追放された公爵令嬢に関する五つの報告書 ~再評価委員会の結論~
オズワルド・フォン・シュタイナーは、白亜宮殿の「正義の間」へ向かいながら、懐に入れた一通の手紙を何度も確かめていた。
エリーゼ嬢直筆の手紙。
追放先のグラウシュタイン公国から届いたもので『オズワルド先生。私は詐病師ではありません。いつか、必ず証明します』と、震える文字で綴られていた。
この一文が、彼の医師としての良心を揺さぶり続けていた。
廊下を抜ける風は冬の終わりを感じる暖かさ。しかし、六十二年の人生でここまで薄ら寒い気分は初めてだった。
会議室の扉を開けると、四人の人物が既に席についていた。
窓際に立つ灰色の髪の女性は、王立大学薬学部教授マティルダ・ヴェーバーだ。
テーブルに小さなノートを置く老婦人は、元アーベント公爵家侍女頭フリーダ・ミュラー。
眼鏡を押し上げる痩身の男性は、王国会計監査局の局長、レオポルド・ハルトマン。
分厚い帳簿を抱える温和な初老の男性は、王立中央図書館、司書長のヘルマン・ブラウンだ。
互いに面識はあったが、共同で何かをするのは初めてである。
オズワルドは長いテーブルの上座に座り、四人の視線を受け止めながら、懐から手紙を取り出した。
「集まっていただき、ありがとうございます。皆さんに見ていただきたい手紙があります。グラウシュタイン公国からエリーゼ嬢直筆の手紙が届きました。彼女は今も戦っています。私は医師として、彼女に対する診断書に嘘は一切ないと証言します。しかし、それだけでは不十分でした。だから皆さんをお呼びしたのです」
マティルダが灰色の瞳に決意を宿して応じた。
「魔法科学は嘘をつきません。私も協力します」
「わたくしも、お嬢様の真実を知っております」
「数字に感情はありません。ただ、事実があるのみです」
「本は人を映す鏡。彼女の読書記録は、彼女の魂そのものです」
五人の専門家が、それぞれの分野から真実を探ろうとしていた。
オズワルドが立ち上がる。
「では、真実を明らかにしましょう。本日をもって、『王国再評価委員会』の設立を宣言します。目的はエリーゼ嬢の名誉回復です」
残りの四人も立ち上がって、互いに握手を交わしていく。テーブルには五冊の報告書が並べられた。医学、薬学、日常観察、財務、知識。それぞれの専門分野から導き出された証拠が、今ここに集結していた。
「それぞれが持ち寄った資料を、共有しましょう。私から医学的見地の報告を始めます」
オズワルドは自身の報告書を手に取った。彼は丸眼鏡越しに報告書を見つめながら、四十年近い医師人生を振り返る。平民出身の苦学生から王立医療院の院長にまで登り詰めた長い経歴の中で、最も重視してきたもの。――診断書の正確性だ。
「エリーゼ・フォン・アーベント嬢の初診は、今から十五年前、彼女が七歳の時です。当時の彼女は、健康そのものでした。活発で、よく笑う少女だったと記憶しています」
報告書の一ページをめくると、十歳の頃の記録があった。ここから異変が始まったのだ。
「十歳になった頃から異変が始まりました。原因不明の体調不良、慢性的な疲労感、頭痛、目眩、吐き気といった症状です。当初は成長期特有の症状かと考えましたが、症状は改善せず、むしろ悪化していきました」
レオポルドが身を乗り出して尋ねた。
「どのような経過でしたか?」
「十二歳の時点で血液検査に異常値が出始めました。白血球の数値が通常より低く、貧血の兆候もありました。しかし、特定の疾患には該当しない。栄養不足でもなく、感染症の兆候もありませんでした」
マティルダが鋭く問いかけた。
「では、何が原因だと?」
「当時は分かりませんでした」
悔しかった。十五歳には症状は悪化し、二十歳を迎える頃には日常生活に支障をきたすレベルにまで達していた。それでも原因を特定できなかった。
「私は彼女を詐病師だと疑ったことは、一度もありません。血液検査の結果、体調不良の兆候、問診での訴え、すべてが一貫していました。彼女は確かに病んでいたのです。十五年分の診断書と血液検査の結果票が、それを証明しています」
