side雪夜31
金曜日、道場で師範に「来週の金曜はお休みします」と言った。神崎さんから大ブーイング。オレ、空手をしに来てる訳であって神崎さんに会いに来てる訳じゃないんだけど。
「理由のない休みは認められん!何故休む!?」
神崎師範が言う。あのね。オレ金払ってここに来てる訳。金払った対価に空手教えてもらってるだけだから無理やりここに拘束されるいわれはないの。わかる?
「来週金曜は、お隣の家で赤ちゃんの相手をしなくてはならないので。」
隣の中島さん宅では生後二カ月の赤ちゃんがいる。普段は奥さんの真理子さんが付きっきりで面倒を見ているが、来週金曜だけは外せない用事が出来てしまって夕方から外出するらしい。旦那さんの正史さんは作家で、家には居るが、来週の金曜日は締め切り間近で手が離せそうにない。それで義母さんと真理子さんが世間話してるときに「じゃあ雪夜に赤ちゃんを見させましょう」と言う話に決まった。桃姉はバイトだし月姉はレポート3つも提出期限が迫ってて忙しそうだし、義母さんは実家の方に手伝いに行かなきゃならないらしい。
「雪夜君、赤ちゃんの世話とかしたことあるの?」
結衣が聞く。
「ないけど。漏らしたり、食事の時間になったら遠慮なく旦那さんを呼んでくれって。呼ばれた時はちゃんとお世話してくれるらしい。だから本当にご機嫌取って様子見ているだけ。」
「私も行くわ。」
神崎さんが我儘を言いだした。
「いや、呼ばれてるのオレだけだから、勝手についてこられても困る。」
何言ってんの?大体大切な赤ちゃんの所に知らない人間が顔だしたら真理子さんも嫌な思いをするんじゃない?
「じゃあ、お隣さんに連絡して許可を貰ってよ。私、赤ちゃんのお世話はしたことないけど、旦那さんのお夕飯は作れるわよ?」
「無理だって。我儘言わないで。」
「だって週に一度の愛の逢瀬なのよ。それが潰れるだなんて我慢できない。」
「遊びに行くんじゃないんだよ?」
「私だって遊びに行くんじゃないわ。旦那さんのお夕飯を作りに行くのよ。」
「そんなの真理子さんが用意してから出掛けるはずだから出しゃばる必要ないの。」
「奥様の負担を少しでも減らして、締め切り間際の旦那さんに温かい物を食べさせてあげる気配りよ。」
「だから…」
「お願い雪夜君。貴方はそうするべきなのよ。」
「知らない人は…」
「雪夜君が保証してくれればいいわ。」
オレも信用ならないと思ってるのに?
「ね。良いでしょう。良いと言って。早く連絡してみてちょうだい。」
うう~ん。
「早く。早く。」
「絶対に赤ちゃんに危害を加えない?赤ちゃんの害になるようなことしない?」
「勿論よ。」
じゃ連絡だけしてみるか。結衣が嫌じゃなかったら結衣にもついてきてもらおうかな。神崎さんと二人っきりな状況は精神衛生上よろしくないし。
「雅さんが行くなら、あゆみも行くぅ。」
藤森が駄々をこね始めた。
「藤森行っても何にもできないだろ?」
「だって雅さんだけずるいずるい!そんなの許せなぁい!!あゆみも行くぅ!雪夜君と赤ちゃん見るぅ!!」
「知らない人が急に何人も行ったら赤ちゃんの心が疲れちゃうだろ?」
「大丈夫だよぉ。知らない人に接することで社会性が身に付くんだよぉ?だからあゆみも行くぅ!行くったら絶対行くぅ!」
「はっきり言って邪魔なんだけど。」
「やだぁ!やだぁ!行くぅ!行くぅ!」
「煩いわよ小娘!雪夜君は私と二人っきりで赤ちゃんを見るんだから。夫婦のようにね!」
それはちょっと…いや、かなり嫌だ。
「そんなの許せなぁい!!雪夜君が旦那さまであゆみが奥さんなのぉ!」
おままごとか!
