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School of Savage VS.  作者: 真坂倒
Episode.1
6/19

Game.05 少年のいちばん長い日

「……おかえりなさい」


『まさかな』と、また思った。

 そのまさかだった。

 いなくならない事を信じていたわけじゃないが、いなくなることを疑っていなかったわけでもない。

 かけた鍵を開けて戸をどかすと、朝に良く見た顔がいるではないか。

 床にM字のスタンプを押すように座り込んでいた泥棒少女は、別に不変――でも、ない。

 明らかに変わった箇所はあった。「赤が青になっていた」とか「×が○になっていた」とか、そこまでのレベルでもないのだが。

 でも、看過できない、半日近くでの変化。


「てめ、なんでエプロン着てんだッ!?」


 少女はエプロンを着用していた。

 それも生まれたばかりの姿の、すぐ上に。いわゆる裸エプロンという格好になる。

 驚かないはずがない。質の悪い悪戯か、はたまた背伸びした子供の誘惑かと勘繰り、目を白黒させながら邪推してしまう。

 鳩が豆鉄砲を食ったかのような表情に、彼女はこう述べる。


「……こうすれば、あなたが喜ぶと思って」

「喜ぶか! ちょっと喜ぶけど喜ぶかッ!」

「でも、この本には似たような姿の人がいっぱい写ってて……」

「あ゛ーーッ、俺のお宝本ーーーー!!」


 羽々斬が、彼女の手中から急いで取り上げた本のタイトルは『誘惑幼妻ゆうわくおさなづま』。彼女が言うとおり、中には彼女と同じような格好をした少女のイラストが沢山描かれていた。

 呼吸を荒らげ、「いつの間に」と呟いた彼は、手早くそれを机の中へ隠す。

 口惜しそうに手を漂わせる少女を、彼は叱った。


「お前なぁ、なんでそんなに手癖が悪いんだよ! 人んち勝手に荒らしやがって……あぁ、もう、他のお宝本まで……」

「……………………」


 足元で散り散りになった『お宝本』を次々に拾い集め、慨嘆する羽々斬。――を、少女は「きょとん」とすっとぼけた面持ちで見つめている。

 羽々斬は暫くして集め終えると、小脇に抱えた本をしまうのも忘れ、座り込む彼女に説教を垂れ始めた。


「大体なあ、お前はこんな場所でこんなことしてる暇はねえんだよ。わかるか?」

「……………………」


 再び閉ざされる口に、ため息一つ。閉口したいのは、きっと彼の方だろう。

 朝のやり取りが思い起こされるが、あの時との違いは、視線がぴたりと合っていること。

 それでも、しかと話せている実感がわかないのは、多分彼女の意識が曖昧だから。

 こちらの目を見ているような、見ていないような――――見ているならどこを見ているのか。角膜? 虹彩? 水晶体? それとも奥にある脳か?