報告書の最後のページを開くと、そこには一つの仮説が書かれていた。彼自身の文字だが、改めて見ると恐ろしい結論だった。
「婚約破棄の際、私は違和感を覚えました。王太子殿下は彼女を詐病師と断じられた。しかし、医学的証拠は彼女の病を裏付けている。では、なぜ彼女は病んだのか」
深く息を吸ってから、オズワルドは告げた。
「その答えを探すうち、ある可能性に辿り着きました。毒物です」
会議室が静まり返った。
「彼女の症状は、ある種の毒物による中毒症状に酷似しています。私の記録によれば、症状が始まったのは彼女が十歳になった直後でした」
資料を広げながら、オズワルドは続けた。
「偶然でしょうか。医師としての直感が告げています。これは偶然ではない、と」
マティルダが立ち上がった。
「その仮説、私に検証させてください」
灰色の瞳に、魔法科学者の闘志が宿っているように見えた。
*
マティルダ・ヴェーバーは、自分の報告書を開きながら、魔法科学者としての誇りを胸に語り始めた。
王国初の女性教授として、多くの偏見と戦ってきた。だからこそ、証拠だけを信じてきた。感情ではなくデータ、憶測ではなく事実だ。再現できない実験は信じない。
「オズワルド院長の仮説を受け、私は分析を始めました。王立医療院に保存されていた彼女の血液サンプルを、最新の化学分析技術で再検査したのです」
マティルダはガラス瓶を取り出した。中には微量の黒い粉末が入っている。
「結論から申し上げます……エリーゼ嬢は毒を盛られていました。これがその毒物です。シュラーフェントート。眠りの死、と呼ばれる毒物です」
会議室に静寂が訪れると同時に、ヘルマンが顔をしかめた。
「聞いたことがあります。古い毒物学の書物に記載が――」
「その通りです。即効性がないこの毒は、微量を長期間投与することで徐々に体を蝕んでいきます。致死量に達するまでには二十年以上かかります。だからこそ発見が困難なのです」
マティルダは分析結果の資料を広げた。
「症状は慢性疲労、頭痛、吐き気。オズワルド院長が記録された症状と完全に一致します」
レオポルドが問いかけた。
「なぜ今まで発見できなかったのですか?」
「通常の検査では検出できないからです。特殊な分析手法を用いて、ようやく検出できました」
複雑な化学式と数値が並ぶ資料を指し示しながら、マティルダは続けた。
「血中濃度から逆算すると、彼女は十二年以上、ほぼ毎日この毒を摂取していたと推定されます」
フリーダが震える声で尋ねた。
「十二年以上、毎日?」
「はい」
怒りが込み上げてきた。魔法科学者として、人間として、許せない犯罪だ。
「この毒は食事に混ぜるのが最も容易です。無味無臭で、加熱しても分解されません。つまり、犯人は彼女の食事を管理できる立場にいた人物。それと、薬学の知識を持つ者です」
マティルダは瓶を置いてから続ける。
「魔法科学は嘘をつきません。エリーゼ嬢の体内には確かに毒物が存在した。では、誰が毒を盛ったのか? どこで盛ったのか? どうやって盛ったのか? その答えは、あなたが知っているはずです」
*
マティルダの視線を受けて、フリーダ・ミュラーは、小さなノートを開いた。二十年間の記憶を辿ってゆく。エリーゼが生まれた時から側にいた。侍女頭として最も大切にしてきたもの。それは観察と記録だった。
「わたくしは毎日、お嬢様の様子を記録しておりました。お嬢様の一日は規則正しいものでした。毎朝五時に起床され、十五年間、一日も欠かしたことはございません」
几帳面な文字で、びっしりと記録が綴られている。
「起床後は一時間の読書、朝食を済ませると午前中は勉強、午後は慈善活動の計画や手紙の執筆。このような日課を、十五年間続けてこられたのです」
フリーダの咳払いがひとつ。
「お嬢様が『怠惰』という評判は、まったくの誤りでございます。お嬢様ほど勤勉な方を、わたくしは他に存じ上げません」
では、なぜそのような評判が広まったのか。フリーダはノートの別のページを開いた。そこには、ある名前が何度も登場していた。
「食事の管理体制について申し上げます。アーベント公爵家では、お嬢様の食事を専属の侍女が管理しておりました。その侍女の名は、ロザリンデ・フォン・エーデルシュタイン」