「行くったら行く!」
「騒がない、喚かない、邪魔しないか?」
「しない。しない。」
オレは大きな溜息をついた。
「結衣も来る?」
「え?ご迷惑じゃない?」
一番来てほしい人はこうして常識的な考え方をするんだよね。だから好きなんだけど。
「まあ、迷惑だろうけど…3人平等、でしょ?」
チラッと何か言いかけた神崎さんを目で牽制する。3人平等は神崎さんが言い始めた事だ。自分から反故にする事はないだろう。
「うん……じゃあ、相手のお宅の方がいいって言ったら行くよ。」
まあ、それが当然だよね。
「二人とも、一応連絡はしてみるけど、相手に断られたら、ついてくるのは無理だからな。」
きっぱりと言い切った。拒否されてそのうえで家に入るのは家宅侵入だ。
携帯で中島さんに連絡をとってみる。
真理子さんは案の定微妙な反応をしたが、自分が頼んでる側だし…という負い目もあってか、最終的には「ではお友達も一緒で構いません。うちの旦那のお夕飯お願いしますね。でも赤ちゃんのいる家だし、締め切り前だし騒いだりはしないようにお願いします。」と言っていた。無理言って申し訳ない。
「騒いで迷惑かけたりしたら問答無用でつまみ出すからな?」
神崎さんと藤森にそう言って話をまとめた。
結衣はその後「何か手土産持って行くけど何が喜ばれるかな?」と聞いてきた。流石気遣いできる。こっちが我儘言って迷惑かけちゃってるし手土産の一つも欲しいよね。中島さんご夫妻は甘党なので甘いものが良いかなと言っておいた。
金曜日、学校が終わってから軽くおやつを食って歯を磨いて着替えた。丈夫な素材のロンTとチノパンを履いた。
中島さん宅へ行くと真理子さんが待ってましたと出てきた。中に入れてもらって、洗面所で手洗いうがいをする。
「雪夜君、今日は大変なこと頼んじゃってごめんなさいね?」
「いえ、こちらこそ我儘言ってすみません。」
「いいわよ。そんなに熱心に来たがるなんてよっぽど赤ちゃんの好きなお友達なのね。」
「いや、赤ちゃんと言うか…一応オレの事好きみたいです。」
本当は雪夜に愛される『自分』が好きなだけだけど。
「まあ、やっぱり雪夜君モテてるのね!」
「どうでしょう?」
「ふふふ。じゃあ、楓のことお願いね。多分次のミルクは18時半ごろだと思うけど、うちの旦那を遠慮なく呼んでね。私はもう時間だから行ってくるわ。」
「気をつけて行ってらっしゃい。」
真理子さんを見送って中で楓ちゃんを見る。柵のあるベビーベッドで上に手を伸ばしてはしゃいでいる。赤ちゃん可愛いな。お世話するとなると大変なんだろうけど。楓ちゃんはその後一度泣いた。おむつっぽかったので正史さんを呼んでお願いした。正史さんは手際よくおむつを変えていた。オレも将来はこれが出来るようにならないとね。手際をよく観察していると藤森が来た。手洗いうがいをさせる。
「きゃ~かわいい~」
「騒ぐなよ?」
「わかってるってぇ。」
藤森と一緒に楓ちゃんを見た。二人で楓ちゃんの手に触ってみたりする。ちっちゃなぷくぷくの手で指を握り返してくれたりして可愛い。
30分ほどしてから結衣が来た。オレが手洗いうがいを強制するまでもなく藤森に洗面所の場所を聞いて、手洗いうがいを済ませたようだ。
結衣が居間に入ってきた。結衣も今日はロンTにカーディガンにデニムと、いつものお洒落着ではなかった。
「あ、結衣。」
「中島さんにクッキーの詰め合わせ持ってきたから、そこに置いておくね。」
「うん。」
有り難い。中島さんも喜ぶだろう。結衣は赤ちゃんを見ているオレたちを見ていたが不思議そうに首を傾げた。
「抱いてみないの?」
「抱き方がよくわからないから怖くて。」
まだ首すわってないしちっちゃいしぐにゃぐにゃしてなんか怖い。
「抱きよせて、こうやって股の間に手を入れて…」
結衣は赤ちゃんには慣れているようだった。横抱きの仕方をレクチャーしてくれる。結衣が抱きあげると楓ちゃんは大喜びだ。きゃーきゃー声をあげている。
「どう?抱いてみる?」
「うん。ちょっと怖いけど…」
結衣が教えてくれた通りに抱く。楓ちゃんはご機嫌で手を動かしながら「あーうー」と声を上げている。
「あゆみもぉ!あゆみもぉ!」
