Game.02 “先駆者”と“学校”
人が、先駆者として認定される条件。
一に、人ならざる超常的な力を持つこと。
二に、α、β、γ、δ、θに続く第六の脳波『ζ波』を発生させること。
以上、二点。
これらを満たす者が社会的にも先駆者と認められ、独立研究機関群・方舟に足を踏み入れることが許される。
『方舟』――総人口420万人、総面積3787平方キロメートルの、太平洋上に浮かぶ人工島。電力源は豊富な水資源による水力発電で賄い、生産も全て独自で行い、外部には一切頼らぬ自給自足制を取る。
また、各種インフラも充実しており、実に住みよい。
物価は日本と同等であり、通貨は電子マネー“School Point”を用いる。また、この略称を『SP』とする――。
移り変わる景色の中で、それでも唯一不変のものがある。天空と海洋だ。
浮雲漂う広い青は、澄んだ水面にも分け与えられた。数羽のウミネコが、悠然と上空を通過する。
朝の通勤、通学ラッシュ故、やはり車通りは多い。しかし渋滞は見受けられず。
立体交差や鉄道等で、複雑な交通網でも混乱はどうにか回避出来ているようだ。
煌びやかな大海と街並みが入り混じった欲張りな絶景は、高架橋より望める。それは見る者へ、何とない優越感を与えた。
駅前のファストフード店で飲んできたワンコインのコーヒーが腹の中でシェイクされる、そんな通学バスの信号待ち。島と謳いながらおよそ島らしさを感じさせない、発展しきった風景に羽々斬は煙たさを覚えた。
ダークブラウンのズボンと、黒地に赤線の入ったブレザーがなんとも似合っている。
「結局、行くんだね」
隣に座ってそう言う夜暗へ、億劫そうに答える。
「今日一日、あの騒動のせいで近所の道が修復作業なんだと。うるさくて寝れやしねーよ」
「だから、しぶしぶ受けるってわけだ?」
「ちげーよ、寝るんだよ。しぶしぶ学校で」
「もういっそ永眠すればいいと思うんだ」
周囲の同乗者の喧騒を掻き分けて投げかけた一言だが、あまり効きそうにない。漏れる欠伸が証拠だ。
ため息交じりの彼が、膝に置いたカバンに面杖をついて眺める横断歩道は、沢山の学生が横切っていた。
通学ラッシュなら、それはそれと思いもするが――制服にまるで統一感がない。通った七人が七人、皆違う制服なのだ。
「改めて見ると、本当に驚くなぁ」
「制服一つで、よくもまあこんなにデザインできるもんだな」
主語が抜け落ちた言葉だが、察し良く返す羽々斬。
奇異なことにも、先駆者として力を行使できる者は、おしなべて3~25歳の間の若年層となっている。
そこから成る必然として『数多の教育機関の存在』がある。さらに、住人も学生が大半を占める、ということになる。学校が沢山あれば、その数だけ制服がある――自然なことだろう。
ここを作り上げた団体であり、運営者でもある公益財団法人『NOAH』が住人へ求めるものは一つ。
実験、ただそれだけである。
先駆者に能力を積極的に使わせ、研究材料としてデータを取得、その余りある謎の解明に役立てる。人類のさらなる発展を夢見て。そのために『闘争』を方舟の社会システムの根底に加え、理事会はそれを中心に据えて環境を整えていった。
その最たる例が、School Pointである。
労働でなく、支給でもなく、戦闘に勝利する事によってのみ対戦相手より得る事が出来る電子マネー。
ちなみに、1ptあたり1円とイコールだ。
「円に代わる通貨」と表現すれば何でもないが、「方舟の住人の生活源」と云えばどうだろう。衣食住その他が全てSPで贖われる――そう考えれば、戦いも避けようがない。
「ねえねえ、これ見てよ」
バスが走り出すのと同じタイミングで夜暗が見せてきたのは、携帯の画面。インターネットサイトが表示されている。どうやら方舟が運営する総合サイト『VS-Link』のサービスの一つ、掲示板のようだった。
最新スレッドのタイトルは『【七聖曜輝】対戦相手募集【月曜日】』というもの。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