 じい、っと凝視する下では、ぽけ、っとした顔が見上げてる。無言の間が数秒続き、脱力。

 全身の筋肉の力を抜くと、まず肩がどっと降りた。


「お前さ、年頃の少年少女が、同じ部屋の中で二人きりだよ?」

「……いけないの……?」

「考えりゃわかんだろうに……」

「……わかんないから、聞いてるのに」

「とりあえず、色々まずいんだよ。過ちとか起きたらどうするんだ? お兄さん責任取れないよ?」

「……セキニン?」


 相も変わらず遅れたペースで反応するが、それでも話せるには話せる。決して日本語が通じないわけではないらしい。


「そうだ、健全であるが故に起こしてしまう健全な過ちへの健全なる責任だ」

「……健全……」

「おい、手元指差すな、おいっ!」


 リフレインでの遊びにも飽きてきたところで、話を本筋へと戻した。


「大方、金に困った家出少女が空腹の末に起こした事だと見受けるが――所属校を教えろ。それだけでいい」


 軌道に乗ってきたせっかくの会話だが、彼の切り出しを最後に再び途切れる。

 困り果て、頬を掻いた。どうやら開示出来ない情報は黙秘を貫く腹積もりらしい。


「お前が消えて心配するやつはいるだろ。所属校だって、今頃は捜索してるかもしんねーぞ」

「……捜索はしてると思う。けど、心配する人は……いない」

「捜索してるなら、話は早ぇ。さっさと風紀委員に連絡――」


 させまいとする羽々斬は、警察に代わる方舟の独立治安支持組織『風紀委員』へと連絡を入れるため、VS-Driveを手に取った。


「!」


 その手を、さらに取る手。

 彼の手の甲に広がるのは、雲のような、脆く柔らかい冷たさだった。

「おい、なにしやがる」。そんな風に言いたかった羽々斬だが、彼女の魔力――とでも云うのだろうか。何故か、言葉を発することができなかった。

 ちょっぴり呼吸のリズムが乱れたのは、今しがた降り立った静寂のせいだと思いたい。

 いつしか立ちあがっていた彼女は、少年へ控えめに身を寄せる。

 立て続けに上がるもう一つの掌が、彼の手を絆してしまった。そうして、ゆっくりと下へおろす。

 入念に研磨された二つの銀の鏡に写るは、己が輪郭。

 視覚からでも伝わる弾力を持つ、薄紅色した艶やかな二枚貝は、今にも「やめて」と言を放ちそうで。

 本来の用途から外れているものだから、彼女の華奢な躯に貼りつく布切れは心許ない。そこから伸びるむき出しの四肢はなんとも細こく、ガラス細工が如き魅力を漏らす。

 ――美少女、なんて言葉が粗末に思えるほど、彼女は美しかった。

 胸元からちらりと覗く未熟で小さな果実を見て、彼は思わず目を逸らす。


「……………………」

「わ、わかったよ! わかったわかった! 通報しねーよ!」


 彼女の両肩を上から押して、再度座らせた羽々斬が向かったのはクローゼット。

 足を進めながら口をもごもご動かし、自分はまだ思春期なのだな、と痛感した。




「しっかし、派手に食い荒らしてくれたな」

「……………………」

「お前の胃、ブラックホールなんじゃねえの」


 背を向けているからといって、羽々斬は別に彼女を忌んでいる訳ではない。そうせざるを得ないだけだ。

 ……そもそも、忌んでいる相手のために、こうして食事は作らないだろう。

 新居のキッチンだが、そこでの作業は手慣れたもので。

 フライパンがあぶられて鳴く傍らで、すとん、すとんと落ちる包丁は大変リズミカルで、聴いていても心地が良い。

 切れかけの調味料、なけなしの食材が合わせ業を放ち、実に芳しい香りを湯気に乗せて運びこむ。

 料理をする羽々斬の後ろ姿を、ソファの上から眺入る少女。何をするでもなく、ただひたすらに脳へ視覚情報を刷り込んでいる。

 マントと言えるかすら怪しい黒い布切れも、エプロンも脱いでもらって、彼が彼女に着せたのはパーカーだ。勿論ながら男もので、サイズだって彼女には大きすぎるが。

 それが幸いしてか、結果的に下半身も綺麗に隠れている。

 時折入るまばたきは“彼女が着せ替え人形”ではなく、人間なのだとわからせる数少ない証拠だ。


「どんなに腹ペコだったんだか知らねえが、他人のモンは食うんじゃねえよ」

「……腹ペコ?」


 羽々斬が肩越しに目を合わせてやると、少女は首を傾げる。

 無自覚の極みとも云える反応に、彼は言い淀んだ。


「違う……不思議だった」

「おっと……、不思議だあ?」


 よそ見で指を切りかけたのを機に、目は手元へ戻す事にした。

 自分の言葉を打ち消して「不思議」と表現した彼女を訝って、彼はその意味を訊ねる。

 内心で「一番不思議なのはお前の存在だろうに」と、漏らしながら。


「……変なの。お腹に、いっぱい入ってくる……」


「わかんねーよ」とため息交じりに溢した。濁されてるような気がしないでもない羽々斬だが、とりあえずは「少女が腹を空かせている」という事実だけを飲み下し、料理を仕上げにかかる。