と藤森が言うので抱いてもらう…が、藤森は今日は長い髪をおろして来ていた。楓ちゃんが髪を掴んでぐいぐい引っ張った。藤森が「痛い!痛い!」と悲鳴を上げたので慌てて結衣が抱き替えた。楓ちゃんからすれば丁度良い所にあるおもちゃくらいの認識なんだろう。口に入れられたりしなくて良かった。髪には色々な物が付着してそうだからな。
「雪夜君、この子のお名前は?」
「中島楓ちゃんだよ。女の子。」
「そっかあ。楓ちゃん、今日はよろしくね?」
結衣は楓ちゃんを抱きあげてゆらゆら揺すっている。チャイムが鳴った。神崎さんだった。藤森を対応に出すとすぐに神崎さんが入ってきた。
「雪夜君、今日のお夕飯は楽しみにしててね?愛情たっぷりのカルボナーラを作るわ。あら、可愛い子。朝比奈さん、私にも抱かせて?」
「いいけど、とりあえず手洗い、うがいしてきて。」
結衣は神崎さんに手洗いうがいをさせてから、抱き方をレクチャーして抱かせた。「まるで私と雪夜君の子みたいね~」と神崎さんは途中まで喜んでいたが、楓ちゃんが神崎さんの服についていた飾りボタンを千切ってしまって、激怒した。「触るんじゃないわよ!」と飾りボタンを奪い返して、楓ちゃんを結衣に戻した。楓ちゃんは怒られて泣いてしまい、結衣が苦労して楓ちゃんの機嫌を取った。神崎さん、来て早々大迷惑。赤ちゃんの面倒を見に来ているのにその小さな飾りボタンがずらっと並んだ服を着てくるのはどういうことなの?もし飲み込んじゃったらどうするつもりだったの?気管に詰まらせて死んじゃったりしたらどう責任とるつもりなの?どう責任とった所で死んじゃった命は返ってこないんだよ?
楓ちゃんの機嫌もなおってしばらくベビーベッドに寝かせて様子を見ていたが、急にぐずり始めた。
「おむつかな?ご飯の時間にはまだ早いし。」
時計を見るがまだ17時30分。
「中島さん呼んでくるね。」
オレは立ちあがった。
「良いよ。私がやっちゃうから。」
結衣がオレを制した。部屋の隅のおむつ一式の中から新しいおむつとお尻拭きをとってくる。楓ちゃんが履いていたおむつを開ける。ふくらはぎを持ってお尻を上げさせる。お尻拭きで上から下に汚れを落としている。オレが吃驚するほど手早く新しいおむつに交換してしまった。
何か結衣、赤ちゃんの扱いに凄く慣れてる。おむつを替える動作は正史さんと比べても遜色ない。でも結衣には年の離れた姉妹とかいないし、どこでお世話する機会があったんだろう。
「結衣、なんか慣れてるね?赤ちゃんのお世話したことあるの?」
1回や2回おむつ替えた事あるくらいじゃ、ああも手早くはできないと思う。相当慣れてた。首のすわらない赤ちゃんの抱き方も知ってたし。
「うん、ちょっとだけね。」
「へぇ?朝比奈さんの隠し子かしら?」
神崎さんが嫌味を言う。
「赤ちゃんで好感度上げとか卑怯ですぅ~。」
藤森が妬む。結衣は結衣のできる事をしてくれただけなのに酷い言われようだ。
「とりあえず私は手を洗ってきちゃうから。」
結衣は二人の事は相手にせずに、汚れたおむつを丸めるとビニール袋に入れて口を閉じた。結衣は洗面所で手を洗って戻ってきた。
結衣が楓ちゃんの両手を持って動かしてあやす。
「楓ちゃんって可愛いお名前ね?」
結衣が言うと神崎さんが「そうかしら?」と言う。楓ちゃんの名前が気に入らないようだ。良いと思うけどな。音も字も綺麗だし。
「神崎さんならどんなお名前をつけるんですか?」
結衣が聞く。
「そうねえ、私と雪夜君の可愛い子だもの!女の子なら宝石姫と書いてジュエルプリンセスとか?男の子なら愛騎士と書いてラブナイトとか?」
あり得ない名前が出て来てオレは絶句した。マジか?こいつの感性あり得ねー。オレの子とかあり得ないから神崎さんと誰かの子だったとして名前は『かんざきじゅえるぷりんせす』とかになるのか…まず間違いなく企業の選考で履歴書送った時点で落とされるな。ラブナイトも音でlove nightとかだと誤解されるといかがわしい感じだし。エロカワイソスな名前だ。
オレと結衣は沈黙した。神崎さんはドヤ顔だ。
「キャハハ!だっさぁい!ありえなぁい!」
藤森が沈黙を破った。
「何よ!アンタならどんな名前つけるって言うの?」
神崎さんが藤森を睨みつける。
「ん~、あゆみと雪夜君の子ならぁ、あゆみは海が好きだからぁ、女の子なら海に月でみづきちゃんとか?キャッ、カワイイ!」
