《臥待月の輝く夜は》[3-1]
[3-1]
……結局、反省文なんて慣れないモノが速やかに書き上がるわけもなく、当然の如く、OKサインが出たころには陽が傾き掛けていた。
梗子センセはと言えば、おかげで書類仕事が捗りました、なんて言って退けてくれたわけだが。
「あはは、梗ちゃんらしいね~、たっくんには災難だったけど――はい冥ちゃん、あーん」
なんて言いながら、優さんは隣に腰掛ける包帯まみれの少女――檜山冥に、緑色の欠片が鎮座した木のへらを差し出してやる。
「……あーん」
言葉の通り、あーんと口を開けて、条件反射なのか眼まで閉じる冥。
口の中へ放り込まれる、緑色の物体。
軽く咀嚼して、一言。
「……冷たくておいしいです」
……まあ例の如く、メロンシャーベットなんだが。
病院の屋上の、据え付けられたベンチ。
最早お馴染みとなった「今日のアイスタイム」は屋上で――となったわけであるが、居合わせた冥を巻き込んで、こんなことになっている。
冥は片腕が不自由であり、容器を押さえながら中身を掬うタイプのものは食べられないわけで、かと言って彼女一人だけ食べさせないのは優さん的に許せず……と、そんな成り行きである。
今度からは棒アイスも買ってきてやらなくちゃいけないか、などと思いつつ、嘆息した。
「……ま、おかげで誰かさんの顔を一日見なくて済んだんだから、怪我の功名ってやつかもな」
皮肉っぽく言ってやると、「んむっ」なんて今度は自身の口にへらを咥えながら、優さんは心底不満そうな顔をした。
「なによぉー! たっくんと会えない日、私がどれだけ寂しいと思ってるのぉー!? もーっ、たっくんのばかばか! いじわる! 病院抜け出して会いに行っちゃうゾ!?」
「……分かってると思いますけど、本気みたいですよこの人」
フォローするように、ぽつりと冥が言う。
……言われるまでもない。俺は降参するように両手を挙げた。
「はいはい、悪かった悪かった。俺が草壁サンに怒られるから勘弁してな」
白旗を振っても、優さんは尚も「ぷんすか!」なんて言っていたが、この人の手の中に緑色の丸い物体がある限り、不機嫌が長続きしないなんてことは自明の理である。
一度嘆息してから、改めた。
「……昨日、あの馬鹿どうだったよ? 迷惑掛けなかったか?」
「――ふえ?」
冥にへらを差し出そうとしていた手を止めて、優さんは驚いたように俺を振り返る。
寸止めされた形の冥は、しばし口を開けたまま我慢していたが、やがて痺れを切らしたように自ら身を乗り出して、ぱくりっ、とへらに食いついた。
一瞬、リハビリもままならない車椅子生活の彼女では、そのままバランスを崩して前のめりに倒れてしまうのではないかと思いひやりとしたが――満足げに眼を細めるその表情を見る限り、無用な心配のようだった。
「もしかして……月ちゃんのこと? 酷いんだー、馬鹿だなんてー、言いつけてやろー」
「やかましい。質問に答えやがれこの子供大人」
一蹴してやると、「えーん、いじめっこー」なんて言いながらも、優さんは続けた。
「……月ちゃん、別にちゃんといい子だったよ? ……ちょーっと、無理してるかなー、とは思ったけど」
「無理してる?」
怪訝に思い眉根を寄せると、優さんは「うん」と頷いた。
「元気なのはいいんだけど、一生懸命過ぎるって言うか――何か、焦ってる感じがしたんだー」
「? ……具体的には何かあったのか?」
「んー、そうだねー……例えば、逢花ちゃんと一緒に土弄りしてみたり、かと思ったら、私に編み物教えてって言ってきたり。……この分だと、ひなちゃんにはお料理でも教えてってせがんでるんじゃないかなー」
確かに、あいつにしてはらしくないくらい勤勉だとは思った。しかし、
