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School of Savage VS.  作者: 真坂倒
Episode.3
13/19

Game.12 得ること、捨てること

 無機質な灰色をした室内に、所狭しと線が這い回る。

 すべて、よくわからない装置と装置を繋ぎ止めるためのもの。

 そんな大人の都合だけで生まれた部屋は、彼女にとってどれだけ居心地が悪いものだったろうか。推し測ってもわからない。

 ごうんごうん、と鳴る機械の駆動音がやかましいのは知っている。だが、やはり慣れないもので。

 研究室の生ぬるい照明に延々照らされ続けていた火鷹は、とうとう嫌気がさしたか、ため息をひとつ洩らす。

 それでも目の前のベッドで横たわる少女を瞥見したら、口から出かけた不満は抑えられた。

「自分だけじゃない」と認識できたからだろう。


「……………………」


 彼女の寝顔は、見慣れている。

 ――日頃、自分が多元樹(ユグドラシル)と呼ぶ少女の、寝顔は。

 仰向けのまま姿勢を固定し、静かに寝息を立てる様子は、まるで死んでいるように感じられて。

 髪が垂れて露になる綺麗な白の顔も、余計にそう思わせる。

 背もたれの無い椅子に座ったまま、視線を少し上へ向けた。

 するとガラス一枚隔てて、忙しそうに歩きまわる研究者たちの姿が見える。


「心拍数、血圧共に異常なし」

「制御用コネクトケーブル稼働試験、オールクリア」

「プログラム1028番まで再点検完了、途中報告」

「356番、572番、998番に変更箇所有、要調整」

「調整――――終了。学習パターン再構築」

「映像化完了、予測パターン保存作業を続行します」

「検体のζ波の波形はどうか」

「若干の乱れがありますが、許容範囲内かと」


 何やら小難しい話をおっ広げているようで、火鷹に入る余地はないらしい。

 やたらスペースの余った部屋で、ひたすらに押し黙る。

 時刻は午後一一時半。

 聖鎧学園旧校舎、地下三階、第八研究室。

 聖鎧生徒会は彼女を連れ戻した後、その彼女にとある処置を施さんと行動していた――。


「……ん」


 ぱちり、と目が開いた。真鶸は目を覚ます。

 それを確認した火鷹が、組み合わせていた脚をほどく。


「目覚めたか」

「……――ハヤト、は」


 起き上がるやいなや、発した第一声がそれだった。

 彼女とて大方、予想こそついていたが。


「生きている、逃げられた」


 隠し立ては無意味と判断し、事実をありのままに伝える。

 直後、真鶸が「ほ」と安堵の息を吐くのがわかった。

 そして、


「よかった……」


 とだけ言って、口元を綻ばせた。

 火鷹はなにとない表情で言葉を返す。


「心配したって、二度とあいつの顔は拝めやしない」


 布団のシーツが少し歪んだ。

 注がれた光の下、影がちょっぴり俯いた。

 未だぬくもりの残る白を握り締めたまま、少女はそっと頷き――。


「――いい夢、だった」




『バイタルチェック完了――――時刻0100(マルイチマルマル)をもって、多元樹のシステム復元作業“記憶消去(デリート・メモリーズ)”を開始する』




 満面の笑みを作ってみせた。





『最後に一つだけ約束してくれる?』


 ――――――――。


『二度――――…………、や――世界を……』


 ――――――――――――。


「――――……」


 大切な失くしものを必死に追いかける、子供のように。

 空へと手を伸ばしていた。

 羽々斬はそうやって目を覚ます。

 クリアになった視界には、煌々と輝くLED照明と、夜暗の顔が映り込む。


「…………」

「やあ、起きたかい」


 彼は諦観らしき何かを孕んだ、どこか暗くも清々しい表情で、ゆっくりと起き上がった。

 重たい(こうべ)を動かして辺りを見回すと、見慣れない家具ばかり。どうやら自分の部屋ではないようだ。

 インテリアや配置、壁紙自体には何の変哲もない。ただ単に、自分が見慣れていないというだけ。イコール『ここは別の誰かの住居』だということ。


「あ、ここ、僕の隠れ家」

「隠れ家……?」

「そ、かっこいいでしょ?」

「ッ……」


 不意にずきり、と痛む胸と腹。

 布団の横であぐらをかいていた夜暗が、彼からタオルケットを取り払う。