クラゲかよ。その子のあだ名は命名された時点で確定したな。くらげちゃんだ。
「男の子ならイルカちゃんとかどうかなぁ?」
漢字で書くと海の豚…微妙だ…。豚ってイメージが良くないよね。それに音でいっても日本史の授業で確実に入鹿でからかわれる。
神崎さんは感性がおかしいし、藤森は明らかに頭悪い。オレなんでこんな変なのに言い寄られてるの…?マジ勘弁だよ。将来こいつらと家族になるとか1ミクロンも思えない。
「アンタばっかじゃない!?クラゲに海の豚じゃない!」
神崎さんが怒鳴ったのに吃驚して楓ちゃんが泣きだした。お前これで楓ちゃん泣かすの2回目だぞ?いい加減にしろよ?結衣が慌てて楓ちゃんを抱き上げて「怖かったね~?大丈夫だよ~」とあやす。
「神崎さん、大きな声をあげないで。次泣かせたら出て行ってもらうからね。」
オレは低い声で神崎さんを叱って睨んだ。神崎さんが恨めしそうに楓ちゃんを見た。悪いのは楓ちゃんじゃなくてお前だ。常識をわきまえろ。
「結衣ならどんな名前がいい?」
オレの清涼剤、結衣に聞いてみた。まさか結衣までトンデモな名前つけないよね?
「女の子なら美しいに鼻緒の緒で、みおちゃんとかどうだろう。男の子なら颯爽の颯に太いで、そうたとか。」
美緒ちゃん可愛い。颯太も良い。結衣は期待を裏切らないよ。ごく普通の感性に癒される。七瀬美緒ちゃんか。良いかも…結衣似の娘が欲しい。でも可愛すぎて嫁にやりたくなくなりそうだな。七瀬颯太も良いな一緒にアウトドアとかしたい。
「ありがちね。」
確かに美緒ちゃんや颯太君は同じ名前の人はいるだろうけど名前はオンリーワンが常に素晴らしい訳じゃない。他人に受け入れられる名前が素晴らしいんだ。同じ名前がいたっていいじゃない。実際の個人にはちゃんと差があって違う人間なんだから。結衣なんて名前はごまんといる。その中でオレが好きな結衣は今目の前にいるただ一人だし。
「ううん。すごくいい名前だと思うよ。結衣のセンス好きだな。」
オレは結衣のセンス好き。しかしオレが褒めた途端に二人が結衣に憎悪の視線を向けた。オレは神崎さんからの憎悪の視線が気になる。あれは殺気?まさかね。
しばらく結衣が楓ちゃんをあやしていたが、楓ちゃんは突然火がついたような勢いで泣きだした。結衣がおむつをチェックしたがおむつじゃないらしい。
「そろそろミルクかも。」
時計を見ると18時45分。
真理子さんが18時半くらいにミルクかもって言ってたな。
「ミルクのセットある?」
結衣が聞く。
「あるよ。」
中島家のミルクセットの場所は知っている。結衣にミルクセットの場所を教えた。
結衣は急いでミルクを作っているようだった。オレはギャーギャー泣いてる楓ちゃんを「もうすぐだからね~もうすぐだからね~」とあやしている。
ほどなくして哺乳瓶を持った結衣が現れた。
「雪夜君、ミルクできたから楓ちゃん渡してくれる?」
「うん。」
結衣は楓ちゃんを横抱きにして「ミルクですよ~」と声をかけながら哺乳瓶を傾けて深くくわえさせた。楓ちゃんはお腹が減っていたらしく凄い勢いでミルクを飲んでいる。
良かった~。結衣がいなければ即執筆中の正史さんを召喚してオレはおたおたしながら楓ちゃんを見ているだけだったよ。結衣のおかげで正史さんを召喚しなくてもミルクもできたし、オレも楓ちゃんの抱き方を教えてもらえたからあやせた。
「結衣がいて本当に良かった。」
「ホント?お役に立ててるなら良いけど。」
結衣凄い。料理も上手くて育児もできるなんて即お嫁にいけそう…ますますオレにはもったいない感じがして眩しい。
結衣は座って楓ちゃんにミルクを飲ませている。オレはその隣に座ってミルクを飲んでいる楓ちゃんを見ている。何かこれって…
「なんか、オレ達夫婦みたいだね?」
結衣の頬がぽっと赤く染まった。可愛い奥さんだな。
「ぜーんぜん夫婦じゃないですぅ。どっちかって言うとご主人さまと乳母って感じでしたぁ!ほら、ご主人様ぁ、乳母から離れて?」
藤森がオレを引っ張る。下手にごねて楓ちゃんが泣いたりしたら困るのですぐに結衣から離れる。短い幸福だったな。
「赤ちゃんを使って雪夜君の気を引こうだなんて、ちょっと汚いんじゃないの?」
神崎さんが結衣にすごむ。神崎さん、分かってる?次楓ちゃんを泣かせたら容赦なく追い出すからね?
