《臥待月の輝く夜は》[3-4]
[3-4]
外来受付が始まったばかりの時間。
面会時間には、まだ何時間も早い。そんな時間。
――そんな時間に、俺はここで何をやってるんだろうな。……自分でも呆れてしまう。
幸か不幸か、今では内科の看護師さんらはみんな顔見知りだから、頼み込めば優さんの病室にお邪魔することは可能だったかも知れない。
けど、足は向かなかった。……そんな権利などないような気がした。こんな――あいつの裸体を思い出して、体を熱くしているような、こんな自分には。
……つまるところ、今の俺に出来ることなど、せいぜいが逢花の花壇の前を所在なげにうろうろすることくらいだったのだ。
果たして、これからどうしたものか――そう、絶望的な息を吐いた時だった。
「――今日も、良い天気ですね。……夜から台風だなんて、嘘みたいです」
ふと、背後から声がした。
見れば、電動車椅子に乗った包帯まみれの少女。檜山冥。
すぐ間近にまでやって来て、彼女は不思議な神秘性すら伺わせる微笑みを見せた。
「……今日は、お早いんですね」
「あ――ああ……そう、だな。ちっとばかし、早く来過ぎたかも、な」
ふいな問いに、うっかりしたようなことを言ってみる。……分かり易い嘘だな、と我ながら思った。
冥は、特に俺の嘘を問い質そうとはしなかったが、
「……少し、眼が赤いみたいです」
俺の眼を覗き込みながら、心配そうな顔をした。
何だかばつが悪くて、思わず背を向ける。一睡もしていないからな、とは言えなかった。
だが、口を噤んだ俺に、冥は迷いもなく言い放った。
「――月子さんのことで、お悩みなんですね」
背中から浴びせられる、冷水のような言葉。
ハッとして振り返ると、冥は申し訳なさそうに眼を伏せた。
「……ごめんなさい。見透かすようなつもりはないんです。……でも、見えてしまったことを黙っているのは、騙しているみたいで……嫌だったんです」
言ったきり俯いてしまう彼女に、俺は嘆息した。
おそらくは彼女とて、「それ」を見たくて見たわけじゃないんだろう。それはきっと、仕方のないことなのだろうし――少なくとも、興味本位で覗いたわけでないのは良く分かる。
……それなら。
「――あいつ、何を考えてるんだろうな」
余計なことは問わず、再び背を向けて、そんな独り言を漏らした。
「……え? 月子さんの考えてることが……知りたいんですか?」
まるで、意外だったとでも言うように、不思議そうな声が返る。
怪訝には思ったが、一度吐き出してしまった俺に、冥の真意を慮る余裕などなかった。
「そりゃそうだろ。あいつが何を考えてんのか分かんねえから、俺はこんなイライラしてんだ」
「――……」
吐き捨てるように言った俺に、冥はふと沈黙した。
怪訝に思い振り返ろうとしたが、
「――月子さんの考えてることなんて、ごく単純なことだと思いますけど」
制するように、冥の声が背を打った。
「……どう言う……意味だ?」
まるでつまらないことのように吐き捨てた冥に、敢えて背を向けたまま問うた。
彼女は、取るに足らないことのように、心なしか笑みを含んだ声で続けた。
「……簡単なことなんです。だって、それは誰もが潜在的に抱いている感情、願いなんですから。それが当たり前過ぎるから、日頃は表面に現れないだけの。……だから。だから、強く顕在化してしまうと、それだけで異質なモノのように思われてしまう。月子さんも――……私も」
……それは、酷く寂しげな笑みだったようにも思えた。
正直、要領を得ない話だと思った。けど、冥が今にも泣き出してしまいそうに思えて、強い言葉なんて吐けなかった。
「……分かんねえよ、俺には」
吐き捨てた俺に、冥はまた少し沈黙して、
「……いいんです。今、起陽さんが分からなくちゃいけないのは、私や月子さんの気持ちなんかじゃじゃありません」
また、不可解なことを言った。
「っ……いい加減にしてくれ、さっきから何を――」
流石に我慢ならなくて、感情のままに振り返る。
――そんな俺を。……深い闇色を映す冥の瞳が、真っ直ぐに射貫いていた。
「っ……?」
思わず言葉を呑む。
冥は、その瞳の如く深く静かな声音で、ゆるりと告げた。
「――優しくて、暖かい、イメージ。……私が、求めて止まないもの。……覚えてますか。あの日、虚ろだった私を「こちら側」に引き戻したのは――……あなた、なんです」
……意味が分からない。だけど、声を返すことも出来ない。
ただ混乱した頭と動かない体を抱えて、木偶のように立ち尽くすしかない俺――を、ふと、ポケットの中の振動がハッとさせた。
条件反射的に手を伸ばすと、
「……噂をすれば、と言うやつかも知れないですね?」
そう言って、冥は俺に電話を取るように促した。
それを無視したところで何かが変わるとは思えなかったし、俺は素直にケータイを開く。
発信者は、ひなただった。
冥の勘はともかく――考えてみれば、昨夜からこっち、ずっと着信を無視していたのだから、きっと小言を言われるんだろうな、などと内心思いながら通話ボタンを押した。
《――あ、もしもし起陽? ね、月子ちゃんそっち行ってない?》
藪から棒に、ひなたはそんなことを言った。
不躾な奴だと思いつつも、
「……何の話だ?」
問うと、当てが外れたことを理解したのか、
《……その様子だと、そっちには行ってないのかぁ》
そう、あからさまに落胆した声を出した。
……また面倒なことが起こる予感がして躊躇したが、
「……何か、あったのか」
黙っているわけにもいかず、そう問うた。
ひなたは複雑そうに一つ吐息して、言った。
《――月子ちゃん、いなくなっちゃったの》
【つづく】