 目を落とすと、素肌の上で包帯が手荒くぐるぐる巻きにされていた。


「病院で真っ当な手当てを受けさせてやりたかったが……今は追われる身だ、勘弁してくれよ」

「っつつ……」

「寧ろ感謝してほしいね。あの化物から君を抱えて逃げ果せただけでも、奇跡みたいなものなんだから」

「……なんで、助け、やがった」


 自分がこうなったのは、この男のせいでもある。

 従って最初に憎むべきなのだろうが――彼はそんな怒りよりも「どうしてこんな真似をしたのか」という疑問の方が先行した。

 彼の問いかけに、夜暗は「簡単だ」と笑声を発する。


「“状況が変わったから”って答えは、不十分かな?」


 その発言を否定せず、無言で意志を伝えた。

 不承不承ながらも為される説明に、耳を傾ける羽々斬。


「……生徒会がこの一年間、完璧なまでに彼女の存在を隠し通せてきたのは、旧校舎によるところが大きい」


 すぐ傍にあったテーブル。そこで寝そべっていたタブレット端末をおもむろに手に取り、


「一般的に人が寄りつかず、また立ち入り禁止にしても怪しまれない『廃墟』の特徴を利用して、連中はそこを彼女の隠れ蓑にしたんだ」


 羽々斬に渡す。

 画面には、聖鎧旧校舎内部のマップが表示されていた。

 それを見た彼は愕然とする。


「……なんだ、こりゃ」

「確かに廃墟さ、表向きはね」

「デカすぎんだろ……」


 旧校舎は上ではなく、下に続いていた。

 最下層、地下五階。

 アリの巣のように際限なく広がり、迷宮のように複雑に入り組んだ――初見を惑わすには絶好の構造だった。


「彼女を徹底的に外部から守護し、隔絶し、隠蔽するためだけに用意された建物――概ねそんなところかな」

「……………………」

「再利用という、(てい)のいいリノベーション。予算もさぞすんなり使い込めただろうね」


 タブレット端末を夜暗に返した羽々斬は、閉ざされた花柄のカーテンを一瞥する。


「さて、僕はそんな場所に襲撃をかけて、彼女を殺害しようとしたわけだが――見事に失敗した」

「……あぁ」

「問題はここから。一度そんな事があったのなら、向こうはどうするのが正解だと思う?」

「警戒態勢の強化、か」


『さすが、わかってる』。そう言わんばかりに指を鳴らした。

 ここまでくれば、彼の言いたいことも嫌でも理解できてしまうというものだ。

 これから起こるであろう夜暗の発話に、羽々斬は脳を絞って答えを準備する。


「となれば、さすがに単身での潜入もきつくなる。ここは手を組んだ方が得策だとおも」


 そして出した答えは“胸ぐらをつかむ”というものだった。

 夜暗がふわりと浮かされた自己の肉体に気付いたのは、鈍いことに数秒後の事。

 目を尖らせる彼を、羽々斬は間近で睨みつける。


「まさか、その口で『共闘しましょう』なんて言うんじゃねえだろうな」


 フン。

 鼻先の笑い。


「まさか、その口が『彼女を見捨てます』などと宣うことはしないよね」


 ぐうの音も出ない、とはまさしくこういうことを云うのだろう。

 黙る羽々斬は夜暗のしわだらけの胸元を解放して、舌を打った。そうして憎たらしそうに視線を逸らした。

 乱れた服装を整えて、重たそうに口を開く夜暗。


「依然状況は悪い。敵は化物で、囚われのお姫様は鉄壁の城塞の中だ。おまけに連中は機密保持で僕らを消すために捜していることだろう――から、時間もない」

「…………」

「大局を見据えて判断しようじゃないか。僕らがバラバラに向かっても、役員数人を道連れにするのが関の山だ」


『それにね』。夜暗が立ち上がった。

 向かうのは、クローゼット。


「これは、君の力を見込んでのことでもあるんだ」

「なに?」

「致命傷を受けても尚継戦できた、その生命力」


 一度羽々斬の方を振り返り、再びクローゼットへ向き直る。


「最初は『まさかな』と思ったよ」


 そこから取り出されたのは、片刃の剣。

 腰のベルトに装着、固定される。


「だが、その回復スピードが決め手になった」


 もう一本を反対側に。


「戦って、見て、確信した」


 続けて握った拳銃の弾倉を確認して。


「君――――天使(ドミネーター)だろ」


 流れるようなリロードの後、銃口を羽々斬へと向けた。

 天使(ドミネーター)