楓ちゃんがミルクを飲み終えると結衣は楓ちゃんの体を縦抱きにして背中をさすった。そう言えば赤ちゃんはそうやってげっぷを出してあげないといけないって聞いたことあるな。
けぷっ
楓ちゃんはげっぷを出した。楓ちゃんはそのままうつらうつらしていたので結衣がベッドに寝かせた。結衣は哺乳瓶の手入れをしているようだ。オレは手入れの仕方を詳しく知らないが、結衣にはちゃんと分かってるみたい。結衣なら任せても安心だろう。
神崎さんと藤森はオレの傍にべったり張り付いて離れない。鬱陶しいけどここで怒ったりしたら楓ちゃんが起きてしまうかもしれないので我慢した。
「ねえ、雪夜くぅん…」
「楓ちゃんが寝てるから静かに。」
藤森がオレに話しかけたが寝ている楓ちゃんが起きてしまうかもしれないので、小さな声で注意した。オレと結衣は静かに楓ちゃんの寝顔を眺める。神崎さんと藤森はオレを見ていたようだが。
19時半頃になって神崎さんが「そろそろ夕食の支度をするわ」と言って立ちあがった。結衣も手伝うようだ。藤森も手伝いたそうだったが、藤森は料理が得意ではない。手出しされたら大惨事だ。オレたちが食う分には諦めも付くけど正史さんも食べるものだし、是非お手伝いは遠慮していただきたい。結衣が藤森に「楓ちゃんを見てあげてて」とお願いしていた。
20時前には夕食ができたのでオレが正史さんを呼びに行った。
正史さんはオレ達を見て一言「ここは大奥か…?」と言った。
オレは一夫一妻制を支持します。
「いや~、楓を見ててもらってすまんね。しかもおむつもミルクもやってもらったみたいで。いやあ、ありがたい。おかげで筆が進んだ。このままいけば締め切り余裕!かかってこい明日よ!」
正史さんはカルボナーラを食べながら、テンションが上がっている。
「良かったですね。今日は私達までお邪魔しちゃって申し訳ありません。あちらに手土産のクッキーがありますので、よろしければどうぞ。」
「本当かね!私も妻も甘い物には目が無くてねえ。有難う、少女Aよ!」
聞くともなしに結衣と正史さんの会話を聞いていたが、神崎さんがオレに料理の感想を求めた。
「美味しいよ。しょっぱさもまろやかさも丁度良い味付け。」
神崎さんの手料理って初めて食うけどなかなか旨い。でも神崎さんは『雪夜君に愛する私の手料理を食べさせてあげられた』喜びに浸っていてうざい。それをまた藤森が恨めしげに見ている。うざい。
「やっぱり雪夜君は愛する私の手料理を求めていたのね。今度雪夜君のお家でも作ってあげるわ。」
「それはいらない。」
自宅襲撃は勘弁してくれ。遠慮なく武力排除するよ?
