Game.10 デス・バイ・エンカウント
銃声は確かに響いた。
硝煙の匂いと、空薬莢を振りまいて。
センチメートル単位の距離の先に居る相手を、撃ち抜かんと。
「……あれ?」
なればこそ、未だ無傷のままの彼女が眼前にいる理由を、解せなかった。
高い声と、短い言葉で、疑問を浮わつかせる。
独り言に「おかしいな、確かに撃ったはずなんだけどな」と添えて。
瞬間、右腕に収斂されたかのような大きな痛みが走った。
「へ」
銃口が上を向いてる。
視線を上げてみると、その頼りない右腕へと獣のように喰らいつく他人の左手があった。爪は牙に、付いている血は唾液に見えた。
右腕は大切そうに拳銃を抱いたまま、天井仰いで苦しげに呻く。
時を同じくして、夜暗の背筋に「ぞわり」という悪寒が走った。
「おい」
前髪というカーテンから覗いた、血よりも紅い月。
彼がそれを確認した時。それはもう、自分が傷を負う時――。
「か!!」
夜暗は短く歯切れのよい悲鳴を吐き出し、竹刀で部屋の端まで突き飛ばされた。途中ですり抜けたいくつものコンクリの柱が、無機質に彼を笑って見送った。
ズガン、という激しい音が、いかに強い攻撃だったかをわからせる。
背中が壁に激突し、大量の煙が舞う。それが、自分をこんな目に遭わせた存在の姿を隠蔽する。
が、見えなくても察しなんかつく――――「一体誰の仕業だったか」なんて。
こんな戦意にまみれた双光があれば。敵意に輝く睥睨があれば。
「いきなり、何してくれちゃってんだテメェ」
壁に背を預けて座り込み、項垂れる――途中に、こっそりと口角を釣り上げる夜暗。
『あの一瞬で銃撃を防ぎ、あまつさえ己に手傷を負わせる』。敵からすれば厄介なことなんだろうが、彼は違った。少しばかり、「面白い」とすら感じてしまった。
一気に夜暗と距離をはなした羽々斬は、この隙に自分を磔にする剣を引き抜く。
小さな呻き声は、きっと聞き間違いじゃない。
どぼどぼ、とトマトジュースのようにあふれ出る血液を見て、隣の真鶸は静かに涙を浮かべた。
「参ったなあ、『友達なら安易に手は出せないだろう』と思っていたんだけどねえ」
粉塵の壁を越えて、今一度夜暗がゆらりと現れ出る。
「バカ言ってんじゃねーよ。他人の腹に風穴空けようとするダチがどこの世界に居んだよ」
抜いた剣から落ちる血に気を取られてしまうほど、彼とて未熟ではない。
「勘弁してくれ……、これでも友達として、もう少し楽に葬ってやるつもりだったんだぜ?」
「だーかーらァ、ダチの猛プッシュやめろってんだよ! ぼっちか! テメェぼっちか! あン!?」
「ああ、確かに友達と呼べる相手は君を除いていないかな」
「……ま、んなこたいい」
差し込んだ夕明りを背負ったまま、丸い先端を向ける。
「テメェがどう思おうが、俺からすりゃあ敵だ。たった今、この瞬間から」
輪郭が橙の光に包まれ、引き換えに表情は暗黒によってぼかされた。
くすり、と一笑する彼もまた、同じこと。
「……参ったなぁ。できれば、邪魔が入らないよう早く終わらせておきたかったんだけどね」
「なんだと?」
「僕は、彼女に用事があるのさ。『殺害』という用事がね」
眉がひそむ。
「言ってる意味がわからねーんだよ」。空っぽな建物の中で、声が反響する。
聞いた夜暗が、口角を釣り上げた。そして返す言葉は――。
「何も知らないんだね」
「どうりでバカみたいに庇うわけだ」と、付け加える。
そしておもむろに穴だらけの天井を見やり、二酸化炭素を大きくふー、と吐いた。
直後に彼へと向けた瞳は、一瞬にして哀れみと冷たさに染まった。
「教えてあげるよ――」
相方を失った夜暗の剣が指すのは、彼女。
「この娘ねえ、災厄なんだ」
「――――!?」
羽々斬は、彼の言葉をすぐには理解できなかった。
ジ・カタストロフ――――間違いでなければ、確かにそう言った。全世界に災厄をもたらすほどの、凶悪な能力の持ち主だと――そう言った。
真鶸が。
そうだと。
そう言った。
図らずも見開かれた目は、あまりの動揺に打ち震える。口が急激に乾いて、言葉を失う。
静謐なんて頼んじゃいないのに。