 そのワードが向こうの口から出るとは考えもしなかったのだろう。当人は言葉を失くしたまま、ただただ目を丸くして呆然とする。

 嘘がへたくそだ。聞き流すこと一つも満足にできない少年が、数瞬だけ想起した。

 忘れかけていた、それでも肉体にこびりついて拭えやしない――血の記憶を。


「ふうん」


 夜暗は反応だけで相手の心情を察知し、銃口を下げる。


「明確な時期は不明だが……数十年前、人智の及ばぬ特異な力を持った人間が現れた。一般人はそれらに“法で飼い慣らせぬ者”という意を込め、『先駆者(サベイジ)』なる名を与えた。それが全ての始まりだった」


 そうして語り出した。


「先駆者はその存在が知れてからというもの、物凄いスピードで増えていった。単に彼らが自身を隠していただけだったのか、純粋な覚醒だったのかは――今となっちゃ定かじゃないが」


 ポケットに与える膨らみ。きっと手榴弾だろう。


「そのまま社会から激しい反発を受けながらも浸透していき、形式的にだが人々より認知だって得られた」

「違いねぇ」

「そうして長い月日が経った。しかし何十年という時間を費やしても、彼らに脅威を覚える人々は消えやしなかった」

「……数年前、そんな奴らが結託してとある計画を始動させた」


 語りの主導が鮮やかに切り替わった。

 饒舌なのは、彼が誰よりも事を如実に伝えられるからだろう。


「『再世(プロジェクト・)計画(ダムネーション)』――――かいつまんで言えば、人類の安寧のために先駆者を支配する計画だ」


 大仰な名前だが――全容を聞いてしまえば、それは実につまらないもので。

 “先駆者を滅ぼせる先駆者”を創り出し、その力で全先駆者を制圧・支配するというだけ。

 手っ取り早く表現すれば、子供と同じ。気に入らないから、認められないから力で解決する。可能性の芽を摘み取る。

 これを子供と云わずしてなんと云うのか。

 おまけに『人類の安寧のため』などと立派な文句を掲げてはいるが、本当は『先駆者という貴重且つ秀抜な人的資源の独占』を目的としていたことも羽々斬の口より語られた。


「支配したいのは先駆者ではなく、人類そのものだったってわけか」

「ああ、そうさ。くだらねえ人間共の、くだらねえ業だ」

「で、その業から生まれたのが、君達か」

「…………」


 人工先駆者『天使(ドミネーター)』。

 彼らは他者のζ波を感知した時、身体能力と生命力が爆発的に上昇する。

『人間の正しき上位互換』をコンセプトにし、且つ多種多様多数の先駆者との戦闘を想定して開発されたためか、得手不得手が顕著になるような特別な力は与えられていない。

 代わりに、長期化する戦闘でも機能不全に陥らないよう、肉体の純粋な強度を徹底して上げられているのが特徴だ。

 肉体強化系の先駆者でもこの再現はできようが、彼らの度合いはその比ではなく、あちらの強化が十だとするならば、こちらは千と――ひときわ異質なもので。

 一見凄まじいその実、異能の持ち主達は遺伝子操作に心理操作、肉体改造や投薬といった非人道的措置を受けて、無理矢理“これ”を掴まされただけの――――ただの悲運な子供たちだったりする。