「それが何かいけないのか?」
「ううん、それ自体はいいことだと思うよ。……だけど、人間て、そんなに器用な生き物じゃないから。全部を一片にこなそうと思ったって、どこかで無理が出てしまうもの。無理を続ければ、いずれそれは大きな「歪み」となって、あの子を苦しめることになってしまうわ」
そう言った優さんの眼があまりにも真剣で、見たこともないようなものだったから、
「……熱でもあるのか?」
――そんなことを口走っていた。
「ひっどぉーいっ! どーゆー意味っ? 返答によってはおねーさん本気で怒っちゃうよっ?」
「あ、いや、違うんだ、いつになく真面目だったと言うか、信じられなかったと言うか、実は優さんの皮を被った梗子センセなんじゃねーかとか概ねそんなよーなことを」
珍しく柳眉を逆立てた優さんに動揺して余計なことまで口走ったような気がしないでもないが――ともかくも。
「自分を見失ってるってこと……か……?」
「うん……そうだね、そんな感じ……かな……」
何となく思い浮かんだ言葉は、的外れと言うわけでもなかったらしい。
しかし、自分を見失う? あの月子が? いつだって好き勝手やって、人一倍お気楽に生きているようなあいつが? 髪も真っ茶っ茶にして、短いスカート穿いて、へらへらしてるようなあいつが?
違和感に小首を傾げていると、
「……本当に分からないんですか?」
そんな声が横合いから飛び込んできた。
見れば、何かを問い質すような眼をした冥が、じっと俺を見ていた。
「え? 分かるのか?」
驚いて反射的に問うたのだが、
「え? ……分かりませんよ、そんなの。超能力者じゃあるまいし」
……解答までに妙な間があったのは気のせいだろうか?
不審感はあったが、問うてもそれ以上は何も答えてくれない気がした。
自分で考えろってことなのか――そう、嘆息した時だった。
「――優さん……?」
ふと、冥が優さんの名を口にした。
釣られて顔を向けると、優さんは何故か、呆けたような顔でじっと手の中のメロンシャーベットを見詰めていた。へらを動かすことも止めて、ただぼうっと、どこか虚ろな瞳を向けている。
「優さん?」
俺も名を呼ぶ。
優さんは、弾かれたようにびくんと身を揺らして、ハッと顔を上げた。
「……えっ!? あっ、ごめんっ、な、なにかなっ?」
取り繕うように笑うが、やはり様子がおかしい。気のせいか、頬が紅潮しているような気がする。
しかし、俺の思考がそこへ到達するに先んじて、冥は核心的な行動に出た。
冥の白い手が、おもむろに優さんの額へ触れる。
「……熱、あります」
ぽつり、とその事実を告げた。
「あはは……瓢箪から駒ってやつかな……? えへへ……」
「――言ってる場合かっ!」
咄嗟に立ち上がると、迷わず優さんを抱え上げていた。
「あややっ……たっくんに、お姫様だっこされちゃったっ……」
熱に浮かされながら、それでもどこか嬉しそうな顔をする優さん。
久々に触れた柔らかな感触も相俟って、少しだけ気恥ずかしいような気持ちが湧き上がってくるが、必死に首を振った。
「っ――いいから、病室戻るまで大人しくしてろよっ」
「……はぁい」
窘めると、妙にしおらしい返事が返ってきた。……それもそれで調子が狂うと思ってしまうのだから、我ながら勝手なもんだ。
しかし、そのらしくないしおらしさは、余裕のなさの現れでもある。
そもそも発熱なんてのは、数分で劇的に悪化するようなものじゃない。きっと、随分前から不調を感じてはいたんだろう。……無理しやがって。
――だけど。
……だけど、自らを顧みずただ誰かの笑顔のために笑うこのヒトが、俺は嫌いじゃなかった。
【つづく】