「……私も、わかんない」

「もう少し言語力を鍛えておく事を勧めるよ、コミュ障」


 彼とて、しようもないほどにいい加減な人間だが、やはり人の子だ。どれだけ憎たらしい相手でも、助けを求められては応じてしまう訳で。

 故にか、付き合う人間は皆、彼を“お人好しの大馬鹿者”と言う。

 フライパンを振るうと、食材が宙を舞った。直後に落ちるそれを、またフライパンで見事に受け止めて見せる。

 乱切りされたニンジンを、一口。味見だ。

 それで適当な火の通り、塩梅の良い味付けを確認して、手近な皿に盛り付けた。

 たちまち熱の伝わったそれを、テーブルへ。すると彼女はふらりとソファを降りて、四つん這いで料理の前へ行く。

 その恰好のまま、興味深そうに見つめる姿は猫のようで。


「食え、野菜の切れ端炒めだ」


 多くは語らず、ただ、少女に箸を手渡す羽々斬。


「……ん」


 受け取った彼女は早速、曰く『野菜の切れ端炒め』を食べ始める。本当に、早速。

 風味も、見栄えも気にしないかの如く早々に。詰め込むように。

 ピーマンの切れ端、ニンジンの切れ端、ジャガイモの切れ端、ナスの切れ端――とにかく昨夜、彼女に食されてしまった食材の残骸を調味料で集合体にした料理。彼なりに、冷蔵庫の残りで必死に賄ったものだ。

