奈から離れた。その瞬間を杏奈は逃さない。大きく脚を踏み込んで上段に構えた長剣を振り下ろし、ホブゴブリンの頭部を唐竹割りにする。頭蓋を叩き割られホブゴブリンは打ち倒された。
それでも起き上がってこないか心配になり杏奈は剣で突くが、もう動くことはなかった。どうやら倒すことが出来たらしい。ため息をついて安心し、一番隊の面々にほっとした表情を見せた。視線が合ったボーメも珍しく笑顔を見せている。
その時、今までこの場にいなかったはずの狼の泣き声が聴こえた。杏奈はその方向に顔を向ける。そこに見えたのは大きな灰色の狼の喉元に剣を突き立てているエンリコの姿だった。
「団長さん!!」
誰よりも速く反応した杏奈が、トンネルの出口付近のエンリコの元へ駆け出した。一瞬遅れてボーメ以下一番隊の団員も駆け出す。
だが戦闘のドサクサでいつの間にか距離が開いてしまっている。焦る杏奈だが中々その距離は縮まらない。
そして杏奈は見た。エンリコの胴に矢が刺さる瞬間を。そして狼から守るようにリナを身体で抱え込んだ姿を。
狼はエンリコの頭に噛み付きその身体を振り回した。為す術無く翻弄されるエンリコの身体、だがその腕は胸に抱え込んだリナだけは決して離そうとしなかった。
(早く、早く!!)
必死で駆ける杏奈の横を風切り音と共に矢が一条、狼に向かって飛ぶ。後方でボーメが弓を構え更に連射する。目にも留まらぬ速さで矢を番え、杏奈がその現場に到着するまでに三連射を叩き込む。だが距離もあり急所には命中せず、それだけでは狼の動きをとめることはできない。だがそれでも狼の意識をエンリコから剥がすことができた。
杏奈は全てを見ていた。だけれど、狼に頭部を咥えられ振り回されたエンリコの身がどうなっているのか、考えたくなかった。もう人が死ぬところは見たくない。
すでにもう杏奈のMPはレッドゾーンに入っており、特技を繰り出す余裕は無い。とにかく間合いを詰めなければ。杏奈は全力で駆けた。
ここにに来てようやく狼のステータスが見えた。そこに表示された名は <魔狂狼>。
本来の姿を取り戻したエンジより一回りは小柄ではあるが、それでも大きく強力なまものだ。背に三本の矢を受け、顎に突き刺さった長剣の傷口から大量の鮮血を噴出しているのだが、それを意に介さずその動きはまだ衰えてはいなかった。ダイアウルフが接近する杏奈の気配に気づくその一瞬、杏奈は手にしていた剣を力の限り投げた。杏奈には運が良かったと言えるだろうし、ダイアウルフにとっては不運だったと言うしかないが、杏奈が投擲した剣の軌跡はちょうどエンリコが射当てた右目に向かっていた。潰れた右目では飛んでくる剣を視界に捕らえることが出来ない。ダイアウルフの右目にエンリコの矢の一撃に加え更に杏奈の重い長剣が突き刺さった。
「ギャッ!!」と喉から捻り出す様な唸り声を上げ、剣を受けた右目を庇うように顔を伏せるダイアウルフに杏奈が飛び掛る。左手で自分が投擲した剣の柄を、右手では顎下に突き刺さったエンリコの剣を握る。
「うあああー!!」
左右の手に握った剣を渾身の力でダイアウルフに突き入れる。ずぶずぶと肉を抉る気持ち悪い感触が伝わってくるが、もうそんなことを気にしている状況ではなかった。硬い骨を砕き破り左手の剣を頭蓋に抉り込む。顎下に刺さったエンリコの剣を右手の力精一杯で突き入れ、まものの気管をこれでもかと切り裂く。吹き出た鮮血が杏奈の上半身を赤一色に染めていった。
(目の前に大きな灰色の狼が襲ってきたことは覚えている。それに馬車から投げ出されて頭を打ったことも。あれ?どっちが先だっけ?そういえば、団長さんがこっちに走ってきたのも見た気がするけど、なんか頭がボケててはっきりとしない。知らぬ間に地面に寝転がっているし、誰かがオレを抱きしめているような気もする。これは誰だ?)
