《臥待月の輝く夜は》[4-2]
[4-2]
その夜は、四人で食事をする予定になっていた。
俺と、お袋と、親父さんと、月子。家族になる四人が集う、初めての夜。
――そうなるはずだった。
その日、予てから親父さんとすれ違いを感じていた月子が、結婚への不満を訴えて家出をした。
状況から察するに、荷物や資金を用意しての周到なものではなかったから、家出と言うには可愛いものだったろう。けど、親父さんを心配させるには十分過ぎるものだった。
俺とお袋、親父さんは、月子が思い直して帰ってくるのを待っていた。
夜の十時を過ぎて、外はいつの間にか土砂降りの雨。
予報を裏切る天気の急変は、親父さんとお袋の不安を殊更にかき立てた。
――だが、俺は。
……だって、そうだろう? お袋の手前、一応大人しくはしていたが、その結婚自体には興味がなかったし、妹が出来ると言うことにも実感などなかった。
会ったこともない、臥待月子と言う中学二年生の少女には、僅かな感慨も抱いてはいなかったのだ。
時計の秒針の音だけが響く、お通夜のような空気の中、さっさとこの退屈な時間が過ぎ去ってくれないものかと、ただそれだけを考えていた。
……だけど、不思議なもので。
頭を抱える親父さんを何とはなしに見ているうち、思ったのだ。ああ、この人は本当に娘のことを愛しているんだなあ……なんて。
そう思ったら、無気力だった体が勝手に動いた。気が付いたら、親父さんから月子の写真を調達して、豪雨の中を駆け出していた。当てなんかなかった。それでも。
人気のない土砂降りの街を、どれだけ駆け回った頃だろうか。辿り着いたのは、ガード下に作られた小さな児童公園だった。
気休めに体に付いた雨粒を振り払いながら、公園の風景を眺めた。
……覚えていた。ガキの頃、ひなたと遊びに来たことがあったのだ。遊具なんて、まともなのは二つしかないとこだったけど、それでも惹き付けられる理由があった。
他でもなく、その二つしかない遊具の一つ。大きなドーム型をした石造りの滑り台。洞穴状にくり抜かれた内部に配された螺旋階段を上って、頂上に出るようになっていると言うもの。
狭い内部の階段から、一転して開けた頂上部に抜ける感覚は、子供の小さな冒険心を刺激するに十分だったし、横幅三~五メートルはある大きな滑走面は、それだけで魅力的だった。
らしくもない郷愁に苦笑しながら、足は自然とそこへ向かっていた。
そっと触れる。ひんやりとした石の手触りが懐かしかった。
――が、そんな感慨も、ふいに感じた人の気配の前にあっさり吹き飛んだ。
導かれるように、ぽっかりと空いた洞穴の中を覗き込んで――……そいつを、見付けたのだ。
ぎゅっと膝を抱え、その膝に顔を押しつけた、茶色い髪の少女――臥待月子。顔は見えなかったが、不思議な確信があった。
「……なーにやってんだ、こんなとこで」
嘆息混じりに言ってやると、月子は心の底からびっくりした顔で、軽く飛び上がった。
「ひゃっ!? え、え、えっ? なっ、何っ? だっ、誰っ……!?」
「……っと、そうか。そっちは俺の顔なんか知らねえか」
嘆息してから、改めた。
「……俺は、境守起陽ってんだ。……親父さんから、聞いてんだろ?」
「え……? ……じ、じゃあ、えっとっ――……お、お兄、さん……?」
混乱していたせいだったのか、月子は初対面でそんなことを言い放った。
俺としては、当然そんな風に呼ばれる覚悟などしていなかったから、ただ無愛想に口を噤むことしか出来なかった。
「……? あ、あのっ――……怒った……の……?」
不安そうな声を出す月子。
俺は返す言葉を持たなかったが、取り敢えずは腰を屈めて、洞穴の中へ足を踏み入れた。
月子は一瞬びくりとしたようだったが、間もなく俺の意図を察すると、軽く腰を上げて、ちょこんと少し横へずれた。
月子が空けてくれたスペースに、俺はどっかりと腰を落ち着ける。
見上げると、昔より随分狭くなったように感じたが、こうして腰を下ろしている分には、窮屈と言うほどのものでもなかった。
とは言え、狭いことに変わりはなかったから、俺と月子はほとんど密着したような状態で、お互いの熱をすぐ近くに感じていた。
「……そら、普通は怒るわな」
「え?」
答えまでに間があったからか、意味が分からなかったらしい。
「こんな土砂降りん中、二時間も家出娘を捜させられたら、誰だって怒りたくもなんだろ」
そこまで言ってやると、月子はようやく理解したような顔をして――けど、すぐに俯いた。
「……そっか。そんなびしょ濡れになってまで……捜してくれてたんだ」
一見、殊勝な言葉にも思えたが、どことなく嬉しそうな声にも聞こえた。
そんな場合かと思わないでもなかったが――不思議と、咎める気にはならなかった。
それきりろくな言葉が思い浮かばなくて、俺は月子が何かを言うまでじっと待っていた。
……それから、どれくらいの時間、沈黙があったろうか。風と、雨と、頭上を走る電車の音が幾らか過ぎ去った頃、
「……ねぇ――お兄ちゃんって……呼んでもいい……?」
縋るような声で、月子はそんなことを言った。
――もう、二年も前のことになるのか。
改めて考えると、長かったのか、短かったのか、良く分からない時間だった。
その時間にどんな意味があったのか……俺には分からない。
だけど、俺も月子も、その間にお互い経験したことがあって、考えたことがあって、積み重ねたことがあって。……それはきっと、嘘じゃない。
だから。
だからきっと、二年前には言えなかったことが、今ならば。
自分に言い聞かせるようにしながら――俺はその小さな洞穴を覗き込んだ。……二年前と同じように。そうして、声を掛けた。
「……なーにやってんだ、こんなとこで」
――二年前と、同じように。
【つづく】