第4話 登場人物の増えた日常が始まる
たとえ世界が変わったとしても、マーセリットの体内時計は正確に、時を刻んでいたらしい。
「ん……」
夜が明ける少し前に覚醒し、横になっていたソファの上から降りたマーセリットは、就寝前に健一から受け取っていた毛布を背もたれに掛けた。
「えっと、早く着替えて……今日は領地運営の勉強、を……」
もう、勉強する理由はない。
自分はもう、王族の婚約者ではないのだと気づいた元公爵令嬢は、これから何をすればいいのかが分からず、ただ茫然としてしまった。
「私、は…………ぁ」
起床した時点で、元々日の出は近かった。
目的の思いつかない考えごとをしている間に、一日の始まりを告げる陽光が、室内に差し込んでくる。無意識ながらも、マーセリットは立ち上がって、ベランダの方へと歩き出す。見た目で扱いが分かるカーテンだけを開け、ガラス戸越しに異世界の景色を見た。
「綺麗……」
元居た世界とは、明らかに違う建造物群を目の当たりにしたマーセリット。夜明けの色彩も相まってだろうか、その未知の景色に、思わず見惚れてしまう。
「……もう起きてたのか」
「ぁっ、……お、おはようございます」
「はい、おはよう」
ガラス張りの引き戸を開ける方法が分からなかったのか、クレセント錠が掛けられたまま、カーテンを開けているマーセリットが振り返ってくる。挨拶を返した後、健一はキッチンへと入り、なるべく、コンヴォーカ王国にもあった飲食物を見繕おうとする。
「先に朝食にしよう。話はそれからだ」
「分かり、ました……」
カウンター越しにマーセリットを見て、健一は一度手を止めると、ベランダへと向かった。
「待ってる間、外の空気でも吸ってるか?」
「え……」
自分が異世界に渡った経験もある上に、異世界人を受け入れるのはこれで二人目だ。何より、人にものを教えることには慣れている。
だから健一は、先にマーセリットの選択肢を増やすことにした。
クレセント錠を外し、カーテンの開けられたガラス戸をずらしてから、外に置いてあるサンダルを指差した。
「ベランダに出るなら、そのサンダルを使ってくれ。一応鳥避けのネットはあるけど、危ないからあまり身を乗り出すなよ」
最低限の注意で十分かどうかは、相手の人となりを見れば何となく察せる。健一はマーセリットに背を向け、再びキッチンへと戻っていった。
足音だけで、マーセリットが外へ出ていくのが分かる。しかし健一は気にせず、落ち着いて外を眺めているのを聴覚だけで把握しながら、朝食の準備を続けた。
(史織……いや、シルヴィアの時は、あいつより面倒だったな)
かつて、史織と名乗る前のシルヴィアは、この世界に来てすぐはその好奇心から、トラブルを起こしてばかりだった。魔族であった為に、異世界どころか人間社会の常識すら知らなかったので、一から必要なことを教えるのに苦労したのをつい、思い出してしまう。
(それが今じゃ、立派なフリーターだもんな……)
今でこそパートタイムだが、もし健一に何かあったとしても、自分の意思で雇用条件や勤務先を変えられる。転職という選択肢を持てるようになった時点で、史織はもう一人で、たくましく生きていけるだろう。
そう確信できることにどこか、感慨深いものがあった。
(それにしても……また、人に何かを教えるのか)
環境も、人間関係も、いつまでも同じとは限らない。それは昨日、異世界へと再び喚び出されたことで、否が応でも思い知らされた。
(それに……また、身体に魔力が宿ることになるとはな)
自分の魔力の形、ゲーム等でよくある属性のようなものが『鎖』だったことには驚いたが、何故か健一にはしっくりときていた。静かに、少しだけ形をイメージし、指に巻き付くイメージを抱いて顕現させる。
(結構……覚えているもんだな)
指から掌、手首から肘、そして肩へと鎖を伸ばし、自身へと巻き付けていく。
(地球でも使えれば、とは思っていたけど……やっぱり、魔力の補充はできないか)
健一や史織、そして今はマーセリットがそれぞれの世界で呼吸できている時点で、空気成分にあまり差がないことは理解できる。唯一、大きな違いがあるとすれば……魔力の素が大気に含まれているかどうか、だろうか。
(最悪、あの転移の魔導具から魔力を抽出できればいいが……いや、郷に入っては郷に従え、だな)
そもそも、王族ですら新旧問わず、召喚の仕組み自体を理解していなかった節がある。