名を口にすると、フリーダの表情が怒りに染まる。
「十二年前、エリーゼお嬢様が十歳の時に、エーデルシュタイン伯爵家から派遣されました」
オズワルドが身を乗り出して確認した。
「症状が始まった時期と一致しますね」
「はい。ロザリンデは常にお嬢様の食事に立ち会っておりました。他の侍女を遠ざけ、自分だけが管理する体制を作り上げたのです」
あの時、彼女は違和感を覚えていた。なぜ他の侍女を遠ざけるのか。なぜ自分だけで管理したがるのか。今になって、その理由が分かった。
フリーダは深く息を吸った。
「エリーゼお嬢様の追放が決定された後、わたくしは公爵様の許可を得て、ロザリンデの私室を徹底的に調査いたしました」
布包みを取り出す。
「寝台の下、床板を剥がした場所に隠し空間がありました。そこから発見されたものが、これです」
布を開くと、中には黒い粉末の入った小瓶と、古びた帳簿があった。
「この小瓶の中身は、マティルダ教授に分析していただきました。結果は?」
マティルダが頷いた。
「エリーゼ嬢の血液から検出された毒物と、完全に一致しました」
会議室に緊張が走る。フリーダは帳簿を開いた。
「この帳簿には暗号で記録が残されていました。解読の結果、これは十二年分の毒物購入記録でした。購入先、購入日、投与量、すべてが記録されています」
レオポルドが身を乗り出した。
「暗号を解読したのですか?」
「はい。王国諜報部の協力を得ました。そこで驚くべき事実が判明したのです」
フリーダは別の資料を取り出した。
「この暗号は、ノルトガルド公国の諜報組織が使用する暗号体系と一致しました」
会議室が静まり返った。ノルトガルド公国。それはアルテンブルク王国と国境を接する敵対国だ。
ヘルマンが驚愕の声を上げた。
「まさか、これは――」
「はい。ロザリンデは単なる復讐者ではありませんでした。彼女はノルトガルド公国の工作員だったのです」
フリーダは資料を広げた。
「諜報部の調査によれば、エーデルシュタイン伯爵家は十五年前、経済的に困窮していました。その時、ノルトガルド公国から多額の資金援助を受けています。つまり、エーデルシュタイン家は敵国に買収されていたのです」
オズワルドが息を呑んだ。
「では、ロザリンデは?」
「彼女は七歳の頃、ノルトガルド公国に送られ、諜報組織で訓練を受けています。毒物学、諜報技術、演技、すべてを学んだ上で、十歳の時にアーベント家に送り込まれました。任務は、エリーゼお嬢様を排除し、アーベント公爵家の力を削ぐこと。可能であれば、自らが王太子妃となり、王国中枢に食い込むこと」
マティルダが問いかけた。
「彼女に薬学の知識は?」
「養父が薬種商だったのは事実ですが、本格的な毒物学はノルトガルド公国で学んだものです。帳簿には指導者の名前も暗号で記されていました」
条件が合致する。フリーダは記録を見ながら口を開く。
「お嬢様が体調を崩されると、ロザリンデは表向き心配する素振りを見せました。しかし、医師の前では『お嬢様は怠けていらっしゃる』と証言していたのです。お嬢様の前では献身的な侍女、他者の前では彼女を貶める証人――二つの顔を持っていました。これは、諜報組織で訓練された演技でした」
許せない。そんな表情でフリーダは別のページを開いた。
「さらに、ロザリンデは王太子殿下に頻繁に接触しておりました」
ヘルマンが眉をひそめた。
「侍女が王太子に?」
「はい。舞踏会、茶会、公式行事――あらゆる機会を利用して、殿下に近づいていました」
レオポルドが冷たく言った。
「毒を盛る機会と手段――揃いましたね。では、動機は? それは私の専門分野です」
*
レオポルド・ハルトマンは、膨大な会計資料を前にして、冷静に分析を続けていた。数字を信じてきた。感情は嘘をつき、言葉も嘘をつく。しかし、数字だけは嘘をつかない。
「エリーゼ嬢の支出記録を分析しました。過去十年間の総支出額は、金貨五万枚に相当します」
莫大な金額だ。これだけ見れば、確かに浪費家に見えるだろう。だが、内訳を見れば真実は明らかだった。