羽々斬が思わず見やった彼女は、柱にもたれて、俯いていた。
「真鶸……、お前……」
「…………ごめん、なさい」
ずっと話さなかった罪への意識か――――ただ、そう謝る。口をへの字に歪めて、それ以上の発話はしなかった。
「戦災――『多元樹』。それが、彼女の本来の呼ばれ方だ」
「……だが災厄の連中は、方舟がいつでも場所と状況を把握できるよう、原則として監視衛星とリンクした首輪を付けられて」
「誰かがそれを外して監視衛星にハッキングを仕掛け、意図的に誤情報を送信していたとしたら?」
「何?」
「ありえない話じゃないと思わない?」
痛みでふらつく羽々斬に構わず、話を続ける夜暗。
「つっ……、なんのために」
「利用のためさ」
「……………………」
「その気になれば世界を滅ぼせるだけの力だ。方舟による“保護という名の支配”から解き放ち、どうにかしようと考える人間の一人や二人が出るのは、極めて自然な事なんじゃないかな」
「……一体、どこのどいつが」
アハハ。そんな笑声。
「心当たりがあるくせに」
彼の脳裏に過ったのは――先ほどまで自分たちを追い掛けていた集団、生徒会だった。
「学校、それも生徒会が、災厄を使って何しようってんだ」
尚も血を滲ませる傷口を、強く押さえた。
羽々斬は全ての疑問を解消してしまおうと、やみくもに、貪欲に問いを投げかける。
だが期待はずれな事に、その質問も放って、夜暗は別の事柄について口を開き始めた。
「彼女の能力はね、『起こり得る全ての未来を予測し、知覚する』というものなんだ」
「予知能力、ってのか?」
「いいや、方舟にいる予知能力者だって、的中率は100パーセントじゃない。でも彼女は外さない。だからもっと神異的な――――そうだな、『預言』とでも云うのかな」
「預言……」
「例えば、こういう話」
言葉を鸚鵡返しする彼を、夜暗が指差す。
「基本、予知系先駆者は『自分が把握できている現状を逸脱しない範囲』からでしか、先の事柄を予測できない」
「……予知者が想定し得ない要素は全て、『未来』という解を出す式から除外されるってことか」
「察しがいいね」とは、夜暗の言葉。
「未来ってやつは無数の可能性を内包している。それを前にすれば、そんな予知で見た未来なんてものは可能性の一つでしかない。今日予知した100年後の未来が、明日に予知する100年後の未来と同じとは限らないんだよ」
「へぇ……、でも」
「彼女は違う」
「こいつは」
「予知能力者が予知の段階で捨て去る『想定し得ない要素』全てを、余すことなく、一から十まで網羅して、未来を予測する事が出来る」
血が一滴落ちるたびに、視界がぶれていく。紅い花が咲いた地面に向かって、咳をぶちまけた。
それを見物する彼は、やはりにこやかだ。
「だから同じ100年後の未来でも、“統一国家『世界共和国』に治められた平和な未来”や“戦争によって滅び荒廃した未来”、果ては“地球が異星人に侵略されてしまった未来”など――多様な可能性を見通せるんだよ」
「故に預言、かよ」
「そう。おまけに、自分が実現したい未来に連続した『現在に戻るまでの過去』を遡って予測し、それに従って行動していけば――――この世界はその人の望んだ通りの方向に進むだろう」
さんざん続けた挙句に、夜暗は「つまり」と一言。
「『この世界の総てを思い通りに出来る』ってことさ」
「……へっ」
後ろに、一歩。二歩。
乱れる足取りの中で、苦痛に目を細めた羽々斬。
鉄臭い唾を飲み下すと、絶叫しかねない痛みが腹にほとばしる。
「枝分かれしたあらゆる可能性を繋ぎとめる樹木、まさしく『世界樹』。彼女の力を使えば、どんなものでも手に入る。どんなことでも出来て――どんな勝負でも勝てる」
羽々斬はまた、愕然とした。忙しなくとも仕方ない。平静を装えるだけ肉体が無事ではないのだから。
記憶から形作られたパズルが、飛び飛びの意識の中で少しずつ組み上がっていく。
最強の予知能力者『真鶸』は、ある場所に『囚われていた』。彼女の追手は絶対王者『聖鎧』の『生徒会』だった。
――ある疑念が、確信へと変わった。