 まさに『先駆者を滅ぼすための先駆者』であり、人類の支配者となる再世計画の要……のはずであった。

 羽々斬は自嘲するように笑うと、もう一度布団に寝転がる。


「おとぎ話だと思っていたよ」

「計画が頓挫した今じゃあ、そこらへんの奴らと変わらねー生活をおくってらぁな」

「頓挫とはまた不思議なもんだよ。いくら動機が単純でも、その産物は間違いなく成功だったはずなのにね」

「……“餞別の選別”」

「?」


 枕の下に手を潜ませて目を閉ざした。


「完全なる検体を選り抜くために実施された、検体同士の殺し合い。天使開発の最終プロセスだ」


 瞼の裏には陽光も当たらない、人の悪意だけがただ靉靆(あいたい)とたなびく灰色の景色が映り込む。

 記憶という名の一生もののキャッシュが、浮かんだ世界に書き足されていく。

 たくさんの少年、少女。そして研究者。




 一〇月九日――その日、子供たちは歓喜した。

 なぜならば待ちに待った、天使開発計画の最終実験日だったからだ。

 彼らはずっと指折り数えて待っていた。

 人の勝手で生み出され、人によって痛めつけられ、踏みにじられ。死んでしまった子供もいた。心身共に、使いものにならなくなるまで壊された子供だっていた。

 それでも、耐えていられた。

 誰も彼も、全てはこの日が来ることを願い、信じて続けていたから。

 苦しみで流れる涙を堪え。痛みで漏れる声を殺し。

 やがて終わる、と。そう己に言い聞かせ続けていたから。

 その先にあった、夢見た『外』への片道切符。


『さあ、殺し合え』


 最後の理不尽が、目前で叩きつけられる。

 別れの日に課せられたそれは、“究極の検体の選別”というもの。

 研究所を出られるのは、殺し合いの末に生き残った一人だけ。

 共に生まれ、共に育った家族をこの手にかける。


「年端もいかないガキ共には、あまりに酷な事だったろうよ」


 曰く。

 最初こそは誰もが「出来ないよ」と泣き喚いていた『気がする』らしい。

 ――――周りを見ている暇なんて、無かった。

 使命を取るか、家族を取るか。彼も迷っていたのだ。

 猶予も無しに渡された拳銃。呪いを乗せた掌で、グリップを強く握りしめた。銃床を穴が開きそうなほどに睨みつけていたのは覚えてる。


「だが、どいつもこいつも、いつまでも足踏みしてる訳じゃあなかった」 


 手を震わせ、呻きを上げ、喉を掻きむしり。

 願いが強ければ強かった者だけ――――早くに畜生と化していった。

 そしてついに一人が瞳孔をかっ開き、制御できなくなった指で引き金を引く。

 次の瞬間、床はどぽっ、とヒトの脳髄より漏れ出た鮮血で色づけらた。

 撃ち殺した少年は焦点の合わぬ目をして、壊れたテープレコーダーのように延々と『ごめんなさい』を垂れ流し続けていたという。

 その光景が鍵になったか、直後に少年少女たちはたがが外れたように叫び狂った。

 好きだった。知らない。

 仲が良かった。知らない。

 世話をしてくれた。知らない。


 知らない、知らない、知らない、知らない、知らない、知らない。


 みんな、大空へ飛び立つ自分の翼をもぎ取ろうとする、


 ――敵だ。


 ひとたびスイッチが入ってしまえば、人格の崩壊までそう時間は要らなかった。

 皆が刷り込まれた闘争本能の赴くままに刃を振るい、弾を撒き散らす。

 雪だるま式に増えていく犠牲者。

 そこには家族も友達もない。あるのはただ『敵』という共通認識のみ。

 最低にして最悪の殺人パーティが繰り広げられた。


 その日だ――夢見る子供たちに、“死という餞別”が渡ったのは。




「その後、検体の一部が能力の制御不能に陥り暴走、研究者も仲良くオダブツ――で、めでたしめでたしって訳だ」

「なるほど。確かにまぁ……計画を進める存在が消えれば、頓挫は必然だね」


 反芻と咀嚼と嚥下とを繰り返して、やがて戻る視界。

 羽々斬は夜暗から、ある物を差し出されていることに気付いた。

 起き上がり、受け取る。


「日本刀……?」

「お礼だと思ってよ。竹刀の替わりにでも使ってくれ」


 短く抜いたら、刀身がたちまち眩い光を放出する。

 手に伝わる重さをスライドし、かちゃり、と鞘に納めた。


「――次は本気でやることだ」

「……!」


 作為的に選ばれた言葉を聞き付け、羽々斬は反射的に彼の方を向く。

 この反応こそ、羽々斬が夜暗の言外に秘めたメッセージを汲み取れた証拠。

「力を全開にして戦っていないだろう」。俯瞰でそう訴えかける。


「気付いてたのかよ」

「君を縛り付け、抑え込んでいるものがなんなのかは知らない。知ろうとも思わない」

「……………………」

「ただ言えるのは、全てを擲って戦わなきゃ、間違いなく火鷹には勝てないだろう」


 羽々斬が、項垂れた。

 もしかすると本人には、力が永劫他者に知れることなく、凡人のまま生きていける自信があったのかもしれない。


「俺は……、俺はただ――」


 根拠なんてないのに。


「俺のために死んでいった連中の願いを、代わりに果たしてるだけだ」


 肥大化した“思い”が“思い込み”に変わっただけ。



「俺は、生きなきゃならない。『天使』じゃなく、あいつらがなりたがった『人間』として」



 殺した者のために。殺されてくれた者のために。

 何よりも、殺人マシンになりかけた自分を引き戻してくれた――“あの子”のために。

 毎日決まった時間に起きて、決まった場所へ出向いて、決まった責務を果たし、決まったように誰かと話し、何となしに笑い合う。決まった道を辿って帰り、決められていなかった小さな幸福に喜んで。決まった時間にまた眠る。