「しかし、内訳を見れば真実は明らかです。個人的な支出である衣服、装飾品、娯楽、これらの合計は金貨二千五百枚。総額の五パーセントに過ぎません。公爵家の令嬢として考えれば、むしろ節制なさっていた様子がうかがえます」
レオポルドは資料を一枚ずつめくっていく。
「残りの九十五パーセントは慈善事業です。孤児院への寄付、病院の運営資金、学校の建設費、貧民街への食料配給。……これが浪費と言えるでしょうか」
レオポルドは一枚の資料を取り出した。これが、決定的な証拠になるだろう。
「ほかにも、興味深い発見がありました。四年前、エリーゼ嬢は『聖エミリア孤児院』への支援を突然打ち切っています。それまで毎年金貨千枚を寄付していたにもかかわらず、です」
オズワルドが身を乗り出した。
「理由は?」
「孤児院の帳簿に不正が発見されたためです。寄付金が本来の目的に使われておらず、理事が私的に流用していました」
レオポルドは別の資料を取り出した。
「その理事の名は、クラウス・フォン・エーデルシュタイン。エーデルシュタイン伯爵の弟です。つまり、ロザリンデの叔父、ということになります」
会議室が静まり返った。眼鏡を押し上げながら、レオポルドは続けた。
「エリーゼ嬢は不正を発見し、支援を停止した。その直後、正確には二週間後から、ロザリンデは王太子殿下に頻繁に近づくようになりました。時期は完全に一致します」
資料を整然と重ねてから、レオポルドは結論を告げた。
「表面的には、叔父の不正を暴いたエリーゼ嬢への復讐、王太子妃の座への野心、これが動機に見えます。しかし、真の動機は別にあったのです」
レオポルドは諜報部から受け取った資料を開いた。
「この不正発覚により、エーデルシュタイン家はノルトガルド公国から追加の資金援助を受けています。つまり、エリーゼ嬢が不正を暴いたことで、敵国との繋がりが深まった。その後、ロザリンデの任務が本格化したのです」
マティルダが立ち上がった。
「証拠は揃いました。しかし、エリーゼ嬢自身は、気づいていなかったのでしょうか?」
ヘルマンが穏やかに微笑んだ。
「それが、最も驚くべき事実なのです」
*
ヘルマン・ブラウンは、分厚い帳簿を開きながら、四十年間の司書人生を振り返っていた。無数の本に囲まれ、無数の読者と出会ってきた。最も大切にしてきたもの。それは司書、という仕事だった。
「エリーゼ嬢が購入された書籍の記録を持参しました。これは、王都の書店組合が保管している販売記録です」
帳簿を開いて見せた。
「エリーゼ嬢は図書館で本を借りることもありましたが、重要な本は必ず購入されていました。過去十年間で、彼女が購入した本の総数は……千三百四十冊です」
驚異的な数字だ。ヘルマンはリストを読み上げていく。
「ジャンルは多岐にわたります。医学、経済学、歴史、哲学、法律、文学……特に興味深いのは、その体系性です。彼女の読書は、決して乱読ではありませんでした。王妃として必要な教養を、順序立てて学んでいたのです」
ヘルマンは別のページを開いた。ここに、決定的な証拠がある。
「医学書では『人体の仕組み』から始まり、『疾病の診断』『薬草学』と進んでいきました。それと――追放される三ヶ月前、彼女は『毒物学入門』を購入しています」
全員の視線が集まった。なぜ、毒物学なのか。ヘルマンはリストを指し示した。
「さらに、同じ時期に購入した本があります。『体内毒素の検出法』『長期中毒の症状と対処』『毒物分析の基礎』です」
オズワルドが息を呑んだ。
「彼女は、気づいていたのですか? 自分が毒を盛られていることに」
「はい」
ヘルマンは頷いた。彼は司書として、読者の真意を見抜いてきた。彼女は確かに気づいていた。
「エリーゼ嬢は、自分が毒を盛られていることに気づいていた。しかし証拠がなかった。だから、自ら毒物学を学び、証拠を集めようとしていたのです」
ヘルマンは小さなノートを開く。エリーゼの筆跡で、びっしりと読書の感想や考察が綴られていた。
「これは、彼女が私に預けていた読書ノートです。震える文字で、こう書かれています」