1:月詠 神次:20XX/○/×(月) 07:51:11.40 ID:XXXXXXXXX
七聖曜輝が月曜、月詠でござる
本日、以下の時刻で対戦相手を募集致す
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「……なんだこりゃ」
羽々斬が、眉をひそめた。それを確認して「だよねえ」と夜暗は腹を抱えて笑い出す。
2以降の書き込みは「嘘乙」「ちょww名前酷いwwww」「いつの時代の人間だカス」「月曜の人の名前は確か月永だったはず」等、本気で相手にしていない節のものが多数だった。
「あの七聖曜輝が掲示板で相手を募集するなら、とっくに情報は知れ渡ってなきゃいけないってのにね。よくやるよ」
「まったくだ…………、そもそもワンウィークってなんだっけ」
「え、そこから!?」
はあ、と一息吐いて頭を抱えつつも、夜暗は必要な情報を開示する。
「月曜輝、火曜輝、水曜輝、木曜輝、金曜輝、土曜輝、日曜輝――その七人からなる、保有SPが群を抜いて高い生徒達の総称。まぁつまるところ、勝ちまくりの超お金持ちってことだね」
「それでいて」と、続く話へさらに耳を傾ける。
「格が違うよ。あまりの強さ故に勝負を挑む者が後を絶たないから、運営が特別措置として一週間に一日の戦闘しか認めなくなった。それぞれの呼び名に対応した曜日しか、ね」
「え、毎日戦わなくていいとかそれなんてパラダイス?」
「おまけと言っちゃなんだけど、表立った活動もそうそう無いから、情報も少ないんだよ」
一瞬だけ「稼げそう」などと思考した羽々斬だったが、身の程知らずと諦めるのはわりかし早くて。
知人がテンションを高めて話す様を、黙って尻目にしていた。
「まぁスレッドのこれは単なる釣りか、低ポイント生徒による対戦相手探しじゃない? 乞食みたいな」
「たとえ貧乏でも、心だけは豊かでありたいもんだな……」
「うんうん、所有SP二ケタの人間が言えば、やっぱり重みがあるよ」
「お前、学校着いたら屋上な」
花弁舞い散る、広い桜の並木道――それは玄関へと真っ直ぐに繋がっている。
向こうにある何棟かに分けられた大きな建物が、来る者をどっしりと待ち構える。蒼白な色合いは、自然と見る者を落ちつかせた。
飲み込まれるように建物へと入る遠くの生徒達を見送り、羽々斬と夜暗はバスから降りる。
「しかし、しけた武器だなおい」
「君には言われたくない」
学生を降ろして走り出したバス。
それを背に、ああでもないこうでもないと言い争う原因は、戦闘に用いる愛用の武器についてだった。
羽々斬が一八〇を超える長身を見上げるには、軽くあごを上げる必要があった。そうして、文句をぶちぶちと垂らす。彼の人指し指の先が向くのは、夜暗の腰にある、鞘とセットの二振りの剣だ。
「だって、双剣だぞ? 知ってるか、二刀流って一刀流より難しいんだぜ。中二病こじらせてかっこいい武器欲しがるのはわかるけどよ」
「僕がいつそんなことを言ったかな? 他人のこと言う前に、そのへっぽこ竹刀をなんとかしたら?」
「あ゛!? 低コストなんだよ! 安いんだよ! アホみてーに武器にSPつぎ込むよりかはよっぽどいいわ!」
同じように夜暗が指さす竹刀ケースを手で叩くと、埃が飛び散った。
たまらずむせ返る二人の周囲を、素知らぬ顔で通り過ぎる生徒達。背中に大剣、腰に拳銃――肩にかけたベルト付ライフルは重たそうで。銃刀法適用外なのをいいことに、武装した者が多々見られる。
「……行くか」
「そうだね」
埒が明かぬと悟り、二人は大人しく目の前にある大きな校舎へ歩いた。銀の字で「聖鎧学園」と掘られた、石造りの門をくぐる。
まだ少し違和感の残る新たな制服を整え、
「くそ、あのガキどもめ。あいつらが道路をぶっ壊さなかったら……」
愚痴をこぼしながら。
聖鎧学園。
総生徒数、七二〇名。
島内の教育機関の中でも偏差値がずば抜けている高等学校であり、俗に言うエリート校というものだ。