頭部に受けた衝撃が原因の脳震盪がまだ癒えていない。見える視界も境界がぼやけ、半透明の膜が掛かったような色の無い白黒の世界。周囲の音もはっきりせず遠くからに聞こえてくるように感じられる。リナは混乱し自分が置かれている状況を理解できていなかった。それでも徐々に回復し意識が戻ってくる。
誰に抱きしめられているのだろう?リナは身体を捻り動ける空間を作って顔を上げた。
「・・・あっ、団長さん」
目に入ったのはエンリコの顔だった。その瞳は焦点が合っておらず、リナには徐々に生気を失いかけているように思えた。
そのまま動く気配の無いエンリコの様子に、心配になったリナは伸ばした手をエンリコの頬に寄せた。そして恐る恐る撫でる。これまでの傭兵稼業の厳しい経験のためかその顔には深い皺が刻まれ、その頬は無精ひげが伸び始めていた。
ぼやけて白黒だったリナの視界に色彩が戻ってくる。エンリコの顔が何故か赤い絵の具をぶち撒けられたように真っ赤に塗られている。
「なんで・・・赤いの・・・」
そんな現実感の無い呆けたリナの声が聴こえたのか、エンリコの視線がリナに向けられる。だが、その瞳は焦点が合っておらず、視線はリナの瞳を通り抜けここではないどこか遠くを見ているようだった。
「ああ、無事だな。良かった。今度は間に合ったよリーチェ」
これは現実の世界?理解不能な光景に、悲鳴を上げることすら不可能。わなわなと唇を震わすことしか出来ず、リナは言葉を失う。
「リーチェ、一緒にいれなくてゴメンな。・・・辛かったろう。もう・・・」
何をすればいいのか分からなくなったリナは、両手を伸ばしてエンリコの頬を包み込む。手に伝わってくる頬の暖かさが、だんだんと冷めてきているようにリナは感じた。それが怖くて、リナはエンリコの頭を胸に掻き抱いた。
「すまん、リーチェ・・・ジーナ・・・」
胸の中のエンリコの体温が冷たくなっていく。リナはその頭を強く抱きしめる。その存在がこの世から消えていってしまわないように。
杏奈は両手を剣から離す。ダイアウルフの大きな身体が力を失い崩れ落ちた。全身を苛む疲労感に膝が崩れ落ちそうになったが、杏奈はどうにか踏みとどまって振り返り、エンリコとリナ二人がいる方向に顔を向ける。
だけれどそこに見えたものは、到底杏奈に許容できる風景ではなかった。それは全身をダイアウルフの鮮血で赤く染め力なく倒れたエンリコと、その頭を必死に抱きしめるリナだった。
見ているものが信じられないといった様子で、杏奈は倒れた二人に歩み寄りその横に跪いた。
「・・・うそ」
二人に杏奈は手を伸ばすと、エンリコの頭を大事そうに抱きしめたリナが目を向けた。リナが無事なことに安堵した杏奈だが、そのリナの顔色が真っ白で血の気の無いことに気づいた。混乱と恐怖で声を失ったリナが震える唇を「たすけて」と動かした。
理解できない。
何が起きているの?
倒れたままの団長さんとリナ。
団長さんはまものの返り血を頭から浴びている。
その血がもう固まり始めたみたいで、短く刈り込んだ銀髪に浴びたまものの血もすでに赤じゃなくてどす黒く変色してきている。
アタシは二人の傍に跪いて手を伸ばす。
あっ、リナが動いた!!良かった大丈夫だ。
ほっとしたけれど、リナの顔色が真っ白だ。
そして震える唇を「たすけて」と動かして、団長さんの頭を愛おしそうに抱きしめた。
その姿を見て、アタシは頭の中が真っ白になった。
地面に座り込んで、身体に力が入らない。
時間の進むスピードが分からなくなった。自分以外が速く動いているのか、それとも自分がゆっくりなのか。
気づかないうちに、まわりに一番隊の皆が集まってきている。
ボーメさんが団長さんを仰向けに寝かせて首筋に手をやっている。多分脈を診ているのかな?