事実でないことを内心で祈って、喉から声を絞り出す。
「聖鎧はね」
「おいおい――、」
『彼女を使って、代表戦を勝ち続けていたんだよ』
「嘘だろ」まで、言わせてくれなかった。
その前に二度の銃声が鳴る。しかし羽々斬は音だけ聴いて、その鉛玉を赤銅色の剣で弾き飛ばす。
すぐ後――ぬうっと、そのうすら笑いが目の前に現れた。再度それを睨みつけると、ガギンと乾いた音が響いて、剣と剣がぶつかり合った。
「尚も、彼女を庇うのかい?」
「一つ、聞かせろ……」
二色の眼光が闇の中で、複雑に絡まる。
「なんでテメェはそこまで知ってて、こんな真似をする……!」
「それこそ、言ってる意味がわからないよ」
「その事実を知ってる……なら、公表するだけで全部収まるじゃねえか!」
「ふふふ、弱小校の生徒が『不正によって敗北を強いられていた』と知ったらどう思うのか、考えたことはあるかい?」
「…………!」
「逆恨みで彼女を殺すかもしれない。君達聖鎧の生徒だってただでは済まないだろうさ。彼女の有用性に目を付けた連中がまた利用する事だってあり得る。そこから方舟全体が混乱に陥るだろう。最悪、戦争だって起きる」
歯ぎしりが、開きっぱなしの傷口に響いた。
鬩ぎ合い。痛みのせいで満足に力が入らずに、ただただ押されている。
擦れた鋼より散る火花が、どうにか意識を保たせているが――。
徐々に後ろへと退くうちに、羽々斬の背中はまたしても柱と出会ってしまう。生温かい感触が伝わった。
「どうしようが火種はばら撒かれるんだよ。だから彼女は、残念だけど死ぬしかない」
「勝手に決めてんじゃねえ!」
「君はまた彼女を旧校舎の地下に閉じ込め、日も当たらぬ場所で延々と力を使わせ続けるつもりでいるのかな」
「殺すのも戻すのも冗談じゃねえと思うから――、今ここで戦ってんだろうが!」
剣を持つ手が震える。戦慄や武者震いではない、その力一つで。
押し合ううちに、肉迫する両者。
「そもそも確実な未来を見通せる彼女は、こんな些末な事柄なんていくらでも回避できた」
「何が言いてェ」
「それでも現状がこうなっているのは、どうしてだと思う?」
「――この展開をあいつが望んだから、ってか」
「そうだよ。尤も、僕との遭遇は避けたがっていたようだけれど」
真鶸が夜暗に対し妙な視線を向けていたのを、今になって思い出す。
そして、理解した。
彼女がこの買い物への同行を望んだのも、こうして長く無警戒のまま外出していたのも――すべては『生徒会に捕らわれる為の行動だった』のだと。
羽々斬は怒りのままに歯噛みする。
騙した彼女が憎いんじゃない。
気付いてやれなかった自分が、憎たらしくて。
「彼女の意志を尊重するなら、もう剣を下ろせ。これが彼女の求めた結末だ」
「ざけんじゃねぇッ!」
片足を上げて、夜暗の腹を蹴飛ばす。相手が勢いでよろめき、三歩ほど退いた。
羽々斬がそれを見逃すはずもなく、すかさず接近して薄黄の刀身を振りかざす。
咄嗟に拳銃を取り出す夜暗だが、彼がトリガーを引くよりも前に、相手はそれを叩き落としていた。
「お」
一部が砕けて、破片が血濡れた地を転げる。
だがまだ終わらない。
「まだだ!」
追撃――――右の竹刀を振りおろしたらば、今度は左の実剣を。
横に薙ぐも、既にそこに夜暗などいない。避けざまに身を翻し、逃げ出していた。
「……逃がすかよ!」
広い室内だが、追いつけないことはない。まだ剣が届く範囲にいる後ろ姿を追う。
――コンクリの柱をかわしながらの、大捕物が始まった。
「俺はテメェほど結論を急ぎもしなければ、聖鎧ほど諦めちゃいねえ!」
「まるで駄々をこねる子供だね!」
室内を機敏に駆けて、逃げ回る夜暗。悉く攻撃はかわされる。
彼を掠めた剣戟が柱に描く、傷一文字。それは増えていく一方で。
「じゃあ君は何をする! 背負った災厄もろとも心中でもするかい!?」
「あいつが救われる道を模索する!」
「大した理想論だよ!」
柱の一本を支点にくるりと回転し、夜暗が素早く反撃に移る。
中段構えの突進。
居合のように抜き放たれた剣が、またしても衝突した。それも高速で。何度も。