今年度入学者の志願倍率は一二〇倍。実にふざけた数字だ、と人は笑う。
ガラス張りの北棟エントランスに、羽々斬は開放感を覚える。
行き交う生徒らが生み出す雑踏の中で、負けじと声を出す生徒がいた。
威勢よく「風紀委員です」と情報を伝達する背の低い女子。制服の左胸、両肩と背中に大きく刻まれた、鳥を伴った盾の紋章――『平和の盾』が、それを確かに証す。
「第八エリア近辺で空き巣被害が多発しております、戸締りの強化と犯人逮捕へのご協力をお願いします!」
左腕に抱いたビラは確かに減っているが、重量が軽減されている実感はない。
されど、通る生徒たちにビラを配り続ける女子。
「風紀委員で」
「す」と言いきる前にビラを奪い取られた彼女が、大口を開けて吃驚する。
盗んだ主は、羽々斬。ビラをひょいと上へ持ち上げ、まじまじと記された情報を舐めまわすように確認する。
「へえ、空き巣か」
「ち、ちょ、勝手に取らないでよ羽々斬くん!」
背の低さが祟ってか、手が届かず取り返せない少女が、羽々斬の前でぴょんぴょんととび跳ねる。
焦りか、声は震えていた。
「僕にも見せて」と、さらに高い背の夜暗が一枚、彼の手より拝借した。
性別不詳、小柄、ぼろぼろの黒い布を纏った十代前半ぐらいの学生。羽々斬が目撃情報を丁寧に読み上げる。
その後は満足したようで、ビラの束を彼女に返した。
「もう、邪魔しないでよー……」
「俺は生徒が皆等しく持ち得る『知る権利』を行使したまでだが、一ノ瀬 雀風紀委員」
「屁理屈はもういい」
ぶす、とふてくされながらビラ配りを再開する一ノ瀬。
肩の上、耳の下ぐらいの黒髪を、片手間で整え直す。宇宙のように黒く大きな双眸が、キョロリと駆動して二人を捕まえた。丸い縁なしメガネがトレードマークの彼女は、羽々斬と同じ中学の出身だ。
顔見知り故に彼も話しやすいのだろう、そこはかとなく饒舌なのが傍目からでも感じられた。
「しかし空き巣、ねえ」
噛み締めるような独り言に別の言葉が重なって、会話を招き入れた。
「そう。最初の被害情報は三日前でね、『冷蔵庫の中の物が全部食い荒らされてる』って、ここの生徒が」
「ふーん……」
「続いて起きた二件目も、冷蔵庫の中身が食い荒らされてて……」
「羽々斬くん、いくらポイント二桁で食べるものがないからって、盗みはいけないなぁ」
後ろでビラを凝視しながら、羽々斬を咎める夜暗。いわれなき罪を、当人は「うっせえ!」と一蹴した。直後に、頬を掻いて冷静に考えてみれば――。
「あぁ……そういや俺、寮の部屋の鍵かけ忘れたかも」
「こ、の、横着者……」
見知った顔だけに、その性質も理解できている。「そんなことだろう」と思った反面、もしかしたら、なんて淡い期待を一ノ瀬は抱いていたわけで。
違うと知ると、肩を落として言い淀む。
「まあ、問題ないだろ。あの八階建てマンションで、俺の部屋だけをピンポイントで狙うなんてことはないはずだ」
「そういう油断が被害につながるのになぁ……」
憮然とする一ノ瀬。
「おい!」
出し抜けに上がった大きな声が広い空間に反響し、少年少女達の気と足を引く。
「生徒会が戻ってくるぞ!」
「おっ」「今シーズン初勝利後の登校か」「英雄の凱旋だな!」「そこどけよ」
それを聞いた生徒達が、一斉にどよめき始めた。ビラは踏まれ、肩がぶつかるのもお構いなしに、あれよあれよと作られる人だかり。
「ちっ」
おしくらまんじゅうさながらの息苦しさに、羽々斬は顔をしかめる。
大仰に、意気盛んに周囲を盛り上げる少年を見るやいなや、一ノ瀬も出来あがる人のバリケードへ向かって歩き出した。一本の道を作るようにして作り上げられたそれは大変に長く、一般生徒の迷惑になるのは明白だった。
「一ノ瀬さんも、見るのかい?」
それを聞き、こくん、と一ノ瀬は首で答える。
「せっかくの凱旋だしね。盛り上がりで聞こえないだろうけど、『お疲れ様』って伝えたいんだ」
「いい子だなあ」