トマトの味付けの好きなオレは結衣の作った卵とトマトのスープが美味しくてたまらない。結衣はツボついてくるよ。
大方食べ終わったあたりで楓ちゃんの泣き声がした。いち早く結衣が駆け寄る。今度はおむつらしい。うんちだったようだが、結衣は手早くお尻を綺麗にしておむつを替えた。
「あ、中島さん、汚れたおむつってどこにやってます?」
「あ、ああ、トイレの横におむつポットがあるよ。しかし、君は手際が良いねえ。」
正史さんが感心したように言う。
「ありがとうございます。」
結衣は汚れたおむつをおむつポットに入れて手を洗ってきたようだ。でも楓ちゃんは起きてしまったが結衣の夕食は食べかけ。オレは慌てて自分の分の食器をシンクに置いた。
「楓ちゃんはオレが見てるから結衣は食事に戻っていいよ。」
結衣は夕食のテーブルに戻った。オレは楓ちゃんを横抱きにしてあやし始めた。結衣はその様子を見てちょっと安心したようだった。夕食に戻った。
「ふむ。それで、雪夜君は誰が本命なのかな?」
正史さんがいきなりずばりと切りだした。結衣が本命だけど、今それを公開したら結衣が二人に苛められるだけだ。オレが守るつもりだけど、どんな手を使ってくるか分からない。まだ公開しない方が良いだろう。オレが肉体的に神崎さんより確定的に強い事を確かめて、結衣への気持ちに覚悟を持てたら公開する。
「やー。それがオレにもわからないんですよ。」
嘘だけどね。ニコニコ楓ちゃんをあやしながら、事故で記憶が無くて二人の自称彼女がいる事を話した。ついでに一人の彼女立候補者の事も。
「おお、事実は小説よりも奇なりだね!そんな事が本当にあるとは!今度小説のネタに使っても良いかな?」
「良いですよ。」
オレが許可を出すと正史さんは結衣たちへ向きなおり、丹念に結衣たちの性格を調べる質問を繰り返した。わざと挑発して相手を怒らせたりしている。どういう風に使うか分からないけど後でちゃんと正史さんに本命は結衣だと伝えておこう。小説で神崎エンドとか読むとがっかりするし。オレは正史さんの書いたラノベの読者だ。正史さんの書くラノベは王道ライトファンタジー。軽い読み口でするする読める。異世界転生したチートな主人公が異世界で無双するお話だ。ツンデレの幼馴染とのやり取りがとってもストロベリー。
正史さんは食事も終えて質問も終えて満足すると、執筆に戻って行った。食事の後片付けは神崎さんと結衣がしてくれた。
しばらくまったりしていたが、21時半が近付いたあたりで結衣がミルクを作り始めた。オレは楓ちゃんをあやしている。楓ちゃんは上機嫌だったが。しばらくするとまた火がついたように泣き始めた。念の為おむつをチェックしたがおむつじゃなかった。結衣がミルクを持ってきて楓ちゃんに与えた。良いタイミングだ。楓ちゃんは結構よく飲むみたいでごくごくミルクを飲んで、結衣にげっぷをさせられるとまた眠ってしまった。結衣が哺乳瓶の手入れをし終えてまた居間に戻ってきた。オレと結衣がしばらく楓ちゃんを見ていると、玄関がガチャっと開いた音がした。真理子さんだ。
「ただいま。雪夜君と、雪夜君のお友達ね?楓を見ていてくれてありがとう。何か問題なかった?」
「いえ、大丈夫でした。30分くらい前にミルクを飲んで今は寝てます。」
結衣が答えた。
「そう。ありがとう。もう帰る?遅いけど大丈夫?これ梨なの、どうぞ、持って行って?」
真理子さんは台所の段ボールを開けて梨を出した。
お礼を言って受け取った。一人につき2個くれた。もう夜遅いけど、ここで2人はサヨナラして結衣だけ送ったら大ブーイングだよな。オレはちょっと困った顔になる。結衣は気にせず自宅に電話をかけていた。和郎さんが迎えに来てくださるそうだ。藤森も迎えがあるらしい。神崎さんは自力帰宅。「雪夜君送ってくれるわよね?」と言われたけど「嫌。神崎さん強いから大丈夫でしょ。」とつっぱねた。
家庭を持つって良いな…オレもいつかは結衣と…少しだけ夢を見た。
全国の海月ちゃん、イルカくん、宝石姫ちゃん、愛騎士くん、ごめんなさい。海月ちゃんカワユス。




