Game.08 ただ、殉ずるのみ
ダスクカラーもすっかり定着して、街の明かりも賑やかになってきた。
陰翳が勝る空間の中で、心許ない光を頼りにやってきた、エプロンの女性が言った。
「お待たせ致しました、ウィンナ・コーヒーとキャラメルラテになります」
VS-Driveで時刻を確認する、十数分ほど前のこと。
「自分の危機を救ってくれた礼だ」と、少女を喫茶店へ連れて来た。
洋風家屋然とした佇まいはすっきりとした印象を与え、来る者の緊張を解きほぐす。
テーブルに置かれた、二つのマグカップ。白いクリームを湛えた方は、彼女へ。薄黄の泡を乗せた方は、彼へ。
従業員のビジネススマイルを容易に受け流し、羽々斬と少女はそれぞれ自分の注文した飲み物に口を付ける。
二階のテラス席――――景色は良い。
「ごゆっくりどうぞ」
従業員の女性は最後にそう残し、伝票を置いてBGMの流れる店内へ消えた。
未だ痛む彼の傷に、甘味がじんわり沁み渡る。
一息ついて、最初に口を開いたのは羽々斬だった。
「こんなもんで良かったのか? パフェとか食っても良いんだぜ?」
長身のせいか、虎のようなただならぬ存在感を放つ少女に、そのように訊ねる羽々斬。
面持ちはどこか自慢げで、妙な余裕を内包しているように感じられるのは気のせいではないだろう。
「ただ、不正行為を止めただけだ。そこまでの礼を受けるほどの事はしていない」
相対する少女は、無愛想な男性的口調で返した。
カップで半分隠れても、整然とした顔は様になるもので。
ちらりと横に逸れる寂しげな視線が、なんとも色っぽい。
「ああ、今の時間だとなんかがっつり食えるモンの方がいいのか? 俺ナポリタン好きなんだけど。食べる? ねえ食べる? っていうか俺を食べる?」
「好意だけ受け取っておく」
「あー……うん、そう」
それとない口説きもすげなくいなす、ハスキーがかった声。
急に向けられたオリーブ色の瞳に、ちくりと胸を刺された。
ことり、とカップの置かれた音に次いで、今度は少女から話を振る。
「……聖鎧、なんだな」
「ん? あぁ、まあな」
その目が聖鎧の制服を捉えた時、同じくして彼女のジャージを見た羽々斬も、
「そういうアンタも、だよな」
「二年だ」
彼女が学び舎を共にする者だと確信する。
直後の発話を聞いて驚いたのだろう、頬杖を取り払って「す、すいません」と間に合わせの敬語を作った。
「いい、気にするな。私も敬語は得意じゃない」
「そういうことなら、言葉に甘えさせてもらうわ」
少しの静寂が二人を包む。木製の丸テーブルを徒に指でノックする少年と、解放されきった景観を眺める少女。すぐ下の道路では車が走っている。
名前を知るどころか、面識すらないのだから、何もおかしい事はない。会話が途切れるのも必然だろう。
時間が着々と重なるほど、話も致しづらくなるというに――わかっていても繋げない。
共通ワード「聖鎧」も、話題としては少し心許ない。
さりとてこのまま気まずい雰囲気が続くのも良しとしない。
「あ」
「楽しいか」
「へ?」
「聖鎧の生活は、楽しいか」
開口せんとした口を遮り、彼女が出し抜けに言の葉のカウンターをくらわせた。
「どうだろうな。来たばかりだからなのかもしれねーけど……まだ、なんとも言えん」
「欲しいものが全て手に入り、服従する格下を見ても……、お前という奴は満足しないか?」
訝りつつ返答する羽々斬だが、すぐ後には無意識のまま意味深長な表情を作ることになる。
――頭の中で駆け巡るのは、生徒会長――呉鶴の言葉。
『力なき者はどこまでも落ち、力ある者は延々と上がり続け――終いには強者だけが生き残り、弱者はその糧となり果てる』
『シンプルにして明快な、実力が絶対の生存競争』
記憶の中で挟まるのは、先ほどの映像。
「そりゃ――――俺だって何も見てなきゃ、『楽しい』って言ってられたかもな」
「まるで『自分だけが知っている』とでも言いたげだな」
「“ただ与えられる奴ら”よりかは、知ってるつもりだ。傲慢かもしれねえけど」
「――理屈ではどうにもならないことも、か?」
「……………………」
羽々斬は押し黙り、視線を漂わせた。
「……すまないな、少しだけ意地悪をしてしまった」
「いや。中途半端な理想を抱いた、俺が悪い」
半分ほどコーヒーを飲み下した頃に、向かいから聞こえた「そうだ」という一声に、羽々斬は注意を引かれた。
彼女が、急き気味にジャージのポケットをまさぐっているのがわかった。
「知り合いを探している。この者に、見覚えはないだろうか」