腕を組んで情感を汲み取り、賞賛を送る。そんな間に、『英雄』と誉めはやされし五人の男女は、玄関より現れ出た。
頬や腕に始まる、肉体の各所に手当て痕を残して。それでも元気に。
「おはようございます!」「お帰りなさい!」「今期も頑張ってください!」「日曜日の中継、ずっと観てました!」
押し寄せる注目。
民衆が、英雄に希望の眼差しをぶちまける。まるで、戦士の帰還を目の当たりにしているようだ。
溜めこんでいたものが、一気に弾けるように――ここぞとばかりの歓声が上がる。
五人の生徒は至極当然ながらに聖鎧の制服を着ているわけだが、そのデザインの一部分が決定的に違う。両の上腕と左胸、背中だ。それは風紀委員と同じ場所。
そこには、英雄『生徒会』が皆共通して持つエンブレム『金の輝きを帯びた剣』――“希望の剣”が、あしらわれていた。
「こちらを向いてください」という外野の声に、五人の内の一人の少年が愛想良く、笑顔を返す。
対して登校の邪魔をされたのが気に食わないんだろう。長い、長い人の道の脇から、不満そうに生徒会を見つめる羽々斬を、夜暗がなだめる。
「仕方ないよ、僕らや学校を背負って戦う人たちだもの。古来より、戦士ってやつは祭り上げられてきただろう? それと一緒さ」
「生徒会は立候補制。ボランティアみてーなもんだろ」
「だからこそ使命感を感じたんじゃない? よほどの好事家でもない限り、誰もやりたがらないよ。週一ペースで学校のためだけに戦うなんて苦行」
――SPという概念は、“学校”にも適用される。
つまり方舟にある全ての教育機関の運営・管理費、諸々の経済的負担を担うのも、円ではなくSPとなる。
獲得方法は、やはり『闘争による奪い合い』の他ない。
それぞれの学校は、在籍生徒の中から五名の代表を選出せねばならない。
選ばれたその生徒らが『生徒会という学校代表』となり、毎週日曜、島内各所にあるスタジアムで開催される『代表戦』に出場し、背負った学校のためにSPを懸けて戦う。
また、代表戦は一年を通したリーグ制になっており、実力も明確化しやすい。その様子は方舟内のメディアに大々的に取り上げられ、中継もされる。
そうして英雄たちによる聖戦を勝ち抜いた学校は高いSPを保有し、属する生徒の格も上げるのだ。
「まして学校のお金を左右するってことは、僕らの生活を左右することとイコールだからね。それだけ責任重大だし、実際に弱い学校の生徒会は手酷い扱いを受けるそうだから……」
「くわばらくわばら」
羽々斬は、朝に放送されていた学校のSPランキングを思い返す。そして、確かに聖鎧学園が一位だったことを確認。
吐いた息は安堵を意味し、胸を撫でおろした手は軽くなった。
「ふう、行ったね……」
「そうだね。といっても、君は最後まで人垣を超えようと跳ねてただけだったみたいだけど」
「ほっといてよっ」
夜暗は眉根を寄せた仏頂面に、「ごめんごめん」と笑声混じりに詫びる。への字に曲がった小さな口が余計に結ばれたのが分かると、手を合わせてなけなしのアクションを付け足した。
そんなことをしているうちに五つの背中は完全に見えなくなり、教室へと消えていく。
彼らは終始、黄色い声援を浴びていた。
「さて、がんばろうかな」
「行くのかい?」
「うん、ビラを配りきらないと先輩方に怒られちゃうから」
「せいぜいドジらねーこった」
「わかってる。それじゃ、ばいばい」
気張ってタイを結び直し、走り出した一ノ瀬。を、二人は手を振って見送った。
彼女が最初に手を振ったから、という簡単な理由なのだが。無邪気なその顔は、朝の試験前で気分が沈む二人を、
「おま、どこ見て歩いてるんだ!!」
「わああビラがバラバラにいいいいい! すいませええええええええん!!」
元気づけてくれたと思う。多分。
「ああ、疲れた」
テストで疲れた体には、夜風が応える。
重たい足取りが余計に重くなって、羽々斬に歩行の放棄すら考えさせた。
陽に依存していた温暖な気候も、いまや日没によって見る影もない。冷やされたマンションのエレベーターで凍てつきかけた後に、『405』のプレートが輝く部屋の前で立ち止まった。