周りの団員さんにいろいろ指示して必死そう。
でも脈診るなんて、そんな団長さんが死にそうみたいで大げさだな。
なにか変。見ている世界がスクリーンの中の映画の映像みたい。
聴こえるのも耳鳴りみたいなぶーんという低い音。
その向こうから皆の声がしているけど、人が掛けている電話の受話器から漏れ聴こえる声みたいで、その声が何を言っているのかよく分からない。
ぼうっと見回すと、いつの間にか団長さんから離れてリナが隣に座り込んでいた。
焦点の合わない目で力なく座り込んでいる。きっとアタシも似たような様子なのかな?
でも、リナはどうやら無事みたい。
良かった。
大きな狼に襲われて心配だったんだから。
でもあの狼はどうなったんだっけ。
そうだ、アタシがやっつけたんだ。
自分の剣ともう一本の団長さんの剣を両手で必死になって突き刺したんだ。
良く見ると、アタシの身体もまものの血を浴びていた。
固まりかけてベトベトと粘りつく、どす黒い血。
手も胸も顔も髪の毛も・・・
団長さんと同じだ・・・おなじ・・・
フィルターが掛かったようにぼやけていた視界がはっきりしてくる。
耳鳴りが収まり、周りでされている会話の内容も聴こえてくる。
そして同様に、どこか現実感の無かった思考も鮮明になってきた。
「クソ!!血が止まらない」
矢が刺さった脇下に手拭をきつく当てて、ボーメさんが吹き出る血液を必死に止めようとしている。
その声は、現実から逃避していたアタシの思考に冷水を掛けた。
ボーメさんに肩を寄せて、その顔を覗きこむ。
「脈が弱い。出血も止まらない」
ボーメさんが押し当てた手拭に力を込めて叫んだ。
このままじゃ・・・どうすればいい・・・
アタシは助けることが出来る可能性がある唯一の人間に連絡を取った。
◆
杏奈の念話を受けて直ぐ、スーノはトンネルの出口に全力で向かった。背後にはディーノ以下傭兵団が追走しているが、冒険者であるスーノの走る速度にはついてこれずに徐々に離れだした。
「人工呼吸に心臓マッサージ!!杏奈、できる?」
「部活でレクチャー受けましたけど、自信は無いです・・・」
「やるんだ!!やらなきゃエンリコさんの助かる可能性がゼロになっちまうぞ」
念話の向こうの杏奈の不安が手に取るように分かる。スーノだって職場で講習を受けたことがある程度で自信など無い。
「頼む、杏奈だけが頼りだ」
「・・・はい、頑張ります!!」
杏奈は一瞬だけ躊躇したが、その後に元気な返事をしてくれる。大丈夫、責任感の強いあの娘ならきっと手を尽くしてくれるはずだ。これで今やれることはこれ以上無い。後は自分が一秒も早く現場に行くことだ。
スーノは必死に全力疾走しているが、しかしそれでも時間が惜しい。もっと早くと焦るスーノの隣にエンジの白い身体が寄ってきて、真っ赤な瞳を向けた。
「おそい、スーノのって」
スーノはエンジの首に手を掛け、その背に跳び乗り両足でその胴体をきつく挟みこむ。そしてエンジの首の毛皮に指を食い込ませてしっかりと握りこんだ。スーノがしかりと自分に抱きついたのを確認すると、エンジはその能力を完全に開放して全力疾走に移った。
一瞬スーノは意識を失いかける。全身を使って力の限り抱きついたスーノを振り落とさんばかりの加速に、スーノの視界が前方の一点に収束してゆく。トンネルの外壁が跳ぶ様に後方へ流れていくが、スーノにはそれを見ることはできない。首を横に向ければ風の勢いに首を持っていかれそうになる。そもそも目を開けていることが困難だ。保護するゴーグルなど無いスーノの眼球が、吹き付けられる風に痛めつける。細目を開けて視界を確保するが、眼球からは涙が溢れそれがスーノの頬を流れそして後方に吹き飛んでいった。
