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第7話 アタリ夫の家計簿

第7話 アタリ夫の家計簿


金曜日の午後七時、直人は駅前の居酒屋で、会社の同僚三人と四人掛けのテーブルを囲んでいた。卓上には枝豆、冷やしトマト、串焼きの盛り合わせが並び、焼き鳥の煙と揚げ油の匂いが紺色の暖簾の奥まで漂っている。直人は生ビールではなく瓶ビールを一本頼み、手酌で小さなグラスへ注いだ。


「相沢さん、今日は二次会も行くでしょう」


向かいに座った田中が、唐揚げへ檸檬を絞りながら言った。田中は直人より六歳下で、飲み会では最初から最後まで生ビールを頼む。直人は枝豆の殻を小皿へ置き、首を横に振った。


「僕はここまで。二次会に行くと、今月の自由費を超えるから」


「自由費って、小学生の小遣いみたいですね。毎月、奥さんからいくらもらってるんですか」


「妻からもらってるわけじゃないよ。二人で決めた金額を、それぞれの口座へ残してる」


「出た、アタリ夫。奥さんに財布を握られても、文句一つ言わない」


田中の隣にいた斎藤が笑い、空になったジョッキを掲げて店員を呼んだ。同じ卓の二人も、直人へ同情するように眉を下げる。直人は以前なら、そこで「うちは妻が厳しいから」と答え、笑いに合わせていた。


町内会の資源回収所で、「奥さんが怖いから洗濯をする」と言われた朝のことを思い出した。あのときも直人は空気を壊さないために曖昧に笑い、妙へ説明を任せてしまった。手元のグラスにはまだ半分ほどビールが残っていたが、直人はすぐには口をつけなかった。


「握られてないよ。妙も僕と同じ金額だ」


「でも、家計簿をつけてるのは奥さんでしょう?」


「二人でつけてる。収入も支出も、二人とも見られるようにしてあるよ」


「それが管理されてるってことじゃないですか。給料くらい、自分で好きに使いたいでしょう」


田中はそう言って、追加の唐揚げと日本酒を注文した。斎藤は「うちは給料日に全部渡して、足りなくなったら頭を下げる」と笑う。二人とも、それが結婚した男性に共通する不自由であるかのように話していた。


直人は箸袋の裏へ、ボールペンで簡単な数字を書いた。自分の手取り、妙のパート収入、住居費、食費、光熱費、保険料、積立金。最後に、二人の自由費として同じ金額を二つ並べた。


「僕の給料だけで暮らしてるわけじゃない。妙の収入も家計へ入ってる。だから、僕だけが給料を渡す側で、妙が受け取る側でもないんだよ」


「相沢さんのほうが稼いでるなら、多く使ってもいいんじゃないですか」


「家に入れる金額は、収入に応じて決めてる。自由費は同額。それで二人とも納得してる」


「奥さんが得してません?」


「妙は僕より長く家事をしてる。僕がその時間に残業できるのは、妙が夕食を作っている日もあるからだ。給料の額だけで自由費を決めたら、家事を多くしたほうが損になる」


斎藤は二杯目の日本酒を受け取りながら、箸袋の数字を覗き込んだ。田中は納得できない顔をしていたが、唐揚げを口へ入れたため返事が遅れた。直人は相手を説得しようとはせず、残っていたビールを少し飲んだ。


「じゃあ、相沢さんが飲み会へ行くのも、いちいち奥さんの許可が必要なんですか」


「必要ないよ。自分の自由費の範囲なら、何に使っても説明しない。妙も同じだ」


「範囲を超えたら?」


「家計から出す必要があるなら相談する。黙って使わない」


「それ、面倒じゃないですか」


「十五年やってるから、歯磨きと同じだよ。面倒でも、やらないとあとで困る」


直人は箸袋を二つに折り、自分の鞄へ入れた。田中が「今度、その家計簿を見せてくださいよ」と言ったが、直人は首を横に振った。家計簿には妙の収入や通院費も書かれており、笑い話の材料として外へ持ち出すものではない。


「数字の仕組みなら説明する。でも家計簿は、僕と妙のものだから見せないよ」


「奥さんが怖いんじゃなくて?」


「怖いからじゃない。僕だって、妙が僕の給料や支出を勝手に他人へ見せたら嫌だから」


直人は自分の分の会計を済ませ、午後九時前に店を出た。自動ドアが閉まると、衣服についた煙の匂いが冷たい夜気の中で濃くなった。駅前のパン屋は閉店間際で、棚には食パンが一袋だけ残っていた。