言語の習得プロセスとして、聞いて話すことは最初の方に当たる。その為に、当時は文字の読み書きについて、独学で覚えるしかなかった。けれども……本来であれば、言葉が理解できること自体おかしな話だった。
(最初は翻訳魔法か何かだと思っていたんだが……まさか、『強制学習』という認識の方が正しかったとはな)
でなければ、史織がこの世界の言語を理解することに難儀し、今でも常識を覚えるのに苦労していたはずだ。
何せ地球には、魔力の素自体がない。もし召喚時に、自動的にかけられる翻訳魔法の類であれば、『地球』に来た時点で使えなくなっていた可能性の方が高かった。
だが、翻訳魔法と強制学習の違いについてもだが、召喚魔法の理屈が分からない以上、メリットやデメリットを突き詰めても意味はない。
とはいえ……史織に関してだけは、むしろ良かったのかもしれない。
言語もそうだが、魔族に関しては健一も、たしかなことは今でも、何も言えないのだから。
(もし魔族が、魔力の素を必要とする生物だったら死んでたってのに……あいつもよく、俺についてきたもんだよ)
そして今度は、マーセリットという新たな異世界人が、健一の生活に入り込んできたわけだが……
(……魔力の素自体は、生物へ干渉する意思を持っていない)
異世界での出来事を小説にする際、地球の視点から、コンヴォーカ王国について調べたことがある。
かつての職業柄、調べごとは得意な方だった。小説の設定を組み上げつつ、喚ばれた世界についての事柄を纏めていく中で、幾つかの結論に至った。
その内の一つに……『魔力の素』はあくまで、意思を持たない元素のような存在であることが分かっている。
(異世界転移を可能にする手段は、自然に生まれたものじゃない。誰かが……何かしらの目的を持って、作り上げたものだ)
それが、神等と呼ばれる存在なのか、あるいは、かつて存在した天才の類が作り上げたものなのか。いずれにせよ、コンヴォーカ王国とは関係していない、何らかの意思が生み出したと考えて、まず間違いないだろう。少なくとも健一は、そう結論付けていた。
科学施設への伝手でもあれば、今は史織に持たせている転移の魔導具について、解析することができたかもしれない。だが、いくら魔力の素がなくとも、地球にとってはオーバーテクノロジーでできたガラクタだ。異世界製でも同種の鉱物である宝石等とは違い、存在が露呈してしまえば、何が起こるか予想がつかない。
そう判断したからこそ、これまでずっと、史織に預けたままにしていたのだ。
(使われていた文字はともかく……言語自体は、ルーマニアのものに近かった。機会があれば行こうとも考えていたけど……まさか先に、異世界転移を繰り返す羽目になるとはなぁ)
少し、考え込み過ぎてしまったと健一は、腕に纏わせていた鎖を魔力の素に再生成してから、身体の中へと戻した。
(……新作を考えるついでに、また調べてみるか)
調べること自体は得意であり、新しいことを知るのは嫌いではない。それに今は、当面の生活費もできた。まだ、焦る必要はないのだ。
何せ……地球上で実際に関わっている人物は、判明している限り健一達、当事者だけなのだから。
「朝食ができたぞ。先に席に着いててくれ」
マーセリットの返事を待つことなく、健一は史織の自室へと向かった。今話しかけた言語も、強制学習されたコンヴォーカ王国の言葉である。ただ、健一が今、日本語を話しても自覚しないまま理解できるだろうことは、史織の例を考えれば、容易に想像がついた。
(混乱を抑える為にも、まずはゆっくり教えていった方が良いだろうな……)
おそらくだが、テレビから流れてくる日本語も理解できるはずだ。
テレビをはじめとした地球の科学技術に関しては追々教えるにしても、今は彼女の理解度を把握した方が良い。
けれども、今は先にやるべきことがある。
「起きろ史織、朝だぞ!」
「…………ふぁ?」
これが本当に『魔王』だった存在かと、勝手に入った史織の部屋の扉に腕を組んでもたれかかりながら、健一はベッドの上で間の抜けた表情を垂れ流している彼女を見下ろした。
「さっさと着替えろ。朝飯にするぞ」
「ぅ、ん……」
未だに趣味が少ない為か、ミニマリストと呼んでも差し支えない程に殺風景な部屋の中で、史織が徐々に意識を覚醒させていくのを、健一は静かに待った。