そのスピードは現実世界の高速道路を走る自動車と変わらない。しかも全身剥き出しで疾走するエンジにしがみ付いている姿はちょうどモーターサイクルに乗っている状態と似ているだろう。
涙を流しながら前方に視線を向けると、視界の先に光の点が見えてくる。恐らくトンネルの出口だ。それを確認したスーノは風の勢いにこれ以上目を開けていられず、エンジの毛皮に顔を埋めてその身体にしがみ付いて耐える。エンジの疾走の速度は凄まじく、直ぐに周囲が明るくなってきた。スーノは顔を上げて目を開く。既にトンネルの出口は目前。そのままエンジは外界の光の中に飛び込んだ。
トンネルから出ると直ぐ、スーノはエンジの背から飛び降りる。殆ど減速が無くエンジの疾走のスピードのまま、腰を落として体勢を低く構えたスーノは両足で踏ん張り手でバランスを取りながら地面を滑走する。
「エンジは周囲を警戒!!」
砂埃を上げて地面を滑走して速度を殺しながらエンジに指示を送る。脚がもつれないところまで減速したのを見計らってスーノは周囲を確認する。周囲には数多くのゴブリンの屍が転がっている。その中にひときわ大きなものが三つ。緑の体色のホブゴブリンが二体に灰色の毛皮のダイアウルフが一体。そしてその傍に傭兵団の人間が集まっている人だかりがあった。スーノはそこに向かって駆ける。
そして小さな身体で男達の間を掻き分ける。人だかりの中心には倒れたエンリコとその傍で必死に治療しているボーメ、それに不安を隠し切れない杏奈がいた。
「杏奈、状況を報告して」
倒れ動かないエンリコの横に跪くスーノ。エンリコの胸の上に跨って胸を両手のひらで一定のリズムでマッサージしている杏奈は、そのまま動きを止めずに応えた。
「ゴブリンの矢を脇に受けて血が止まりません。呼吸は無いです。脈拍もほとんどありません。それにダイアウルフに頭を噛み付かれて振り回されています」
心臓マッサージを続ける杏奈の横で左脇に刺さった矢傷からの出血をボーメが手拭をきつく当てて止めている。すでにその手拭は血で真っ赤に染まり血が滴り落ちていた。
出血が酷い。多分出血性ショックという状態だろう。現実世界だったらここが病院で無ければ諦めるしかない状況だろうが、この世界なら・・・
スーノは目を閉じて意識を集中する。脳裏に描いたステータス画面の特技の項目、その中の<ネイチャーリバイブ>の文字をタップする。すると自然と自分の口から呪文の言葉が流れ出て、スーノは両手のひらを胸の前でパンッと打ちつけた。合わせた手のひらの間から緑色の暖かな光が漏れ出す。手のひらを離すと緑の光の玉がそこに現れ、呪文詠唱を終了すると同時にその光がエンリコの胸に吸い込まれていった。
「スーノさん、これって」
「ああ、蘇生呪文だ。大地人にこれがが効くのか分からないし、そもそも冒険者にだって効くかどうか試した訳じゃないから分からないけど、でも・・・」
息を呑んで様子を伺うスーノ。今まで使った特技はしっかりと問題なく効果を発揮してくれた。だったら蘇生呪文も効くんだよな。
周囲を取り囲んだ団員達も言葉も無く、石になったように全く動かずその様子を見つめていた。ボーメがエンリコの喉元に指を当てて脈を取っている。だがその顔は残念ながら暗いままだ。
「ダメだ。脈拍が戻らない」
「杏奈、マッサージと人工呼吸続けて!!もう一度蘇生を掛ける。リキャストタイムがあるからその間頼む!!」
眉間に皺を寄せ焦るスーノ。杏奈がエンリコの首の下に手を当て、気道を確保して人口呼吸を行う。ゆっくりとでもしっかりとエンリコの肺に空気を満たす。そして流れるようにそのまま心臓マッサージを再開する。
杏奈は、額から汗を流しながら、必死にマッサージを行う。一向に減らないステータス画面上のリキャストタイムのカウントダウンに、スーノは焦れる。なぜだ、どうして蘇生呪文が効かない?