かち合っては別れ、かち合っては別れの繰り返し。度々走る衝撃の波が、二人の肌を平等に傷つける。
「正義の味方にでもなったつもりかな!」
「諦めが悪いってだけさな!」
「何もない君にできることなんてないよ!」
「何もないのぁ、テメェだって!」
互いの剣身が弾けた残光を叩き壊すように、密着した。
金切り声が如き摩擦音に乗って起こるスパークが、二人の険しい表情を照らす。
「同じだろうが……!」
「そうだ僕には何もない……、拘りも、思想も、理念も、願望も、正義も希望も絶望も――信念も!!」
「テメェは一体なんなんだッ!」
「何もなければ何者でもないよ! 僕は僕だからこそ、誰かの使命を忠実に肩代わりできる!」
「ふざけやがれ、殺人鬼が!」
そう罵って、竹刀と鉄剣の二本を相手の得物に交差させる羽々斬。
それらを力いっぱい上へと持ち上げると、夜暗の剣が宙空を舞った。
「しまっ……!」
羽々斬はその様子を一瞥して確認し、勝利を確信する。
気流を歪ませる、丸く斬れない刃。丸腰の夜暗に竹刀を叩きこむビジョンを、脳内で形成して――。
「もらった」と、思わずそう洩らした。
すぐ後に、己が斬りつけられるとも知らないで。
ぷしゃあっ。彼の脳は、聴覚情報をこのように処理した。
直後、突如視界に飛び出した赤い飛沫が、頬にこびりつく。
その鮮血が己がものと気付くのは、数秒後の事。
左胸を、下から上へ――一閃。
「ハヤト……!」
「は――――」
いよいよ焼き切れかけた意識が、言葉の接合を放棄した。
酷く消耗している上に傷められた彼の肉体はもはや馬鹿となり果てており、痛覚がただ絶叫を上げるだけの肉塊に変容していた。
どさり、と大の字に倒れる。
「……かはっ」
目が霞んだ。広がった血漿の海に溺れ、曇った天井を見る。
「あーあ、やられちゃったね」
自分を覗きこむ存在は、笑顔でそう語りかけた。
ぼんやり目に入ったその手元には、やはり何もなく。
まあ――――夜暗に限った話だが。
「でもおかしいねぇ……なんで無能力者が、ここまでされて生きてられるんだろうね」
「ああ……おか、しいなァ」
弱々しいリフレイン。
自分を見下ろす人……いや、物がさらにもう一つ。
夜暗の隣。人型が、背中から観測した事の無い『未知の何か』を噴出させ、輪郭を歪ませている。
人のようで、よくよく目を凝らせば人じゃない謎の存在が――羽々斬にはしかと視えていた。
彼は『あれ』が幻覚などとは思わない。それはそうだろう。
なぜなら『あれ』こそが自分を斬り付けた、張本人なのだから。
「なんで無能力者が――、“自分の影”を、操ってるんだよ……」
闇のせいでもなんでもない。真黒で顔を持たぬ、文字通り正体不明の『あれ』を、彼は「影」と呼称した。
「…………!」
真鶸が、追想する。
あの日――自分を閉じ込めていた聖鎧旧校舎が襲われた、あの日を。
立ち込める黒煙に、巻き上がる悲鳴。絶叫。血を血で濯ぐ地獄絵図。
手当たり次第に生徒会役員の躯を貪り、研究者の額を穿つ――――記憶の映像と重ねた姿は、完全に一致した。
蠢く漆黒の人間。四肢の先は、「鋭利」と形容するに相応しい。
「秘密にしたいことがあるんだよ、君のように」
「人が、悪いねえ、おい……」
「ミステリアスな男は、けっこうモテるんだぜ」
能力名“翳り掛り”。
自分の影に実体を与えて切り離し、思いのままに操作する能力。
一見インパクトに欠ける力だが、自分がもう一人増えるのと同義なので、使い方次第では想定以上の結果を見込める。
「まあ、さ」。夜暗がそう言った。
「こういう闇討ちには、すごく重宝しているよ」
夜暗の影は、羽々斬を見やったままゆっくり手を挙げる。
刃を伴った、その掌を。
虚ろな瞳が、濁った彼の像を結ぶ。
指先にすら力が入らない。口の端から、ひいひいと情けない呼気が漏れ出た。
幼き頃に幾度と味わった血の味は、次に味わうことなど、幾久しくありはしないと思っていた。
いつ飲み込んでも、おいしいものではない。
『やられる』
理解の内にあっても、体がこのざまなものだから、どうにもできず。
「それじゃあ、ね」
