第11話 『影の女王』、降臨
『地球』から召喚され、この世界で暮らすようになって一年が経過した頃だろうか。その時にはもう、ランツが殺した生物の中で、一番の割合を人間が占めるようになっていた。
無論、人間がそれ以上に強大な力を持つ魔物相手に、簡単に勝てないという理由もある。けれども……結局の原因は、世界を跨いでも共通する『愚かしさ』だった。
『異世界でも、人間の方が悪意に満ちているのは変わらないんだな……』
野生の動物ですら、彼等なりのルールや矜持があるので、無暗に狩りをすることはない。欲望に任せて無駄に手を汚そうとするのは、それこそ人間だけだった。それは世界を渡り、魔力を持つ獣こと魔物が生活圏に混じってきたとしても、変わりはないらしい。
夜空を眺めながら、集めた枝を焚き火へと放り込んでいく。村で買った干し肉を適当に炙ってから、調理用の短剣で一口大に千切りつつ、口に入れた。
最初の内は虚しい意趣返しとして、聖剣『エスファンダ』の刀身を用いて削っていたが……一度人間を切ってからは、それも止めてしまった。
『……で、何か用か?』
ランツが振り返った先には、一匹の魔物がいた。
いや、魔物というにはあまりにも……人型に近い姿をしていた。
二足歩行で歩き、人間が纏う物と同じ外套を羽織っているそれはゆっくりと、ランツの傍へと歩み寄ってくる。近づくにつれ、焚火の灯りに照らされることでようやく、相手が黒髪の女性に近い顔つきをしていることが分かった。もしかすると、魔物の性別もまた、人間と同じなのかもしれない。
『ァ……、ェ……?』
『言葉が話せないのか? いや……』
(この世界に来た時、強制的にここの言語を覚えさせられた。それなのに通じない、ってことは……言語体系自体がないのか?)
魔物同士が唸り声等で、簡単な意思疎通を行っていた場面は、何度か見たことがある。
少なくとも、群れを成す程度の知能を持ち合わせていると考えてはいたが……目の前に現れた魔物を見る限り、それ以上に進化している可能性がでてきた。
『……まあ、いっか』
けれども、今のランツには些末なことだとばかりに、それぞれの手に持っていた短剣と干し肉を寄って来た魔物へと、掲げて見せた。
『飯と争い、どっちがいい?』
『…………』
魔物もまた、野生に生きている動物との違いはない。ただ、空気中に含まれる魔力の素を吸収する仕組みがあるかどうか、だけだった。
……少なくとも、ランツがこれまで遭遇してきた魔物達に限ればの話だが。
だからもし、野生以上の知能があれば、どちらかを選ぶかもしれない。そう考えて、試しに掲げてみせたのだが……目の前の魔物は、ランツの差し出した干し肉でも短剣でもない、第三の選択肢を選んできた。
『やっぱり魔物か……』
しかしランツは気にすることなく、静かに両手を降ろした。
『よく噛み切れるな……お前』
……まだ火で炙るどころか、短剣で切り分けてすらいない干し肉の塊という、ある意味両方とも取れる選択肢が選ばれてしまった。
『それ、俺の三日分の食糧な上に……』
一度、眼前の魔物から視線を外したランツは、その先にある廃墟と化した農村、に扮した追い剥ぎの集落の方を向いた。
『……唯一残ってた、まともな食い物だったんだけどな』
元は農村だったのだろうが、飢饉等をきっかけにして盗賊に身をやつすのはよくある話だ。立ち直ろうがそうでなかろうが、少なくともランツを敵に回して返り討ちに遭うこともまた、彼等の選んだ結末である。いまさらどうこう言おうとも、何の意味も持たない。
(にしても……言語、か)
いきなり異世界に飛ばされて、『魔物達の領土に踏み入って、資源を強奪して来い』という旨の命を受けた時は別の意味で、言葉が通じていないと思ったものだが……むしろ魔物の方が、逆に話が通じるのではないか?