「エンリコさん!!起きて!!みんなっ、待ってる!!」
マッサージのリズムに合わせて杏奈の言葉が途切れ途切れに聞こえてくる。エンリコの胸の上で心臓マッサージを続けるその顔から、雫が一滴二滴と落ちていく。それは噴き出る汗なのか、それとも瞳から溢れ出た涙なのか。
リキャストタイムがゼロになり、スーノが再び<ネイチャーリバイブ>を唱えた。そして先ほどと同じ光景が繰り返される。だけれどその結末は今度こそ違うはずだ。蘇生呪文が効果を発揮して、エンリコの頬に赤みと暖かさが戻ってくる。そう信じ、スーノの手から再び緑の光球がエンリコの胸に吸い込まれた。
いつの間にか隣にディーノの姿があった。息を切らせてボーメから今までの経緯の説明を受けている。周囲の団員の数も更に増え、皆不安そうに顔を覗かせていた。
だが、脈を確認したボーメの返事は芳しくなく、口を真一文字に硬く閉じて首を横に振る。
先程と同じ指示を杏奈に伝え、スーノはリキャストタイムの経過をただひたすら待つ。噛み締めた唇から血が流れているのことにスーノは気づかない。そして時間がきて呪文を詠唱する。だけれど結果は何も変わらない。
「まだだ、もう一回。杏奈、また頼む!!」
目を血走らせてスーノは同じことを繰り返す。何で?どうして?と顔を伏せて独り言を呟くスーノ。そんなスーノの肩に、誰かが手を置いた。スーノはその手の主に振り返る。そこには目を閉じて首を横に振るディーノの姿があった。
「もういい、終わりにしよう。これ以上は親父も望まない」
何かを悟ったようなディーノの表情を目にして、限界以上に張り詰めたスーノの気持ちがプツリと切れた。ぺたんと腰が落ちて地面に座り込む。
開いたままになっていたエンリコの瞼をディーノが優しく閉じる。周囲の団員達から、嗚咽の声が漏れ聴こえてきた。座り込み男泣きに泣き出す者すらいる。
やがて、地面に寝かされていたエンリコの身体が淡く光り出し、その身体から光の粒子が現れ空に上っていく。そして風に吹かれその光の粒子は周囲に広がる。別れを惜しむように、何か意思を伝えるように集まった団員達の間を縫っていく。その光がリナの頬を優しく撫で、叱咤するようにディーノの胸に当たり跳ね返る。
その後、光の粒子は舞い上がり天に消えていった。皆、その光の軌跡を目で追いかけていた。
エンリコの身体が横たわっていた場所にはエンリコの装備品が装備していた配置のまま転がっている。その中から、ディーノは飾り気の無い素朴な首飾りを拾い上げた。それを手にしたディーノの目が、思い出を反芻するように優しく閉じられた。
そしてディーノは空を見上げる。青い空がまるい天空に広がっている。南の空にはこの季節にはまだ早い積乱雲が迫り出してきていた。
最後まで読んでいただいた人はもうお気づきでしょうが、今回のお話の展開は原作のザントリーフ戦役のラスト付近と対になるようになっています。そして結末だけが違います。
残念ながら自分が書いているお話の登場人物は、当然のことですが本筋の物語に影響を与えることはできません。いわゆるモブキャラクターです。英雄にはなれませんし、奇跡じみた行いも出来ません。ログホライズンという物語の中に存在するかもしれないごく普通の、それでも必死に生きている人間の一人です。
そういうキャラクターが存在する余地がある、この「ログホライズン」という物語がわたしは好きです。