手は、容赦なく振り下ろされた。
「……待って」
かのように思われた。
切っ先が頭に至ろうとしたところで、急停止する。
声のした方を向くと、真鶸がいた。
夜暗は鼻先で「ふうん」という意味深長な笑いを作った後に、彼女の言葉に耳を傾ける。
「……あなたの狙いは、私でしょ」
「ああ、そうだね」
「……だったら、早く私を殺して」
「――――!」
それを聞いた羽々斬が、目を大きく見開いた。
そしてどうにか発話する。簡単に遮られると知りながらも。
「へえ?」
「お、まえ」
「……私を殺して全て済ませて――代わりに、彼を助けて」
真鶸は血の池を渡り、横たわる羽々斬の元へ歩み寄る。涙を流して微笑んだ。
座り込んで頭を抱いて、小さく呟く。
「ごめんね」
と、もうひとつ。
「ありがとう」
と。
「感情の薄かった君が、他人に対してここまでするようになったのは……彼のせいかな」
「……今はそんな話、してない」
「ま、それもそうだ」
「……望みは、ただ一つ……、私の命と引き換えに、彼を平穏の中に還して」
「お前、なに、勝手に」
「――――いいだろう」
見上げた彼女の首元に、剣が当てられた。
柔肌が歪み、元から高くない体温は奪われる。
しかし恐怖など、ない。
「『誰かのために自分を捨てられる人間』は嫌いじゃない。君に敬意を表し、約束しよう」
なぜなら、自分を捨てたから。
彼が自分のために命を賭して戦ってくれたように。
己を擲ってまで、自分を救おうとしてくれたように。
能力も役に立たない今――自分に出来ることが、“これ”だけだから。
やっとできた『大切な物』を、守りたい。その一心で、真鶸は夜暗と対面する。
「んなこと、許さ……」
手を握って引き止めているつもりであろうが、彼女にとっては何の抑止にもならない。
「……楽しかった」
「違う……」
「もう一回……ありがとう」
閉ざされた目。あの子を、思い出す。
自己を犠牲にしてまで、自分を地獄から解き放ってくれた――あの子を。飛び立つ翼をくれた、あの子を。
(これじゃあまるで――、あの時と同じじゃねえか)
また救えないで、救われる。何もできずに。助けられずに。
嫌だ。そんなものは絶対に嫌だ。
「……やめろ」
歯を、きつく食い縛った。
彼の思いも虚しく、ゆっくりと真鶸の首に刃が食い込んでいく。
「やめろおォォォォォォォォォおおォォォォォォォ!」
影の静観の中、羽々斬の声帯が全力で振動した――――その時だ。
「!?」
最初に響いたのは、ドゴゴゴ、という轟音だった。
次に鳴ったのは、ガラガラ。どちらも到底刃物が出せる音ではない。
三人は反射的に頭上を見やる。それから間もなくして、崩落が始まった。
「……!」
「なんだ……!?」
現在の部屋、つまり三階の天井が、突如として崩れてきたのだ。
吃驚しつつも、自分と羽々斬を両腕で庇う真鶸。自身を守るのは、夜暗とて同じ事。
それなりのサイズの瓦礫がランダムで周囲に落下し、粉塵を巻き込んで矢継ぎ早な地響きを生み出した。
(一体、なんだってんだ……ッ)
「ハヤト……!」
「チッ……まったく、今日は忙しいね……!」
破壊の残骸を切り払う。傍らに舌打ちが紛れる。
ドッペルゲンガーが、自衛で慌ただしい彼らに代わり、状況確認のため天を仰ぎ見た。
見事に開けた丸へ、龍のような煙がもくもくと昇っていく。
空いた穴が、黄昏の輝きを招き入れているのがわかった。やがて出来る光のエレベーター。
そうして――、
『目標を確認』
少女が閃光をすり抜けて、降り立つ。
「!!?」
直後、ドッペルゲンガーは両断された。
昇り龍とすれ違いで降臨した、何者かによって。
瞬時の攻撃に対応できないまま、無惨に紙吹雪が如き死体を散らす影。無音の断末魔で、夜暗は確実に『自分の影の消失』を感じ取る。
誰だお前は――。
そう口にしかけた彼が、体勢低める敵へと目を向けた。
『殲滅する――』
刻まれた影の向こうで――――揺らめく赤髪。
オリーブカラーの瞳が虎のような眼光を放ち、狙う相手はただ一人。
暗黒を振り払って現れ出た彼女に、羽々斬はひどく見覚えがあった。
(あいつ!?)