尋ね人。そう申した彼女が取り出した写真を、手元に持ってきて、確認した。
「――――――」
その瞬間に、心なしか、彼の白目の面積が増えた気がした。
愕然して失くした言葉はなかなか見つからず、口は鍵でもかかったかのようにきつく閉じられた。
スケールダウンした姿故の、見間違いであれ。疲れによる、イマジネーションの齟齬であれ。
一体この一瞬で、どれだけそんな風に願ったか。
――――写真に映っている少女は、真鶸だったのだ。
囚人をカメラに収めた時のような、正面からの全身写真。
病院の患者衣のような、ゆったりした青の衣服を纏っている。
静かに写真を返した。そんな羽々斬の顔を平然と見据える彼女。
『選択を間違えるな』。内心でそう連呼する。
「どうだ?」
「……いや、知らないな」
――この女が真鶸の追手だと認識するのに、そこまで時間は使わなかった。
問題なのは、その真鶸にとっての“彼女の善し悪し”がわからない事。
それがわからないからこそ、真鶸が彼女に何をされるかもわからない。迂闊な事は言えない。
ただ、真鶸が彼女から逃げ出した現実があるということは――――真鶸は彼女の『何がしか』を拒んだ、と見ていい。そして今も拒み続けている。
それが理解できたなら、自ずと返すべき答えなど出る。
「そうか、残念だ」
「……そいつさ、どういう奴なんだよ?」
「どういう奴、だと?」
「いんや、あまりにかわいいもんだから気になって」
「かわいい、か。……そうだな」
羽々斬は情報を引き出さんと、言外に本意を隠した。
少しの間だけ言葉を詰まらせたが、それでも彼女は語り始める。
「強いて言うなら、自分の為すべき事を放って逃げ出した、『裁かれるべき罪人』だろうか」
「為すべき、事?」
「ああ――『皆を救う』という責務を負っている」
彼女は、さらに続ける。
「尤も『皆』と云っても、この広い世界で見れば“数百人”なんて少ない数だが――――それでも、彼女がいなければ絶望のどん底に叩き落とされる“数百人”だ」
憤り、だろうか。否。
その仮面が如き固く冷たい相好に秘められた意思は、複雑に絡み合い、ないまぜになっているように感じられた。
「この少女は、その“数百人”を見捨てた。……宿命から、逃げ出した」
「…………のか」
「……?」
「逃げ出すだけの理由が、あったんじゃねえのか」
『もっと詳しく聞きたい』なんて言えない。不審がられてしまうから。
代わる言葉は、自分がストレートに感じた言葉。だから迷いなく声だって通った。詳しくないくせに、いけしゃあしゃあと口だって出せた。
少々の間を取って閉ざされた彼女の目。
「逃げ出すことそのものが、許されていい事ではない」
「……なに?」
それが開かれた時、
「“人はただ、宿命に殉ずるのみ”……そう言ったんだ」
彼女はこうのたまった。
車のバックランプが、路上で紅の尾を引く。
「それは、違うんじゃねぇか」
「違わない」
風が、未だ器に残留する飲み物を揺らす。
初めて、互いの視線が明確にぶつかり合ったかもしれない。
「正義の味方が、悪を前にして逃げ出した時――――置き去りにされた者達はどうなる?」
「そういう話じゃ」
「一国を統べる王が、その立場を放棄した時――――残された国と民はどうなる?」
「だから――、」
「同じだ。誰もが何かを背負ってる。果たすべき役目を持っている」
少女はそのまま「世界はそういった一人一人の役儀によって作られ、廻っている」と畳みかけた。
そこに重なる訴え。「んな宿命論じみた言い分が通ってたまるか」。
「救われない運命なんざ受け入れてみろ、そいつの生きる意味がなくなる」
「いいや、意味はある。救われない誰かによって、救われている誰かがいる。それはお前かもしれないし、或いは私なのかもしれない」
「じゃあそいつの幸福はどうなる」
「『端から不幸になる宿命だった』と諦めるしかない。それでも他人の幸せに変わったんだ、そいつとて満足だろう」
「手前の物差しじゃねえ。そんなもんは本人が決める」
またも沈黙。
暗闘反目。
この状況を表すには、四文字だけで良い。
意志の衝突とは、なんと単純なものか。
瞳が、合わせ鏡のように向き合って、無限の空間を内包する。
額を撫でたのは、空の流動に棹さす髪だった。
「……アンタとは、仲良く出来そうにねーな」
「そうだな、互いに向いている方向が違うらしい」
ぐい、と手に押されるテーブル。羽々斬の起立だ。
「ま、どっかでぶつからねェ事を祈ってるよ」
「同じく、だ」
