始まりの地<1>
初めの感触は身体を包む温もりだった。
心地よいまどろみの後、徐々に意識が鮮明になってくると自分が抱きついているものが暖かい毛皮だと気づいた。さらに当てている耳には鼓動の音すら聞こえてくる。視界を上げてみると、首を回して覗き込んでくる獣の顔が見えた。
これは犬、いや狼?
開いた口から鋭い牙が見える。その牙は噛みつけば人間の首なんて簡単に砕いて引きちぎることだろう。もしかしたら非常に危険な存在が目の前にいるのではないか。状況を理解すると共に顔から血の気が引き、背筋に冷たいものが流れる。いったいこの状況はなんなんだ。
今日はGWなのに当然のように仕事でまた当然のように残業で9時まで仕事でもちろん休出代残業代なんてつかなくて疲れて食事も面倒くさいから途中でコンビニ弁当買って帰宅してシャワー浴びて洗濯機セットして食事していつもどおりにPC立ち上げてエルダーテイルにログインしてそうそう今日の深夜に拡張パック「ノウアスフィアの開墾」導入だっけ楽しみ・・・
現実逃避は止そう。
いま目の前には、この冬にネットショップで購入して新調したPCも、見慣れた机もインスタントコーヒーが入ったマグカップも無く、どう考えても一噛みで自分を噛み殺せるだろう狼らしき生き物がいて、こちらに顔を向けている
次の瞬間には自分の喉にその牙を突き立ててくるのではないか。首に噛み付いて振り回せば、自分の身体などボロ布のように引き千切られてしまうだろう。恐怖で身体が竦み上がる。
だが、なぜか一向に襲い掛かってくる気配は無い。それだけでなくグルグルと甘えてるみたいに喉を鳴らして顔を押し付け・・・
んっ、甘えてるみたい?
そうだ、よく見ればこの巨大な狼らしき生き物が犬と同じ性質だとすればだが、どうも甘えているように見えないか。もともとの顔つきが険しいため分かりづらいが、その瞳はやさしい色を見せ、敵意はまったく感じられない。恐る恐る狼の首筋に手を伸ばすと、手のひらに勇壮な毛並みを押し付けてきた。そして口を開き、長い舌で手の甲を嘗め回す
そう、よく観察すれば、自分はこの巨大な狼に身体を預けて意識を失っていたらしい。
どうやらこの狼は危害を加える存在ではない。というより意識を失った自分を守っていた、というのが実際のところだろう。
冷静になり辺りを見回せば、そこはは太い幹が連なる深い森だ。数メートル先には崩壊しかけているが石畳が敷かれた道らしきものがあった
「なに、この状況」
たしか部屋のPCの前でゲームをやっていたはずなんだが、いつの間にこんな森の中に移動したのか。
そもそも夜だったはずだ。そうだよ、そろそろ拡張パックが当たる頃だと考えていたのだから深夜12時だ。
しかし、周りを見るとどう見ても明るく今は昼間なのか。
それに目の前のこの狼らしき生き物はいったい何だ。肩の高さが自分の胸まであり、全長が3m近くある。
子供の頃、実家で大型犬、シベリアンハスキーを飼っていた。残念ながら現在住んでいるアパートはペット厳禁のため飼う事が出来ないが、子供の頃の経験からか犬好きで、それが講じてそれなりに知識もある。どう考えても、この大きさは犬ではありえない。
それとも狼ならこの大きさもありえるのか、そんなことを考えていると、起き上がったその狼らしき生物が白色の毛皮に包まれたその巨体を押し付けてくる。
こちらに向ける顔は巨大で、その口は自分の頭を一呑みにできそうなほどだ。そして並んだ牙は杭に見間違えるほどだが、その顔には敵意なんて欠片もなくて、馴れた大型犬がじゃれ付いてくるように鼻面を擦り付けてくる。
「いったいなんなんだよ・・・」
間 が抜けたように口をポカンと開け、呆然と空を見上げると、見えるのは木立の深緑と抜けるような空の青だった。
自分のことをそれほど図太い性格をしているとは思っていない。どちらかというと小心者の部類に当て嵌まると思っている。理由も原因も分からずに、突然見知らぬ場所に連れて来られ、そのまま放置なんてことになれば、パニックに陥ってしまうのは間違いないはずだった。
しかし、今曲がりなりにも冷静さを保っているのは、おそらくずっと寄り添ってくれているこの狼らしき生き物のおかげだろう。そしてこの狼らしき生き物は、決して自分に危害を与えることは無い、という根拠の無い自信がなぜかあった。
とりあえず落ち着いてきたので、身の回りの状況確認をする。現在地は森の中、獣道から少し入ったところの広場だ。
周囲には朽ち果てた社の残骸があり、石畳の参道に鳥居がかろうじてその姿を留めている。
この風景、どこかで見た記憶がある。
なんとなく嫌な予感がするがまずそれは忘れよう。次に自分の体を確認した。まず着ている服が違う。アパートの帰りシャワーを浴びて、部屋着のスウェットに着替えたはずなのに、今は麻のような素材のオフホワイトの上着に紺のハーフパンツ。その上に革の胴当を着けていて、手足には革の篭手に脛当、腰の革帯には鞄が括り付けてある。