 起伏も刺激も、変化すらも無い生き方。平凡の環。

 彼はいくつもの犠牲で成り立った己が命を、こうして使う事を選択した。

 贖罪のつもりなんてどこにもない。赦されるとも考えていない。

 皆の思いを蔑ろにするのも、きっと簡単だろう。

 それでも。

 それでも彼は、脆すぎるから。

 だから罪科を捨てずに引きずってしまう。

 人一倍弱いくせに。臆病なくせに。


『自由だから――――生きてるだけで、いいから』


 失くなりかけた自分を繋いでいくれた、あの子の言葉。この一言で、彼はどれだけ救われたか。

 言ってくれたのは、名前も知らない女の子。

 与えられた識別番号(シリアルナンバー)で呼び合うだけの、無機質な仲。

 特別でなければ何でもない、しょうもない関係性で成り立つ間柄。当然思い出だってない。

 けれども不思議で、あの子を思い出させるものは沢山あって。

 自分を鳥籠から押し出してくれたあの手の温かさが、忘れられない。

 アスファルトを突き破って咲く大輪の花のように、希望に満ち溢れたその相好は、今でも双眸に焼き付いている。

 脳裏で甦る彼女はいつだって笑顔で。


『頑張ったね』って。


 最期の瞬間まで―――くしゃくしゃになった紙みたいに、その顔を綻ばせていた。



「俺がこのままでいなきゃ……『あいつが報われねぇんじゃねえか』って思っちまうのさ」



 綺麗な建前と皮肉られようが、お為ごかしと唾棄されようが。

 彼はその翼を鎖で封じ続ける。

 決意を逃がさぬよう、拳を握りしめる羽々斬。


「でも」


 武器庫とも云えるクローゼットが、苦しげに鳴いて壅塞(ようそく)した。すると夜暗が、そんな彼へ言葉をかける。


「僕ら人間がこの手で持てる物の量には、限界がある」

「ああ、知ってるよ」


「けど」という接続詞を引っ込めたのは、きっと自分の矛盾に気づいているから。


「どれだけ欲張って、かき集めて、掬いあげても――――全てがその手のひらに収まることはなく、余った分は零れて落ちて、やがて砕け散る」

「……知ってる」


 だから言い返せないで、同じような言を繰り返すしかできない。


「彼女は大きすぎる。誰かに救われるには、あまりに大きい」


 芸の無い話だと、思う。 


「もし持つことができたって、その重さで、大きさで、持った人が潰れてしまうかもしれない」

「……………………」

「君は愚かしくも、そんな存在を自ら背負いこもうとしてる」


「やりたきゃ勝手にやればいい」。そう続けた。


「けどね、今ある自分の平穏まで守り切れるとは思わないことだ」

「……!」

「チップを一枚も賭けずに、勝負に出るギャンブラーがいるかよ」


 喉が震えて、声が出なくなった。

 ずっと目を背けていたこと。


「それが、誰に託された物であっても――関係ない」


 彼が真鶸を傍に置こうとするのは、本当は彼女のためなんかじゃない。

 羽々斬 颯人という少年の、単なる身勝手と我儘。

 オルトリズムに化けた、狡猾なエゴイズム。


「何かを得る事は、何かを捨てる事だ」


 無邪気に足踏みしていた。心躍っていた。

 だから覚悟なんて無くって。懐かしむばっかりで。

 出会った最初の頃は、『帰ってきた』なんて莫迦みたく喜んで。

 胸が鳴った。嬉しかった。一挙一動が宝物だった。


「君が人であることを捨てない限り、彼女に明日は来ない」


 カーテンの向こうで広がる夜空にあったのは、いつかの夜に彼女と一緒に見た、満月。


「失う覚悟をしろ。そして選べ」


 あの笑顔も。温もりも。輪郭さえも。

 抱き留めて、世界の果てまで行って。

 誰も知らない――誰一人として罪を問わない、静かな場所で暮らしたかった。


「虚無の過去に縋って無様に死にゆくか、災厄の未来を絆して滅びの道を歩むか」


 そんな都合の良い願いを抱いた罰か。気付けば、彼は後戻りできなくなっていた。



「忘れるな」


「俺、は」


「彼女の手を取ったその瞬間から、君は君のままでいられなくなる」


「俺は――――」



 時刻、午前〇時二分。

 真鶸の消失まで、残り五八分。

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