手をかけたドアノブは、簡単に捻ることができる。やはり施錠を忘れていたらしい。
今に始まった事ではない。自分にそう言い聞かせ、おもむろにドアを引こうとした時、ひとりでに浮かび上がる今朝の記憶――。
「……まさかな」
空き巣なんかが、ここに来るわけがない。
事件現場は近く、この寮も被害に遭ってはいる。しかしここに狙いを絞り、施錠していない事実に気づける可能性……それは低い。絶対とは言わないが、問題ないだろう。
銀の肌より伝わるひんやりとした感覚をないがしろに、部屋へ足を踏み入れ帰宅した。
「物音ナシ、と」
電灯が消えた部屋の中で、そっと耳を澄ます。
次に靴を脱いで上がり込み、すぐ傍のスイッチを入れた。明かりを灯そうとしたのだ。
照明が部屋を照らすと同時に聞こえた「バタン」という大きな音は、背筋に手痛く響く。
「ほら、いねえだろ」
そう言って、彼は緊張がほどけたかのように表情筋を緩め「にへら」と不気味に笑う。
「空き巣なんてなかった、っと」
室内を進むと、羽々斬は力なく腕にしがみつくカバンをベッドへ叩き落とす。竹刀がケース共々足元に転げた。そして粗雑にブレザーを放り投げ、ネクタイを緩める。
最後にするのは、
「ーー~~っ……」
間の抜けたあくび。
身長175、体重65の少年がダイブしたベッドは、そこそこの反発力を生んだ。
「ねみぃ……」
高い天井に定まらぬ視線を迷わせて、彼は意識を睡魔に食わせた。
あれから、何時間経ったか。
テスト終了後にポイントを稼ぐため、色々な相手に勝負を挑むも「低ポイント故に勝利してもリターンがない」という理由で断られ続けた数時間前。
SP残高87ptという、絶体絶命な状況で帰ってきた数時間前。
「考えてもしょうがないから」と眠った数時間前。
開いた目には、デジタル時計と街灯の光がしみ渡る――。
後者はカーテンを閉めてないせいだろう。すこしだけ後悔した。時刻は、午前2時を回っていた。
鉛のように思い体を起こし、また、あくびを一つ。
中途半端な時間に起きた。
そう思う。だが思考の切り替わりも早いようで、「また寝てしまおう」とでも考えたか、再度ベッドに寝転がる。怠惰を極めんとする彼に、一つの物音が伝わった。
ぱちり、と閉じた瞳が、開く。
そしてすぐさま激しく動く。
聞き耳を立ててみれば、さらに引き出される聴覚情報。少年はさすがに危険を感じたか、ベッドの横に落ちていた竹刀を手に取った。
間違いない。誰かいる。
敵か、友か、はたまた異界人か――わからない。
だが間違いなく警戒した肉体は、徐々に暗闇に適応していく。瞳孔が開き、肌が痺れるようにぴりつく。
忍び足で、床に足を付けた。履きっぱなしだった靴下ですり足を行って、確実に音の元へ近付いていく。
滑る竹刀を御し、少し歩いた先に“それ”は視認できた。
「……………………」
冷蔵庫が、開いている。そして、中身の食品が辺りに散乱している。
ただただ、絶句した。
必死に稼いで買い貯めしておいた食料が、いとも容易く食い荒らされる様相に直面し。戦慄した。
手から力が抜けて、竹刀が滑落する。
身に召すのは、解れだらけのボロボロな黒い布。見てくれは小柄で、十代前半ぐらいの女。
くすんだ金のセミロングはどこか幻想的で、白い肌が闇の黒で実に映える。シルバーアクセをはめ込んだかのような白銀の眼は、対面する相手を惹きつけて離さないことだろう。
一見みすぼらしいくせに、底深い妖しげな魅力を孕んだ十四、五歳くらいの女の子が、そこにはいた。
「お、おい……」
多分……いや十中八九。自分の目の前に居る『こいつ』が。
食べカスの発生も構わず、白光と冷気を浴びながら無我夢中で食い物にがっつく――こいつが。
今騒がれている、空き巣ってやつの正体なんだろう。
声を振動させながら、羽々斬はそう直感した。
「……けぷ」
赤ん坊のように小さくかわいらしいげっぷも、彼には悪魔の笑い声のように感じられた。