少女が彼の手元を見てみると、綺麗に飲み干されたキャラメルラテがあった。
「んじゃ、先に帰るわ」
羽々斬は今一度彼女の顔を瞥見してから、その場をあとにする。
「さっきはありがとよ。SPは払っとくから、ゆっくりしてってくれや」
そうやって徐々に縮む後ろ姿を、彼女は静かに見つめ続けていた。
そしてそれが完全に消える頃。
「――羽々斬 颯人」
小さく、彼の名を唱えた――。
『ただいま』
少し慣れないけれど、心地のいい言葉。
また彼女の「おかえり」が聞けた。
なんでもないことなのに、彼にはそれが嬉しく感じられて。
疲れた体で食事を作り、風呂を沸かし、入り、テレビを観ては取るに足らない独り言。やがて時間がくれば、明日に備えて眠りについて。
なんでもない、普通すぎて笑ってしまう平穏――。
まあ、彼が幸せならば、それでも良いのかもしれないが。
「……?」
ソファで暫しの休息に浸る羽々斬の目へ、真鶸の姿が飛びこんだ。
窓一枚隔てても、確かに儚い存在感が――気付かせた。
彼女のいるベランダに、彼は足を踏み入れる。
すっかり宵闇に嚥下された方舟は、『外』となんら変わりはない。人通りが少なく、残る光は遠くの繁華街くらい。
二つの影が並ぶ。
「どうした」
その一声で、彼へ視線を寄せた彼女。
柵に背をぴたりと密着させ、三角座りしている。
「……なんでもない」
「風呂上がりだ、風邪引いちまうぞ」
「うん……」
柵に手をかけ、隣に立った。
「明日は晴れるな」と、満月が座する夜空を仰いだのを最後に、そこから無音が続く。
――そのせいなのか。考えなくても良い事まで、考えられてしまって。
考えなくても良い、彼女の正体まで――。
克明に想起するのは、先刻にあった運命論提唱者との遣り取り。
「……………………」
「……――ねえ」
思考を彼方の街明かりへ、紛らそうとする。
そんな折に聞こえてきた真鶸の問いかけに、羽々斬は内心で面食らった。
「なんだ?」
「……もし、世界が滅ぶとして……、一人の犠牲だけでそれを止められるとしたら――――ハヤトはどうする?」
「……………………」
「『そういう運命』と、その人を殺す? それとも、他の方法がある?」
見上げる彼女に、見下ろす彼。
どこかで鳴いた鳥がどこかへ羽ばたくと、ぶわ、と夜風が二人に吹きつけた。
彼が物言わぬまま何をしでかすかと思えば、真鶸は風が止んだ頃に、人差し指で小突かれた。
「……いて」
「小難しい事、聞いてんじゃねーよ」
「あぅ……」
両手で額を押さえる真鶸。
小突いた人間が辟易、といった表情で、面倒そうに頭をかいた。
「まー……俺は、よ」
「……うん」
「まず、これから犠牲になんなきゃならねえ、そいつの意志を聞いてからにする」
「『犠牲になるのが嫌だ』と、言ったら?」
「――そいつを助けるさ。世界を滅ぼしてでも」
「……皆、死んじゃうよ?」
「上等だ」。そんな即答。
「そいつ一人だけで助かる世界ってことは、皆がそいつに全責任を押しつけてるってことじゃねーか」
「……………………」
「一人を蔑ろにしないと救えねぇ世界なんざ――いっそ滅んじまった方がいい」
伸ばしたその掌が撫でたのは、少女のつむじ。
少女はよほど心地よかったのだろう、無意識に彼に頭を差し出していた。
「宿命なんて背負うな。運命なんて従うな」
「……うん」
「人は自由だから――ただ、生きてるだけでいいから――――」
「――うん」
いつしか、羽々斬へともたれかかっていた真鶸。
甘える子供のように、柔らかな頬をはりつける。
「……優しい、ね」
「へへ。受け売りなんだけどな」
たとえ数百の笑顔に繋がっても、一人の涙は許さない。
宿命は覆すもの。運命は抗うもの。彼はいつだって考えている。
『どんな人間にも、救われる権利はある』と。なればこそ、あの少女とは相容れない。
いつかの敵対を覚悟してから、真鶸に寝るよう促す。
「さて、そろそろ寝るぞ」
「……明日、服を買いに行くんだよね?」
「ああ、まあな」
「私も行っていい……?」
しかし不意に返る願いに羽々斬は困り、口ごもった。実に答えあぐねてしまうものだ。
明日。木曜日。彼は学校帰りに、真鶸の服を調達する予定だった。
驚くことに、彼女はそれに「同行したい」というのだ。
「けど、追手に見つかるリスクがなぁ……」
「……自分で着る物を、自分で決めてみたいの」
我儘を聞いて、はあ、と大きな嘆息をつく。
「……ダメ、かな……」
そして、少しずつ芽生える彼女の自我を実感しながら――。
「買ったら、さっさと帰るからな」
その我儘を、許した。