《臥待月の輝く夜は》[4-3]
[4-3]
二年前の少女は、二年前と変わらぬ姿で、膝を抱えてそこにいた。
「……来てくれたんだ、お兄ちゃん」
膝に顔を埋めたまま、くぐもった声を漏らす月子。
「……そうやって、心配させて確認しようとすんの、やめろよな」
嘆息混じりに言ってやると、月子は小さく、ごめんね、と呟く。それはどこか嬉しそうな声音で、本当ならたまったものじゃないのだが、不思議と悪い気はしなかった。
拒絶する様子はなかったので、俺はそのまま、洞穴を潜る。そうして、二年前と同じ場所に腰を下ろした。……今度は、最初から俺の座る空間は用意されていた。
べちゃり、と尻の下で水気をこれでもかと含んだ嫌な音がした。……ずぶ濡れの服のまま腰を下ろすのは、正直気持ちがいいものじゃなかった。
「……ったく、パンツまでぐっしょりだぜ、何度も何度も勘弁してくれよ」
戯けるように嘆息すると、月子はようやく顔を上げて、あはは、と笑った。
「ごめんねー、お兄ちゃん。……でも、今回は抜かりなし、だよ? だって――わたしも、パンツまでぐっしょりだもん♪ おそろいおそろい♪」
妙にはしゃいだ様子で言って退ける月子。何が抜かりなしだ。……いや、それよりも、年頃の女子が、パンツぐっしょりって――
「……あー、何か変なこと考えてるでしょー。お兄ちゃんてストイックに見えるけど、そゆとこしっかり男の子だよねー」
……馬鹿にしてんのかこの小娘は。
ぎろり、と一睨みしてやると、月子は「あっ」と言う顔をして言った。
「ごめんごめん、怒らないで、別に悪い意味で言ってるんじゃないの、だってわたし、お兄ちゃんのそーゆーとこ、けっこー好きだしっ!」
……フォローのつもりなんだろうか。つーか、「そーゆーとこが好き」って、こいつはどんだけアレなんだ。貞操観念の欠落した若い世代ってのは恐ろしいな。……一個しか変わらないけど。
「……でもさ」
ふと、視線を落として月子は言った。
「兄妹なんだし……やっぱり、一緒がいいよね。……一緒がいいなって、思ってた」
そんな月子の兄妹観には正直賛同し兼ねるが――……思ってた、か。
「……ねぇ、お兄ちゃん」
一人月子の言葉を反芻していると、また月子の声がした。
見れば、月子は片頬を膝に当て、どこか縋るような視線を俺に向けていた。
「ね……二年前みたいに……してもらってもいい……?」
一瞬、何のことか分からなかった。……だけど、その縋るような眼には覚えがあった。あの時は確か、俺を初めて「お兄ちゃん」なんて呼んで、それで――
……思い出して、俺は少し逡巡した。果たして、今その願いを叶えてやることが正しいのか。月子のためになるのか――俺はそれでいいのか。
……逡巡したが、
「……だめ……?」
そんな風に不安そうな声を漏らす月子を、突き放すことなんて俺には出来なかった。
俺は無言で体を起こすと、背を壁面に深く預け、立てた膝を大きく開いてみせた。
それだけで、月子は意図を理解したらしい。嬉しそうに破顔して――開いた俺の膝の間に、すっぽりと自身の体を収めて腰を下ろした。
「……えへへ……♪」
なんて、心底嬉しそうな声を漏らしながら、月子は躊躇いもなく背を預けてくる。……湿った体が密着するのが気持ち悪くないのかこいつは。
そんな心の声が伝わったわけではないだろうが、
「……うん、確かにぐっしょりだね」
そう言って、月子は楽しそうに、苦笑した。
「……でも、あったかい。こんな……濡れてるからかな。こうしてると、何だか――……背中から、お兄ちゃんと溶け合っていくみたい。何かね……気持ちいい、の……」
うっとりしたような、月子の声。その甘ったるい響きは、俺の脳を容赦なく侵食して、隙あらば最後の理性を破壊しようと画策する。……抗うことに精一杯で、俺は何も言えなかった。
「……こうしてれば、お兄ちゃんをすぐ近くに感じられるのにね」
溶け合う熱に酔い痴れるような沈黙の後で、月子は言った。
「……お兄ちゃんはずるいよ。わたしのいないとこで、勝手にどんどん変わっていっちゃって。……わたしだけ、いつまでも二年前のまま。……まだこんなとこで、膝を抱えてる」
言いながら、膝の上に在った俺の腕を取って、愛おしむように頬を寄せる。
それが何だか気恥ずかしくて、俺はその手から逃れるついでに、月子の濡れた頭をわしゃわしゃとかき混ぜてやった。
「やー、なにするのー」
抗議の声を上げるが、本気で嫌がっている様子ではなかった。
俺は一つ嘆息してから言ってやった。