ヘルマンは読み上げた。
『私の症状は、シュラーフェントートの中毒症状に似ている。しかし、どうやって証明すればいいのか。誰が信じてくれるのか』
フリーダが涙を流していた。ヘルマンは別のページを開く。
「さらに、法律書も多数購入しています。『不当な告発への対処』『証拠の収集方法』『冤罪を晴らす手段』と。エリーゼ嬢は、決して受け身の被害者ではありませんでした。自ら戦おうとしていたのです」
温かな眼差しで、ヘルマンは他の四人を見回した。
「しかし、追放が先に来てしまった。彼女は今もグラウシュタイン公国で、真実を証明する方法を探しながら戦い続けているのでしょう」
五つの報告書が揃ったところで、オズワルドが立ち上がった。
「これで、すべての証拠が出揃いました。医学が証明した病の真実、薬学が暴いた毒物の存在、日常観察が特定した犯人と物的証拠、財務が解明した真の動機、読書記録が示した彼女の戦い――明日、国王陛下の御前で、これらの報告書を提出します」
オズワルドは四人を見回してから、厳しい表情で続けた。
「しかし、忘れてはなりません。この冤罪を生んだ真の責任は、王家にあります。国王陛下と王太子殿下は、十分な調査もせずにエリーゼ嬢を追放した。私たちは真実を明らかにすると同時に、王家の責任も追及しなければなりません」
五人の専門家は、互いに頷き合った。真実は必ず明らかになる。権力者の責任も。
*
翌日、オズワルドは玉座の間に立っていた。国王、評議会、王太子フェルディナント、全ての視線が注がれている。四人の仲間が隣に並んでいることを確認してから、オズワルドは深々と礼をした。
「国王陛下。再評価委員会を代表し、報告を申し上げます。エリーゼ・フォン・アーベント嬢に関する調査結果をご報告いたします」
国王が手を挙げて促した。オズワルドは第一報告書を開いた。
「まず、医学的見地から。エリーゼ嬢は詐病師ではありません。彼女は確かに病んでいました。十五年分の診断書と血液検査結果が、それを証明しています」
ざわめきが起こった。マティルダが進み出て、ガラス瓶を掲げた。
「薬学的見地から申し上げます。エリーゼ嬢の体内からは、シュラーフェントートと呼ばれる毒物が検出されました。十二年以上、毎日投与されていたと推定されます。これがその毒物です」
玉座の間に、驚愕の声が広がった。オズワルドは王太子の側に控えていた若い女性――ロザリンデ・フォン・エーデルシュタインの顔色が変わる瞬間を見逃さなかった。
フリーダが前に出て、ロザリンデを指さした。
「日常観察の記録から申し上げます。エリーゼお嬢様は怠惰ではございませんでした。そして、毒を盛った人物を特定いたしました。ロザリンデ・フォン・エーデルシュタイン。あなたです」
フリーダは布包みを掲げた。
「これはあなたの私室から発見された毒物と、十二年分の購入記録です」
ロザリンデの顔色が変わった。
「それは……誰かが仕組んだ罠です! わたくしは何も――」
マティルダが冷たく言い放つ。
「この小瓶の中身は、エリーゼ嬢の血液から検出された毒物と完全に一致しました。化学分析の結果です」
レオポルドが帳簿を示す。
「この帳簿に記された暗号を解読しました。これは十二年分の毒物購入記録です」
フリーダが厳しい声で続けた。
「さらに、この暗号はノルトガルド公国の諜報組織が使用する暗号体系と一致しました。ロザリンデ・フォン・エーデルシュタイン、あなたは敵国の工作員です」
玉座の間が騒然となった。ロザリンデの顔が蒼白になっていく。
「……嘘です! わたくしは――」
レオポルドが資料を掲げた。
「エーデルシュタイン伯爵家が十五年前、ノルトガルド公国から資金援助を受けた記録があります。あなたは七歳の頃、敵国に送られ、諜報組織で訓練を受けた。その後、十歳になった頃、アーベント家に送り込まれた。すべて、諜報部の調査で判明しています」
ヘルマンが確固たる声で語りかけた。
「読書記録から申し上げます。エリーゼ嬢は無教養ではありません。十年で千三百四十冊を購入し、王妃として必要な教養を身につけていました。追放される三ヶ月前、彼女は毒物学の本を複数購入しています。エリーゼ嬢は、自分が毒を盛られていることに気づいていたのです」