「……ッ!」
夜暗は相手の顔を見るやいなや、血相を変えて後ずさる。
『……………………』
逃がすわけがない。
まばたきのすぐ後には、少年と少女の距離など簡単に詰まっていた。
「ぐああぁあっ!!」
手にした長剣で、一撃。容姿からは測り知れぬ剛腕が、夜暗の左腕に手酷い傷を負わせる。
「ぐっ!」
カラン、と金属が落下した。
されど剣を捨てて逃走を試みる彼の顔からは、柔らかさなどとうに失せていた。
夜暗が駆けて遠ざかるも、少女は追わない。
『接触』
代わりに全身を朱に輝せると、一度は地に伏した周囲の瓦礫が再度浮き上がった。それらは程なくして動き出し、彼女を囲んでぐるぐる回転する。
そして、彼女が手を前に出した時。
『解放』
――無限数の瓦礫は、一斉に彼の元へ飛んでいった。
「!!」
夜暗へと直撃したのは、言うまでもない。
一発当たれば二発、三発と次々に入り、その度に衝撃を溢していく。
無慈悲な蹂躙。
無遠慮な制圧。
そんなことが繰り返されるうちに、夜暗は完全に見えなくなった。
注がれる光の柱の中で、作った瓦礫の山を無表情で眺める少女。
「……アンタ、は……」
そんな後ろ姿に、羽々斬の言葉は滑り落ちた。
近くで目の当たりにし、『見間違いじゃない』と確信する。
前に会った時の格好より少し違って、聖鎧の制服に、ほどけた髪だけれど。
焼き付けた確実な姿と、綺麗に重なった事に変わりはないから。
通る風に、プリーツスカートが踊る。ニーハイに包まれた黒の脚の右側には、いくつもの戦輪を収納したホルダーが。
左腰の鞘に納められる長剣。
羽々斬は『副会長』と書かれた腕章を、濁った双眸に捉えた。
「また会ったな」
一度ならず二度までも助けられることになるとは、彼とて想像していなかったろう。大きくなった目が何よりも物語っている。
喫茶店で話した少女は振り返って――背中の『希望の剣』を以て、己が正体を明かした。
「多元樹は、無事ですか?」
彼女を見つめていると、細く長い、落ちつきのある男声が響いた。
羽々斬は、その声にも覚えがあって。
「首に少しの傷が付いてこそいるが、問題はなさそうだ」
「ギリギリでしたね」
背後より聞こえたそれは、徐々に彼女へと近づいていき、
「まあ、さすが……と言っておくべきでしょうか」
主の正体を晒す。
別に、考えられなかったわけじゃない。
真鶸を利用しているのが生徒会だとわかった瞬間から、この人物が事に無関係じゃないことなんて、容易に想像できる。
ただ、それでも。その良心は信じたかった。
彼――――生徒会長『呉鶴 千羽』の良心は。
「聖鎧生徒会副会長にして、多元樹の守護者“フレスヴェルグ”」
真鶸は友好とも敵愾とも取れない複雑な視線を、“フレスヴェルグ”と呼ばれる少女へと送った。
「またの名を、七聖曜輝――――『火鷹 双葉』」
彼女もまた、何も言わずに。
そっと二人を見下ろした。




