《臥待月の輝く夜は》
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別に、それが嫌だった訳じゃない。ただ、実感が湧かなかった。
そいつがそうなのだと、写真を見せられてもピンと来なかった。幾ら見直しても、そいつはただの見知らぬ女で、可愛いとか可愛くないとか、男なら当然湧いてくるはずの感慨も湧いては来なかった。
だから、他意など欠片ほどもなく、むしろどうでも良かった。
それでも素直に『彼ら』の願いを受け入れたのは、他でもなく、それが『彼ら』の片割れ、つまり――俺のお袋の、願いだったから。
立っているだけで汗がにじんでくるような、真夏の夜更け。梅雨もとっくに明けたというのに、外はバケツをひっくり返したような土砂降りだった。
傘も役に立たなければ、レインコートを着ることもできない。夜更けだというのに、蒸し風呂のような気温だったのだ。レインコートなど着て走り回ったら、あっと言う間に熱中症でぶっ倒れちまう。
……そう。あの日俺は、土砂降りの夜の街を、あっちこっち駆け回っていたんだ。
捜しモノがあったから。……探してくれと、頼まれたから。
僅かな情報を頼りに、俺は街中を駆け回って――そうして、ようやく見つけたんだ。
……顔を見ても、実感なんて湧いては来なかったけど。
――何故こんなことを思い出しているのか、自分でも不思議ではある。
……だがまあ、理由は多分、眼の前のこの子なんだろう。
色とりどりの花が咲く、小さな花壇の前。しゃがみ込む、麦わら帽子を被った小柄な背中が二つ。二人とも子供のように見えるが、一方は俺よりも年上だったりする。だが、もう一方は、正真正銘の女児だ。
「おにいちゃんおにいちゃん!」
そう言って、女児――遥花は振り返った。
「……ん? どした?」
「これ! この白くてちっちゃいお花がいっぱいなの、すっごくキレイだねっ!」
軽く屈んで答えてやると、遥花は花壇を指さしながら、屈託なく笑った。
「ほう、なかなか趣味がいいな、ハルカ」
そう割り込んで来たのは、他でもない。すぐ隣にしゃがみ込む寸詰まり――逢花である。
「これはカスミソウと言うのだ。『清い心』や『無邪気』さを象徴する花だな。……ふむ、ハルカに良く似合っているではないか。境守もそう思うだろ?」
問われて、一も二もなく頷いた。否定する要素など一つもなかった。
「ああ……遥花は素直でいい子だからな。ぴったりじゃないか」
驚くほど素直に、そんな言葉が出てくる。正直、自分でも不思議だ。
不思議だが……悪い気はしない。
逢花も笑顔だったし、遥花はそれに輪をかけて笑顔だった。
「はるかいいこ? いいこ? ……えへへ~♪」
なんて、そんな風に笑う遥花を、心からいとおしいと思った。
「へ~、ホントに別人みたい。ってか、何か変な趣味に目覚めたんじゃないでしょーね」
――幸福な時間を打ち破ったのは、そんな声だった。
ぎくりとして、瞬間、身が強ばった。……いや、強ばったのは表情もか。
「おにいちゃん……?」
「? ……知り合いか? 境守」
俺の様子がおかしなことに、二人は既に気づいている。怪訝な様子で俺の顔を覗き込む遥花に、俺の背後に立つ何者かを見やる逢花。
知り合いではない。そう言ってしまいたかった。……しかし、その声、その口調、その雰囲気に、瞬間、思い当たってしまった。
「――――」
悪あがきとは分かっていても、振り返りたくない。喋りたくもない。
「……あのー、ねえ? いつまで固まってるの? ヒトが遠路遙々こんな暑い中、わざわざ会いに来てあげたってのにさ。ねえ、ひなたさん?」
「えっ? そっ、そんなことあたしに言われてもっ」
ひなたの声もする。……全部こいつの手引きか。くそったれ。これだから幼なじみって奴は始末が悪いんだ。いつもいつも、ヒトの家のことに首突っ込んで来やがって。
「ちょっと起陽! いい加減こっち向きなさいってばっ! 月子ちゃん、困ってるでしょっ!」
分かってるさ。いつまでもこのままでいられる訳がない。いつかは向き合わなけりゃならないなんてこた、2年前から分かってる。
「――っ」
意を決して、振り返る。そこには果たして、予想通りの人物の姿があった。
一人はひなた。俺の天敵にして、にっくき幼なじみ。そして、もう一人は――
「……つ――月……っ……子」
苦虫を噛みつぶす思いで、その名を口にする。
「はぁい♪」
錆色の長い髪をした女が、嬉しそうにニカッっと笑った。
「……だあれ?」
そう、どことなく不安そうな声で訪ねたのは、他でもなく、遥花だ。せがむように、俺のズボンを軽く握っている。
「……私も気になるな。どおゆう関係だ?」
心なしか厳しい眼で、逢花も倣う。
「――……」
俺は答えなかった。こいつが俺にとって何であるのか、対外的には分かり切っている。だが、言葉が出てこなかった。
そんな俺を代弁するつもりだったのか――或いは、単なる嫌がらせだったのか。月子は、大仰に敬礼するような素振りを見せながら、宣言するように、言った。
「臥待 月子15歳、北の大地から本日遙々やってまいりました! 境守起陽の――妹でっす!」
【つづく】