そんなことよりもっと重大な発見があるのだけれど、やはり考えたくないので今は無視。
この時点ですでに嫌な予感は確信になりかけているのだけれど、そう簡単に認めるわけにはいかない。立ち上がってみると、目線の位置は普段と同じか気持ち低いぐらいなのがわかる。そして傍にはあの巨大な狼のような生き物が、寛いだように寝転がりあくびをしていた。
「これはやっぱりかな・・・うわっ」
眉間に手を当て考え込もうとすると、突然目の前になにか明るいものが突然現れた。
「・・・これは本気だ」
どう言い繕っても、明るいウインドウらしきものに表示されている内容は見慣れたエルダーテイルのステータス画面のそれだった。
「ははは」
その笑いには力が無かった。
こうなれば覚悟を決めるしかない。VRなのかどうか知らないが、リアルな身体感覚と目の前に広がる世界を見て、簡単には納得することなど出来そうもないが、ここはエルダーテイルのゲームの中で、自分はプレーヤーキャラクターに変異してしまっている、と。
そう考えれば、この妙に懐いている狼らしき生き物も説明がつく。この子は自分が調教師のクエストを経て契約した獣で、種別は「山犬」、名前はエンジ。名前の由来は、目の色が赤かったから、という身も蓋も無いものなのだが、決めるのに一日がかりだったのは今となれば良い思い出だ。
そしてこの見覚えがあるこの広場は、そのクエストでこの子と戦い自分に従えさせたあの場所だった。さすがにゲーム画面と現状のリアルでは全く同じには見えないが、この石碑には見覚えがある。そう確かにこの風景だ。
ようやく理解したか、というようにコチラを睨み付けてくるエンジ。
「ごめん、ようやくわかったよ」
そして先ほどの、襲われないだろうという、自分の根拠の無い自信も腑に落ちる。腰を曲げてエンジのあごの下をワサワサ撫で回してやると、嬉しそうにじゃれ付いてきた。この巨体の獣にじゃれ付かれると、ほとんど襲われているのと同じだ。圧し掛かられて顔をべろべろ舐め回される。なにか子供のころ飼っていた犬と遊んだ記憶を思い出した。
「やめろって、わかったよ」
かまってやれなかった分、やりたいだけやらせてやろうと思ったのは失敗だった。その体力は想像以上で、押し倒され揉みくちゃにされて顔中涎まみれになってしまった。
「しかし、まあゲームだとしたら良くできてるな」
一緒に寝転がったエンジの頭を撫でてやる。
「お前が傍にいて良かったよ」
横にあるのは、そんなこと当たり前だ、と言いたげな顔。
それはいいとしてまだ問題は残っている。
眉間に意識を集中するとステータス画面が目の前に現れる。
<メイン職業・森呪遣い(ドルイド)レベル80、サブ職業・調教師レベル85、所属ギルドなし>
使用可能特技などはゲームと同じだが、コレって使えるのか?
ものは試しと、特技ナチュラルトークを発動、隣のエンジに向き合う。エンジは何?というように首をかしげる。
「おなか、へった」
つたない言葉が聞こえてきた。どうやら、特技は使えると考えたほうが良さそうだ
この特技はゲーム時代も使っていたが、基本的にAIの決まりきった返事しか返って来ることは無かった。だがこの現実の姿をしたエンジの目を見ていると、意思らしきものがあるような気がしてくる
確かにゲーム時代から定期的に食料アイテムを与えなければならない設定にはなっていたが、それでもあたかも自我を持っているように食事を自分から要求することなどは無かった。面白いなと思い、魔法鞄を開いて手を突っ込むと、パンが一斤出てきた。これでいい?と差し出す。エンジは仕方ないといった様子でそのパンを一呑みにする。
「たらない」
「ごめん、ここにいるから、自分で狩に行ってくれるかな」
額を擦り付けて、エンジは森の中に走り出していった。
走り去る後姿を見送りながら、今のやり取りを考える。それはゲーム時代の決まりきった会話ではなく、生の感情が感じられるものだった。AIの自動対応とはとても思えない。
まあ、今はそれより現状確認を進めないと。
どうやら特技は使えるとみて間違いないようだ。次に隣にあるフレンドリストのウィンドウを開く。おそらく、リストにタッチすれば念話が使えると思うが、個人的な理由から今はあまり使いたくない。
その後、ステータス画面を隅々まで確認した結果、とりあえずの判断としては、ゲームの中に取り込まれたと考えるのが無理がなさそうだった
ログアウトの項目もあったが、案の定というか反応なし。GMコールも同様。失望が無いといえば嘘になるが、落ち込んでいても何も始まらない。
とにかくもっと現状を調べなければ。
現在位置を確認しようと、ミニマップを開こうとするが、それは存在しなかった。
しかし、現在位置が思ったとおりエンジと契約したあの社なら、獣道を下り少し歩けば小さな村があったはずだ。
まず山をくだり、村に向かおう。そして情報を集めてみよう。
指笛を鳴らししばらく待っていると、エンジが音も立てずに現れた。口元に少し汚れがついているから、食事はできたのかな?