 視線を手元の一点から離さず、黙々と野菜を胃に放っていく彼女を、作った人間は俯瞰している。

「旨いか不味いか」の感想もないものだから、彼としてもどういう顔をしたらいいのかわからない。もしかすると「味覚がないのではないか」とさえ思わせる。

 そんな調子で訊きあぐねているうちに、彼はあることに気づく。


「……行儀悪ィなぁ」

「………………?」


 それから数秒、評議の悪さがあまりに目に余ったが故に、スムーズに動いていた手を止めさせた。

 姿勢や、そういった次元の話ではない。箸はまるで錐のように握られ、食材は突き刺され――おまけに皿など持たぬ犬食らい。

 とてもじゃないが見逃せないし、餌付けしているようでどうにも気分が悪くって。

 羽々斬はせかせかと彼女の背後へ回って、そこで腰を下ろす。そして、


「いいか、箸の持ち方からして間違ってる。こう持つんだ」

「……こう?」

「ちげーよ。よく見ろ、この三本指を使うんだ」

「……うん」


 手取り足取り教えてやる。


「あと、『いただきます』ぐらい言え」

「……イタダキ、マス?」

「ったく、お前は親から何を教わったんだ……。最初に、手を合わせてだな――」


 手を回し、相手の手を繰って、渋々と。

 それでも。しっかり教示する姿は、まるで妹の世話を焼く兄のようだった。




 溜まった水に、埋め込まれた少年。

 蛇口より落ちた水滴が、水面とぶつかり合って波紋を生み出す。

 天然の鏡面は、若干曇っていた。

 白を基調としたバスルームは、快適に入浴できるだけのスペースは約束されている。さすが高級マンション、といったところだろうか。

 体と一緒に顔の下半分を水中へつっこみ、絶えず気泡を生産し続ける羽々斬。ぼんやりと定まらぬ視線で思い巡らす。

「これからどうするか」と。

 彼女が一体どこから来て、どういう人間なのか。まるでわからない。わかろうとさせてくれない。

 捜す人間がいるならこのままではいけなだろうし、いなくたって、迷い込んだ彼女を養えるだけのSPもない。

 不足した情報が、彼をどんどん遅疑逡巡に陥れる。

 ああ、どうすべきか――。

 思考が迷走するそんな折、バスルームのドアが開いた。


「なんだよ。風呂なら俺の次に――」


 次の瞬間、羽々斬は言葉を失って茫然とする。

 それはもう、誰から見ても判るほどに。

 まあ、致し方ないことなのかもしれない。

 生まれたままの、あられもない姿の少女が、自分が入浴中の風呂にまで立ち入ってきたのだから。


「うぎゃあああああああああああああああああああああああああ」


 これが、彼の第一声だった。




 羽々斬の濡れ髪から水がまた一滴、湛えられた。

 一つ同じ浴槽の中で、赤の他人である男女が対面する。普通ではない光景だ。

 あれから何分経ったろうか。素知らぬ顔で入浴してきた少女は何を言うでもなく、ただ湯船にその御身を沈めるだけ。

 羽々斬は内心恐怖を抱きつつも、やはり年頃の男子なのか喜の感情もあって。

 尤も、表出はさせられないが。

 落ち着きのない視線が、湯気とともに漂った。


「な、なんのつもりかなぁ? べっ、べ別に俺は三次元とか興味ねーんだけど? かかかか勘違いしないでよね?」


 嬉しい半面居心地は悪いのだろう、どこも隠さず、そればかりか向かい合ってこちらを凝視する少女にそう訊ねる。

 その声は明らかに上ずっている。


「……恩返し」


 一言、そう答える少女。

 小さくとも響く言の葉の原因は、ここが浴室だから、という一点に尽きるだろう。なんとも聞き取りやすい。


「恩返しだぁ?」

「……そう、恩返し」

「言ってる意味がわからねーよ」

「そう……じゃあ」

「――!?」


 羽々斬の言葉を合図に、少女はこの湯だまりの広さを殺すかのごとく彼との距離を大きく詰める。

 その様子に躊躇などない。

 対する相手は、声を裏返し戸惑うだけ。後ずさりはできず、背中がただ浴槽の端にぶつかるだけ。


「お、おい、おま、お前こら! 何してんだ!」

「……これでも、感謝してるから」

「おい、これ以上はまずいって、マジで!」

「……鶴も、恩返しはするよね。罠から助けてくれたおじいさんのためにその身を捧げて……」

「違わないけど違ァう! 表現は間違いじゃねーが、んなアダルティな話じゃねーよ鶴の恩返しってェェ!」

「……こうすれば、男の人は喜ぶよね……」

「もしもしー! もしもーし!?」


 いつぞやの妖しさが、甦る。

 彼の揃った脚の上に、少女がのそり、と跨った。

 小さな両手が肩を掴み、そのまま引き寄せる。

 純潔という心許ない鎧を着込んだ裸体が、ほどよく鍛錬された躯とふれあう。

 それらを結ぶ手は程なくして強くなり、やがてがっちりと二人の火照った肉体を密着させた。


「はぅ……んっ、ふ……」

「お、おま……!!」


 どこにも隙間など、ない。彼女が隆起の少ない身体であることに喜ぶべきか、否か。

