残香
「幽霊に匂いはないが、匂いは幽霊である」
この命題は、非対称な逆説として成立している。前半の「幽霊に匂いはない」は幽霊を物質的属性から排除する否定命題であり、後半の「匂いは幽霊である」は物質的存在である匂いに幽霊性を帰属させる肯定命題である。これは単純な対称命題ではなく、存在のカテゴリーそのものを問い直す構造になっている。
ハイデガーの現前性の観点から見ると、匂いは奇妙な存在様式を持つ。匂いは確かにここにある。しかしその源は、もうここにない。焚かれた線香の匂いは漂うが、線香はすでに燃え尽きている。亡き人の衣服に残った匂いは、不在を媒介としてこそ現前する。これはデリダの言う痕跡、すなわち起源が消えた後にのみその存在を主張するものの構造と一致する。匂いとは、不在が現前する様式なのだ。幽霊もまた同じ構造を持つ。だとすれば匂いが幽霊であるのは比喩ではなく、存在論的な同型性である。
フッサールの現象学において、意識は常に何かへと向かう。しかし匂いはこの志向性の方向を逆転させる。通常、主体が対象へと向かう。だが匂いは対象の方から主体へと侵入する。意識が構える前に、すでに身体が反応している。匂いは意識に先行して身体を占領するのだ。これは幽霊が見ようとして見えるものではなく、見るつもりがないのに現れるものであることと対応する。主体の志向性を待たず、外部から内部へ侵入する——これが匂いと幽霊に共通する存在の作法である。
ベルクソンは時間を持続として捉えた。過去は消えるのではなく、現在の中に層として堆積する。匂いはこの持続を、最も暴力的な形で顕在化する。プルーストのマドレーヌが示すように、匂いは過去の時間を現在へと強制召喚する。それは記憶の想起ではない。死んだはずの時間が、現在として蘇るのだ。幽霊とは過去が現在に亀裂を入れる現象である。ならば匂いは、時間の幽霊現象そのものと言える。
ここで前半命題に立ち返ろう。幽霊が匂いを持たないのは欠如ではない。幽霊はすでに匂いという存在様式として世界に遍在しているから、個別の匂いを持つ必要がないのだ。幽霊というカテゴリーを霊的存在から存在論的様式へと読み替えるとき、不在が現前し、過去が現在に侵入し、主体の志向性に先行して身体を支配するこの様式を「幽霊的なもの」と呼ぶならば、匂いはその最も純粋な物質的実例となる。
幽霊と匂いを比較すると、形態・存在様式・時間への働き・志向性への関係、いずれの点においても両者は一致する。唯一の差異は物質性のみだ。しかしその物質性ゆえに、匂いは幽霊よりもより幽霊的である。幽霊は信じない者には現れない。しかし匂いは、信じない者の鼻腔にも侵入する。
匂いとは、反証不可能な幽霊である。




