ビー玉と海の匂い
八月の海辺は、まるで空と水がけんかしているみたいだった。
蝉の声が重なって、波の音がそれをぬぐっていく。
空はじりじりと照りつけて、目を細めてもまぶしいばかりだった。
公園のすべり台も、鉄棒も、熱くて触れないほどに焼けていた。
それでも、あの子はブランコに座っていた。
白いワンピースに麦わら帽子。長い髪が風で揺れて、ブランコの影が地面に伸びていた。
じっと空を見上げて、まばたきもせずに。
僕──カズキは、少し離れたジャングルジムの影にいた。
声をかけるかどうか迷って、何もしないまま時間だけが過ぎた。
友達はみんな塾や習い事で、僕だけがこの町に置いてけぼりだった。
その子はふいに、こちらを見た。
「ねえ、ビー玉持ってる?」
それが最初の言葉だった。
僕はびっくりして、一歩後ろに下がってしまった。
「……え?」
「ビー玉。ランドセルに入ってる?」
たしかに入っていた。筆箱の奥に転がったまま忘れていた、青いビー玉。
僕はそれを取り出して、手のひらに乗せて見せた。
「うん。やっぱり、海の底の色みたい」
そう言って、その子──ナツミと名乗った女の子は、少しだけ笑った。
笑ったけど、なんだか悲しそうな笑い方だった。
それから、僕たちは遊ぶようになった。
すべり台、鬼ごっこ、かくれんぼ。
ときどき虫取り、葉っぱ流し、空を眺めて雲の形を動物にたとえる。
ナツミは、変なことばかり言う子だった。
「この公園、海にくっついてるみたいだよね」
「波の音、ここまで聞こえてくる」
「雲はね、空のカケラなんだって。バラバラになって、さみしがって、また集まるの」
そんなこと、誰から聞いたのかと聞いても、ナツミは笑って首を振るだけだった。
僕はだんだん、ナツミといる時間が好きになっていった。
この夏は、ひとりじゃなくなった気がして、うれしかった。
けれど、一週間くらいたったころから、ナツミは静かになった。
遊びの途中でも、空をじっと見ていることが増えた。
ブランコに座って、何も言わないまま風に揺れていた。
「ナツミ、どうしたの?」
「カズキは……夏が終わるの、こわい?」
少し考えて、僕はうなずいた。
「うん。すごく楽しいのに、いきなり終わるのって、いやだ」
ナツミは「そっか」と言って、ビー玉を見つめていた。
「夏ってね、終わると、ぜんぶ消えちゃうみたいな気がするの。
思い出も、声も、風も。……だから、ちょっとさみしい」
僕は何も言えなかった。
波の音が遠くで鳴っていた。
その日の帰りぎわ、ナツミはぽつりとつぶやいた。
「明日で、最後にするね」
「……え?」
「夏も、遊びも、私も」
何か言い返そうとしたけど、言葉がのどにつかえて出てこなかった。
次の日、僕はランドセルの中にビー玉を二つ入れていった。
僕の青いやつと、昨日こっそり買った赤いやつ。
おそろいにしたくて。ふたりで分け合いたくて。
でも、ナツミは来なかった。
朝から待って、昼になっても、夕方になっても。
ブランコはずっと空のままだった。
帰るころ、ポケットの中でビー玉がこつんと鳴った。
指を入れてみると、知らないビー玉がひとつ増えていた。
小さくて、透明で、涙みたいなビー玉。
空の光を閉じ込めたような、やさしい色をしていた。
誰が入れたのかは、わからない。
でも、たしかにそこにあった。
僕はそのビー玉を握って、家へ帰った。
そして夏は、終わった。
波の音は、秋風にまぎれて聞こえなくなった。
ナツミも、名前だけが遠くなった。
だけど、ビー玉はまだ、机の引き出しの奥で光っていた。
風の音がふと、あのときの声に似ていたりすると、僕はそっと引き出しを開けて、そのビー玉を見た。
何かがあった気がする。たしかに大切なことがあった。だけど、思い出せない。
──そんな、夏の話だった。
忘れたままの、でも忘れられない夏だった。
あるかないか分からないもの、ただあった方が幸せかもしれないもの。
そんなものを運命と呼んで信じてます。