ロザリンデの目が見開かれた。もう逃げ場はない。
オズワルドは明確に告発した。
「ロザリンデ・フォン・エーデルシュタイン。あなたはノルトガルド公国の工作員として、エリーゼ嬢に毒を盛り、濡れ衣を着せ、追放に追い込んだ。その目的は、アーベント公爵家の力を削ぎ、可能であれば自らが王太子妃となり、王国中枢に食い込むこと。これは国家反逆罪です」
ロザリンデは必死に首を振った。
「証拠だけで、わたくしがやったという証明には――」
フリーダが別の資料を取り出した。
「あなたの私室からは、他にもこのような物が見つかりました」
暗号化された手紙の束だった。
「ノルトガルド公国の諜報組織との連絡記録です。解読済みです。エリーゼお嬢様の体調、婚約破棄の進捗、王太子への接近状況――すべてが報告されています」
ロザリンデの膝が震えた。もう言い逃れはできない。物的証拠、暗号記録、諜報部の調査――すべてが彼女を指し示していた。
国王の声が響く。
「ロザリンデ・フォン・エーデルシュタイン。これ以上の抗弁がないのであれば、衛兵」
二人の衛兵がロザリンデに近づくと、ロザリンデの表情が変わった。諦念と奇妙な解放感が浮かんでいる。
それは、訓練された工作員の冷静さだった。
「……分かりました。すべて、わたくしがやりました。わたくしはノルトガルド公国の工作員として訓練を受け、十歳の時にアーベント家に送り込まれました。任務は、エリーゼ・フォン・アーベントの排除。可能であれば、王太子妃の座を得ること」
会議室がざわめく。ロザリンデは虚ろな目で続けた。
「わたくしは十二年間、毎日少しずつ毒を盛り続けました。彼女の評判を落とし、王太子殿下には献身的に接近し、すべて、すべて計画通りでした。ただ一つ、エリーゼが毒に気づいていたことを除いては」
もはや涙もなかった。ただ、冷徹な工作員の顔があるだけだった。
国王が立ち上がった。
「ロザリンデ・フォン・エーデルシュタインを国家反逆罪で投獄せよ。エーデルシュタイン伯爵家についても徹底的に調査を行う」
衛兵たちがロザリンデを連行していく。彼女は最後まで、感情を見せなかった。
オズワルドが国王に向き直った。
「陛下。もう一つ、申し上げなければならないことがあります」
国王の表情が強張った。
「エリーゼ嬢の追放は、十分な調査なしに決定されました。王太子殿下の告発を受けて、陛下は評議会での審議を経て追放を承認された。しかし、なぜ医学的証拠が無視されたのか。なぜロザリンデの証言だけが採用されたのか。なぜ侍女頭であるフリーダ・ミュラーの証言が求められなかったのか」
玉座の間が静まり返った。オズワルドはそれを無視して続ける。
「公爵令嬢を国外追放するという重大な決定を、これほど安易に下してよかったのでしょうか。王家の責任は、どこにあるのでしょうか」
国王の顔が青ざめたところで、王太子フェルディナントが進み出た。
「その通りです。私は……私は、ロザリンデの言葉だけを信じた。エリーゼの真実を見ようともしなかった。オズワルド院長の診断書があったにもかかわらず、私は彼女を詐病師と断じた。すべて、私の責任です」
深く頭を下げた。
「父上。私の告発を受けて、十分な調査もせずに追放を承認したのは、王家の過ちです」
国王の老いた顔には、深い後悔が刻まれていた。
「その通りだ。私は、息子の言葉を信じすぎた。公爵令嬢の追放という重大な決定を、十分な調査なしに下してしまった。これは、統治者として許されない過ちだ」
国王は玉座から降り、オズワルドたち五人の前に立った。
「オズワルド・フォン・シュタイナー、マティルダ・ヴェーバー、フリーダ・ミュラー、レオポルド・ハルトマン、ヘルマン・ブラウン。あなた方は、権力に阿ることなく真実を明らかにした。私は王として深く感謝すると共に、深く恥じる」
深々と頭を下げた。国王が頭を下げるという前代未聞の光景に、玉座の間が凍りついた。
「エリーゼ・フォン・アーベント嬢の即座の帰国を命じる。名誉を回復し、相応の賠償を行う。グラウシュタイン公国へ、ただちに使者を派遣せよ」