 しっとり水気を帯びた長髪に、胸が撫でられた。耳に、彼女の熱い息がかかった。

 理性と本能の間で揺れる羽々斬だが、それさえも許さない少女は、ちょっぴり身を乗り出して――接吻まで行った。


「んむ……」

「~~~~~~~~っ!!」


 見よう見まねの割には、様になっている舌遣い。

 強く、激しく戯れる。敏感な薄紅の二枚貝同士が、ちゅぷちゅぷと濡れた音を弱々しく発する。

 脳がとろけてしまいそうな快感に瞼が重くなり、瞳が半開きになる二人。

 ――『煩わしい』。

 いつしか理性が壊れた少年は、そんな風に感じるようになっていた。

 そのまま身を寄せ押し倒し、今度は、


「あ……」

「……………………」

「ふわっ、あんっ……!」


 彼が上になり、どこか定まらぬ眼で彼女を見下ろす。

 一瞬のアクションで大きく乱れる水面に、髪は融けてしまいそうなほどに揺らいだ。

 頬は紅潮し、息遣いは荒く、実に苦しそう――。

 彼は口辺についた唾液を舌で絡め取り、その無秩序を手に乗せて下半身に手を伸ばし――。


「……………………」

「……あれれ……」


 鼻血を垂らして、気絶した。




「いや、どうなる事かと思ったわ」

「……………………」


 上がり過ぎた体温でのぼせて、意識を失った。

「起こしかけた過ちがなかったことになった」といえば、ポジティブに。

「女性と触れあえる希有なチャンスを失った」といえば、ネガティブに聞こえる。

 羽々斬としては、複雑だろう。どちらの言い方も出来るからだ。

 結局その後、彼女は普通に体を洗い、再び湯船に浸かって浴室を出た。彼も然り。

 そして、今。

 歯ブラシをしゃこしゃこと動かす手は、羽々斬の手。しかしそれが磨くのは、少女の歯だ。

 実に楽そうなもので、少女はただただ羽々斬に顔を向けて口を開ける。

 渋々、といったふうに手を前後させ、


「つかお前さあ、歯磨きぐらい自分でしろよ……」

「ふふほほははいはら」


「あー、なんだって?」と聞き返しつつも、直後にしっかり返事をしていたあたり、理解していたようだ。

 どうやら「することがないから」といいたかったらしい。

 もし本当であれば仰天だろうが、彼は肌にも負けぬ白さの歯を確認して、真面目に取り合わなかった。

 愚痴やとりとめのない話をこぼしているうちに、歯磨きは終わっていた。

 洗面台に水ですすいだ汚れを吐き出すと、彼女はベッドへ向かっていた。羽々斬の指示によるもの。

 気付けば、時計の短針はもう『11』を指していた。

 彼女のためにああだこうだと動いて、もうこんな時間である。

 羽々斬が少ない足場をさらに広げようと、足元に散らばった物を粗雑に蹴飛ばす。そして彼女に眠るよう促し、乱れたベッドを整える。


「それじゃあ、もう寝るぞ」

「……あなたは、寝ないの?」


 器用にメイクされたベッドに上がり込む少女。


「さすがにベッドは一つしかねぇから、お前が使え。俺は、寝る気になれば床でも寝れる」

「……寒いよ?」


 布団から僅かな空気が抜ける。ぽふぽふ、と叩かれたスペース。

 同じベッドで共に寝るよう督促しているつもり――らしい。


「いや、そういうわけには」

「……どうして?」

「いや、だからさあ、過ちが」

「“セキニン”を取ったらいい……」

「簡単に言うんじゃねえよっ!?」

「……?」


 小首をかしげる彼女は、彼が思うよりずっと鈍い娘なようだ。




 静まり返る室内に、無音が寝そべる。寝床にも闇が入り、相手だって見えやしない。

 背中へ微かに伝わるは、相手の体温。それはお互い様で、彼も彼女も同じこと。

 一つのベッドに、一つの掛け布団。ぬくもりの共有は上手くいっている。

 羽々斬としても、さすがに『べったり』というわけにはいかないようだ。が――思春期の男子が緊張するには十分な距離感だろう。

 ひと一人も間に入れない、背中同士の夜通し睨めっこ。

 少女が動くことはないけれど、当然というのか、やっぱり彼は落ちつかない。


「寝れないの……?」

「ちげーよ……、黙って寝とけ」

「……私は、寝れない」

「羊でも数えときな」


 心配げな彼女の声を、無愛想に突き返す。直後、己が頭の下に腕を潜り込ませた。


 ――――長い一日だった。

 久方ぶりにこんなに騒がしかったかもしれない。

 改めて、そう思う。

 高校生活は始まったばかりなのに、こんなスタートで先は大丈夫か。そんな危惧がないこともない。

 戦わされて、怪我して、世話させられて、急接近して――色々な出来事がまるで走馬灯のように浮かび上がる。

 走馬灯ついでに、一つ、どうしても知りたかったことを思い出す――。


「……お前、名前は?」

「……………………」


 数秒、沈黙が繋がる。

 答えてくれる保証なんてないが、羽々斬はどうしても訊きたかったのだ。


「――『真鶸』」

「……?」

紡羽(つむはね) 真鶸(まひわ)