自由費から三百円を払い、六枚切りの食パンを買った。家計用の買い物なら共有の財布から出すところだが、頼まれていない買い物なので、今夜は自分の金から出した。レシートを財布へしまい、直人は歩いて帰った。


玄関を開けると、居間から鉛筆を走らせる音が聞こえた。妙は紺色のカーディガンを羽織り、座卓の上へ茶色い家計簿を広げている。そばには電気料金の明細、スーパーのレシート、二つの湯飲みが置かれていた。


「ただいま。食パン、買ってきた」


「おかえりなさい。明日の分がなかったから助かった。家計から三百円を戻す?」


「いや、頼まれてないのに僕が買ったから、自由費でいいよ」


直人は上着をハンガーへ掛け、手を洗ってから座卓へ座った。妙はレシートの数字を一行書き終え、鉛筆を置く。家計簿の表紙には「十五冊目」と書かれ、角は一年分の手垢で少し白くなっていた。


「飲み会で家計簿の話になったよ」


「どうして?」


「僕が二次会へ行かなかったから。自由費を超えると言ったら、妻に財布を握られているんだろうって」


「直人さん、何て答えたの?」


「二人の収入も支出も公開して、自由費は同額だって説明した。妙が僕を管理してるわけじゃないって」


妙は湯飲みへ手を伸ばした。中のほうじ茶は冷めていたが、一口だけ飲む。直人が外で曖昧に笑わず、自分の言葉で説明したことを、妙はすぐに褒めず、続きがあるか待った。


「それから、家計簿を見せてと言われたけど、断った。妙の収入や通院費まで書いてあるから」


「ありがとう。仕組みを話すことと、私たちの数字を見せることは別だものね」


「うん。それで改めて思ったんだけど、僕がしっかりしているんじゃない。二人とも、相手のお金を勝手に使わないだけだよね」


直人は家計簿を自分のほうへ引き寄せた。妙が記入した今月のページには、光熱費、食費、日用品費が整然と並んでいる。だが十五年前の一冊目を開けば、項目は途中で増え、計算を間違えた箇所には二重線が引かれ、余白には言い争ったあとの約束まで書かれていた。


「最初は、直人さんの飲み代が家計から出ていたわね」


「妙の化粧品代も、全部日用品になってた」


「お互いに、自分のものだけ生活必需品だと思っていたのよ」


「それで自由費を同じにしたんだっけ」


「そう。金額を決めたら、私の口紅にも、直人さんのビールにも、相手が口を出さなくて済むから」


妙は押し入れの下段から、古い家計簿を入れた箱を出した。薄い大学ノート、百円店の家計簿、表計算ソフトから印刷した紙が、年代順に十五年分重なっている。途中には、直人が三か月だけ細かな費目を増やしすぎて挫折した年もあった。


「これは失敗だったな。食費を野菜、肉、魚、調味料に分けたら、つけるだけで夜が終わった」


「一円合わなくて、夜中の十二時までレシートを探したでしょう」


「結局、僕が自動販売機で缶珈琲を買った百三十円だった」


「百三十円のために、二人で一時間使ったのよ。それから百円単位で合わせるのをやめたの」


直人は古い家計簿を一冊ずつ箱へ戻した。十五年間、一度も間違えずに続けたのではなく、細かすぎる方法をやめ、足りない項目を増やし、暮らしが変わるたびに数字の置き場所を直してきた。妙一人が管理した記録でも、直人が妻へ生活費を渡した記録でもなかった。


「今月の確認、まだだよね」


「明日の予定だったけど、今やる?」


「お茶を入れ直してからにしよう。飲み会の匂いも落としたいから、先に着替えてくる」


直人は立ち上がり、冷蔵庫の古い分担表を見た。余白には家計簿について、「給料日に残高確認」「自由費へ口を出さない」「一万円以上の家計外支出は相談」と書かれている。どの文字が妙で、どの文字が直人なのか、今では二人にも判別できない箇所があった。


着替えを終えた直人が戻ると、妙は新しいほうじ茶と、小皿に載せた一枚の食パンを置いていた。半分に切って焼き、薄くバターを塗ってある。直人は片方を取り、妙はもう片方を取った。


二つの湯飲みの間に家計簿を開き、今月の数字を一行ずつ確認した。直人の飲み会も、妙が買った新しいカーディガンも、自由費から出ているため家計簿には載らない。相手の財布を握らず、それでも同じ暮らしの数字を二人で見るために、十五冊目の家計簿へ新しい月の線が引かれた。


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