国王は王太子に向き直った。
「フェルディナント。お前の判断は軽率だった。今後このような過ちを繰り返さぬため、お前には三ヶ月間の公務停止を命じる。その間、自らの行いを深く省みよ」
フェルディナントは膝をつく。
「謹んでお受けいたします」
国王が評議会に向き直った。
「評議会諸君。今回の件を教訓とし、今後は重大な決定を下す際、必ず複数の専門家の意見を求めることを制度化する。権力の暴走を防ぐため、専門家による独立調査委員会を常設する」
オズワルドが頷く。これで、少しは未来が変わるかもしれない。
*
フリーダは白亜宮殿の門の前に立っていた。隣には、オズワルド、マティルダ、レオポルド、ヘルマンがいる。遠くから、馬車の音が聞こえてきた。胸が高鳴る。一ヶ月ぶりに、お嬢様に会える。
馬車が門の前で止まり、扉が開く。金髪の若い女性が降りてきた。エリーゼお嬢様だ。痩せており顔色も良くないが、青い瞳には確かな光が宿っていた。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
フリーダは涙を浮かべて駆け寄ると、エリーゼがぎこちなく微笑む。
「ただいま、フリーダ」
彼女は、五人に向き直った。
「皆様……ありがとうございます」
深く深く、頭を下げた。
「皆様がいなければ、私は――」
「いえ、あなたは戦っていた。私たちは、ただ真実を明らかにしただけです」
「魔法科学は嘘をつかない。真実は必ず明らかになります」
「数字が、あなたの無実を証明しました」
「千三百四十冊の本が、あなたの知性と強さを示していました」
エリーゼは、もう一度深く頭を下げた。そして、まっすぐに顔を上げる。
「これから、私にできることを探します。毒を盛られた人たちを助けたい。同じ苦しみを味わう人を、一人でも減らしたい。そして――」
エリーゼは王宮の方へ目をやる。
「フェルディナント殿下の謝罪は受け入れます。しかし、婚約を元に戻すつもりはありません。私には、私の道があります」
オズワルドが温かく微笑む。
「その時は、私たちも協力します」
五人の専門家と、一人の令嬢。真実を求めて集まった彼らは、今や固い絆で結ばれていた。門の向こうから、ゲオルク公爵が駆けてきた。
「エリーゼ!」
「お父様」
父と娘が、固く抱き合った。公爵の頬を涙が伝っている。フリーダも涙が止まらなかった。
「すまない。お前を守れなくて――」
「いいえ。私は大丈夫です。もう、大丈夫ですから」
空は晴れ渡り、暖かな日差しが降り注いでいる。冬は終わり、春が訪れようとしていた。
*
エリーゼは診療所の一室で、五人と茶会を開いていた。アルテンブルクの一角に開設した「エリーゼ医療支援センター」――毒物被害者の治療と予防啓発を目的とした施設だ。顔色は良くなり、毒の影響はほとんど消えていた。
オズワルドが報告を始めた。
「おかげさまで順調です。今月だけで、三十人の患者を診察しました。うち五人が、毒物による症状でした。早期発見できて良かった」
マティルダが頷く。
「毒物検出技術も、さらに向上させています」
「お嬢様、患者さんたちからお手紙が届いております」
フリーダが嬉しそうに手紙の束を取り出した。
「ありがとう、フリーダ」
レオポルドが資料を広げた。
「財政状態も健全です。寄付も順調に集まっています」
ヘルマンが本を取り出す。
「新しい医学書です。参考になるかと」
「ありがとうございます、ヘルマンさん」
幸せだと思った。かつては孤独だった。毒を盛られ、濡れ衣を着せられ、追放された。しかし、真実を求める五人の専門家が現れた。彼らは証拠で真実を明らかにし、彼女を救った。そして今、六人は共に新しい道を歩み始めた。
窓の外では、春の花々が咲き誇っていた。暖かな日差しが、部屋を満たしている。エリーゼが微笑む。これからも、戦い続ける。同じ苦しみを味わう人を、一人でも救うために。
(了)
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