「……真鶸、か」


 中空を転げるガラス玉ような声が、そう放った。

 声の主は、カーテンの切れ間から臨める月を、優しく見つめていた。


「なら――真鶸、風呂は気持ち良かったか」

「……うん」

「食事は旨かったか」

「わからない……普段の栄養補給は、食物の摂取ではなく栄養剤の投与だから……」

「ふーん……。変わってるのな」

「変わってるの……?」

「誰に訊いても、同じこと言うわ」

「……そう……」


 少年は驚きつつ、この会話を朝の記憶と重ね合わせる。

 朝は、ここまで話せることもなかった。

 微笑んでいるのは「饒舌になったな」と、柄にもなく感じ入っている証拠。


「何しに、こんな真似してるんだよ?」

「……思い出作り?」


「疑問で返すなよ」と、背中にぶつかった言葉に苦笑しつつ呆れる。

 すると今度は、真鶸が口を開いた。


「……あなたの、名前は?」

「羽々斬 颯人」

「ハヤ、ト……ハ、ヤト――――ハヤト」

「ああ、なんだ」


 覚えたての言葉を無邪気に繰り返す様子は、子供のようで。

 それでも惰性の地続きを終わらせないと。


「お世話になった……迷惑にならないよう、明日の朝早くに出るから……」

「……そうかい」


 日常が欲しい――それは、彼の願い。


「こういう時は――そう、サヨウナラ、だっけ……」


 あの子への誓い立てとして。あの子が繋いでくれた命のために。

 たとえそれが独りよがりであっても。身勝手であっても。


「……あと、アリガトウ」


 彼なりの、あの子への感謝だから。

 故に羽々斬は特別なところのない、不思議な力も持たぬ――そこらに偏在する、いくらでも替えの利く取り柄のない人間であろうとする。凡人であろうとする。日常を愛そうとする。

 だから、何者かから追われているであろう真鶸へ、何かしてやることはできない。

 そんな事をしては、自分の平穏が脅かされるから。非日常へと足を踏み入れるから。


「……今日初めて覚えたアイサツは……『イタダキマス』、『ゴチソウサマ』、『オソマツサマ』……『オヤスミ』」


『仕方ないじゃないか』。

 そう言い聞かせたって、中途半端に善意を注いでしまった自分への嫌悪は消えやしないのに。

 目を細めた。損だとわかっても、どうしようもないイライラを募らせる。

 悩む彼を文字通り尻目に、楽しげに話を続ける真鶸。

 自分が見捨てればどうなるかなんて容易に想像がつくくせに、助けを求めない彼女。


「……あと、明日の朝は……寝てても、『オハヨウ』って言ってから行――」

「真鶸」

「……なに?」


 背中は遮蔽物として不十分すぎるから、言葉で言葉を遮った。

 やはりダメだな。羽々斬はそんな独白を、内心で繰り返す。

 その通りだろう。

 彼はどんなにクールガイを気取ろうが、冷徹になろうが、残酷に努めようが――。


「――お前の『思い出作り』ってやつは、この場所じゃ出来ねえのかよ」

「――――!」


 結局はお人好しなんだ。

 困った人間は放っておけないし、たとえドブに落ちたネズミでも、自分がドブまみれになろうとも救い出す。そういう人。

 そしてそういう人を自分で恨んで、自業自得と嘲笑する。なんと忙しない。

 目を丸くした真鶸は、思わず起き上がってしまう。

 そのまま横たわる羽々斬の背中を見つめた。


「……でも、迷惑が」

「ねーんだろ、帰る場所」

「……うん」


「なら、いいじゃねえか」と、羽々斬は軽々しく返答する。

 さらに、


「それに迷惑かどうかなんて、俺が決めることだっての」


 不器用にこう続けた。


「……………………」


 つんつん、と肩をつつく少女。少年が不承不承に体をねじって振り返ってみると、自分の方へとへそを向けて横になる、真鶸の姿があった。

 一本一本が自由に寝る髪の毛に、弱い月光が絡みつく。

 ほんのり輝いた銀の瞳の中に浮かぶ自分が、少しだけ大きくなった。

 一枚の掛け布団は弛んで、包む二人の距離が縮まったことを知らせてくれる。

 ごく僅かに上がった口角に気付いてか否か、羽々斬はきまりが悪そうに仰向けになった。

 出し抜けに握られた手に、一瞬戸惑いながらも――そのぬくもりに意識を委ねた。


「……ありがとう、ハヤト」

「フン」


 女の子の、掌二つ。

 面倒事を背負い込んだ褒美としては全然足りやしないのだが、なんでか不思議と、この柔らかさから離れられない。

 これからどうするか?

 そんな自問に「明日考えよう」と、自答した。


「オヤスミ……」

「また明日な」


 彼女のいる、明日に――。




 繋がった手は、日が出て夜が明けるその時まで、ずっと温め合っていた。

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