「……お前だって、変わったろ。髪黒くして、服のセンスまで曲げてよ。……悔しいが、これでも結構ぐらっときてたんだぞ?」
「ほんと?」
「ああ、ほんとだよ」
「ほんとにほんと?」
「ほんとだって」
「……そっか。良かった……」
まるで子供みたいに、素直な声を漏らす月子。まるで――……そう。遥花を膝に抱いている時のような感覚が、俺の胸中を穏やかにしてくれる。
だけどその矢先、月子は言った。
「……じゃあ、もう一回だけ……誘惑しちゃおうかな」
ぎくりとさせる言葉。……けど、俺だってそうそう翻弄されてはいられない。
「――本気か?」
多分に怒気を含ませた声で言ってやる。
だが、月子も怯まなかった。
「……本気だよ。ずっと、ずっとずっと本気。昨日だって、二年前だって、今だって。お兄ちゃんの「特別」になりたいって、本気で思ってる。――ほら、二年前みたいに触ってみてよ。あの時より、ずいぶん大きくなったんだよ?」
言って、月子は俺の手を取る。そこに込められた力は、確かに嘘や冗談じゃない。
だけど、俺の本気の抵抗に、月子の細腕が敵うわけもない。
「……なんで」
びくともしない俺の腕に、月子は悲しげな声を漏らした。
「何でなの……? わたし、お兄ちゃんのためなら何だってするよ……? お花育てたり、編み物したり、お料理したり――……お兄ちゃんを気持ちよくしてあげることだって、勉強する。我が侭も言わないようにする。言葉遣いだって気を付けるよ。お兄ちゃんになって、なんて言わないから……だから、ねぇ。……お願いだよ、わたしを――わたしを、独りに、しないでよっ……」
……我が侭を言わないと言った舌の根も乾かないうちに、そんなことを言う。叶えられない願いのために、別の何かを要求するなんて、たちの悪いクレーマーみたいじゃないか。
だけど、不思議と腹立たしさは感じなかった。純粋に、いじらしいとさえ思った。
俺は一つ嘆息してから――ふと、手の力を抜いた。だけど、その手の向かう先は、月子の意図した場所なんかじゃない。
俺は月子の震える肩に手を伸ばし、そのままぎゅっと、月子の細い体を抱いてやった。
「え……? おにぃ……ちゃん……?」
きょとんとしたような声が漏れる。拒絶されると思っていたんだろう。……無駄に不安にさせてしまったかも知れない。
可哀想なことをしてしまったな、と思いつつ俺は告げた。
「……俺はさ、月子。人と馴れ合うのが、苦手なんだ。……いや、怖いのかな。誰かと拘われば誰かに傷つけられるし、傷つかないためには誰かを傷つけることになる。俺はそれが怖い。傷つけられるのも……傷つけるのも、怖いんだ、本当は。
だから、いつだって独りを望んだし、いつだって人を遠ざけた。……そんな自分を演出した。
……そうしていたら、いつの間にか、自分の感情ってもんが分からなくなってた。誰かに対して抱く自分の感情が、いったいどう言うものなのか……分からなくなっていた。心が死んじまってたって奴なのかも知んねえ。
……馴れ合いは、やっぱり今でも苦手だし、お前が言うみたいには、俺の何かが劇的に変わったとも思えない。けど、あの病院で長い時間を過ごすようになって――……自分の抱く感情の意味って奴が、少しは分かるようになってきたんだ」
――俺は知らなくちゃいけなかった。それは月子の気持ちなんかじゃない。月子の気持ちなんてのは、考えるまでもないくらい、初めからはっきりしていたのだ。
だから、知るべきは俺の、俺自身の気持ち。月子に抱いていた感情。二年前のあの日、月子を抱き締めながら抱いた感情は、激情は何だったのか。
……答えなど、初めから全て俺の中にあったのだ。
「――月子。……俺は、お前と恋人関係にはなれない。お前の言うようには、その体に触れてやることは出来ない。けど、俺は、お前を大切だと思ってる。ほっとけないと思ってる。傍にいてやりたいと思ってる。……月子、お前は――」
想いよ届けとばかり、月子を抱く腕に一層の力を込めた。
「お前は、俺の大事な妹だ」
「――――」
返ってくる言葉はなかった。けど、俺の腕に添えられた月子の小さな手が、微かに震えているように見えたから。
両腕で月子を抱き締めて、言った。
「――お前は、独りなんかじゃねえよ」
……それから、どれくらいの時間、沈黙があったろうか。風と、雨と、頭上を走る電車の音が幾らか過ぎ去った頃、月子は俺の腕の中で、小さく頷いた。
「……うん。わたし……頑張る。頑張るから――……置いて行かないでね、お兄ちゃん」
【つづく】