「獲物取れた?」
「うん」
「じゃあ行こう」
スーノは森の中の獣道に分け入り、山を降りていった。
◆
そこは小高い丘の上にある300人ほどの人が暮らす村だ。村人多くは村の西側を流れる川沿いに広がる畑で麦作を中心とした農業に従事し、また東側に広がる森に分け入り、狩猟を行うものも少なからずいる。
つまりは農業と狩猟採集で生計を立てる、ごく普通の村であり、よそ者が訪れることは多くない。
そうはいっても、定期的に訪れる商人や、また年に一度ではあるがモガミの街からやってくる徴税吏など、訪れるものがまったくいないわけではない。
そしてその中には冒険者とよばれる人々もいる。
村の中心は広場があり、その周りを公共の施設や少ないが店舗、それに村の有力者の住居などが並び、普通の村民の住居はさらにその周囲に点在している。
広場は村人の集会などに使われ、中央に数人が乗れる台が置かれている。おそらく集会などで村長や村の相談役などが上るのが普通なのだろう。だが、今はどうも毛色の違う者がその台に座り込み、その周りを数人の村人だろう男や女、果ては子供までが遠巻きにして触らぬ神に祟り無しといった風で覗き込んでいた。
台に座り込んでいるのは大きな男、身の丈190cm近くで頑強な金属鎧を身に纏い腰には大剣を挿しているため判り辛いがスリムな体型の金髪碧眼の青年だ。特徴的な尖った長い耳からエルフ種族だということは遠目にもわかる。
金属鎧と大剣を装備したエルフの戦士、となれば、それは冒険者でしかない。
金属鎧や大剣というのは、一般人が所持するには高価なものだ。そしてそれは、この世界では一般の民がまず手にすることの無い「兵器」である。
弓ならば狩猟で使うだろう。鉈やナイフなら藪を刈り取ったり仕留めた鳥獣を解体するのに使うこともあるだろう。小剣も護身用と考えれば、一般の民が持っていてもおかしいとまでは言えないかもしれない。鎧も革の鎧程度なら同様だ。
だが金属鎧や大剣となれば話は違ってくる・それらは村人が普段の生活ではかかわることの無い「兵器」の範疇に入り、兵器を装備するものは軍人、この世界に当て嵌めるのならば各地の領主に召抱えられた騎士となるだろう。
そしてここヤマトは人間の国で、そこには他種族であるエルフを騎士として雇う領主はいない。
しかし何事にも例外はある。
エルフの騎士という実際にはありえない組み合わせを成立させる存在、冒険者がそれだ。
人間であって人間でない存在。同じ種族であっても、ヤマトの大地に根を下ろす「大地人」とは異質な存在である。とはいっても、ただ冒険者だというだけなら、その頻度は少ないがこの村にも訪れることもあり、村人もここまで訝しみ警戒することは無い。しかし現在座り込みうつむいているその青年は、少し前まで狼狽し、近くの人間に訳の分からないことをわめき散らし、挙句の果てには泣き出してしまっていた。
冒険者とは超人的な存在であるが故、村人はどこか隔意を持って接してきたこともあり、この冒険者の扱いについて村人は苦慮していた。
日本サーバーで約3万人のプレーヤーが異世界に転移してしまった事件である「大災害」。
多くのプレーヤーはいわゆるプレーヤータウンと呼ばれる5都市に現れることになったのだが、中にはプレーヤータウンではなく各地の都市、村、またはフィールドに転移したものも少なからずいた。なぜプレーヤータウンでは無く地方都市や村、さらにはフィールドに転移することになったのか、その理由はそもそもこの「大災害」の原因も定かでない現状では分かるはずも無い。
このような混乱時、やはり数というのは力といえるだろう。様々な問題への対処時に、同じ境遇のものが多数いればお互い協力し合い、より解決の糸口へ近づくことができる。それができなくとも、同じ境遇のものが一緒にいるということだけでも、安心につながる。
反面、その数が悪い方向、疑心暗鬼からの流言、そして暴動につながる可能性も少なくない、ともいえるだろう。
さて、プレーヤータウンに転移した者たちとそれ以外のプレーヤーとでは、どちらが運が良かったのだろうか。