そう考えたランツは、未だに干し肉の塊に齧りついている魔物に視線を戻し、こう問いかけた。
『お前……しばらく、俺についてくるか?』
『…………?』
咀嚼を一度止めた魔物は、こちらに向けて首を傾げてくる。その様子を見て改めて、ランツは意思疎通の可能性があることを悟った。
『まあ、何にせよ……』
未だに剥き身となっていた短剣を鞘に仕舞い、代わりにコンヴォーカ王国より賜った聖剣『エスファンダ』を抱えたランツは、そのまま横になった。
『……干し肉の塊食ったんだから、俺にまで噛みついてくるなよ?』
一年程の異世界生活の中で、ランツは寝ながらでも、危険を察知して起き上がれる技能を習得していた。そんな悲しい習慣は身につけたくなかったと内心溜息を吐きつつ、焚き火を背にして眠りに就く。
そして、幸か不幸か……干し肉を食べ終えた魔物は、ランツに対して指一本触れることはなかった。
「……この本の『ランツ』というお方が、私達の世界に呼ばれた健一さっ、……いえ、健一さんなのですか?」
「当時は最初、別の名を名乗っておったがの。物語にする際、『本名を隠す為』という理由を悪用して、考えるのを放棄しよったのじゃ……今考えても、『鎖』以上に恥ずかしい名前じゃったしの」
ただ自宅内に座して待つのも退屈だろうと考え、史織は昔話代わりにとマーセリットに、健一が書いた小説を差し出した。
時代が違うとはいえ同じ世界の話だから理解しやすく、かつ表現の仕方が分かりやすいのが良かったのだろう。健一が出かけてからずっと、マーセリットはその小説のシリーズを読み漁っていた。
いくら転移時に『強制学習』が行われたとはいえ、文字を『読める』と『理解する』とでは、意味が違ってくる。この辺りはやはり、マーセリット自身の能力の高さが窺えた。
「今はまだしも、当時のあやつのネーミングセンスは最悪じゃったからのぉ。下手に凝った名前をつけるよりは、シンプルな方が分かりやすかろうて」
「たしかに……いざ考えてみると、名前って難しいですよね」
マーセリットの言に史織も、同意する他なかった。実際、自身が決めた名前等一つもないのだ。その意味では、健一には何も言えないだろう。
「とはいえ……大事なのは、『自分として呼ばれた』と判断できるか、じゃろうがな。名前等、その要因の一つに過ぎん」
「もし、そうだとしても……名前は、大切ですよ。気づかない内に蔑称で呼ばれてしまうのは、何よりもの屈辱ですから」
そう呟くマーセリットに史織は応えず、腰掛けていたソファへと静かに寝転がった。
(名前、か……)
蔑称、という概念は頭で理解していても、それを自覚できるまでに成長したのは、健一と出会って大分経った後の話だ。理性を得て進化する途中だったとはいえ、史織自身何と呼ばれていても、気にしなかっただろう。
むしろ、彼女の言う通りに、蔑称だと気づかないまま呼ばれていた可能性も……
「……マーセリット」
「どうかしましたか? 史織さ、……史織さん」
「いいかげん、『様』から『さん』呼びにするのに慣らさぬか。むしろ、呼び捨てでも構わぬと言うのに……まあ、良い」
そう言葉を切り、ソファから立ち上がった史織はマーセリットの眼も気にせず、服を脱ぎ捨てていく。
「用事ができた。すまぬが、少し留守番しておいてくれ」
「え、…………きゃっ!?」
足元に広がるのは、魔力光により浮かび上がる魔法陣。また世界を転移させられるのかと身構えているマーセリットとは異なり、史織は気にせずに中央へと進んでいく。
歩きながら自身の身を覆い尽くす、漆黒のドレスを纏いながら。
人や物を『転移』させる理屈は未だに理解できていないが、『召喚』であれば行使できる。二つの違いは何もない空間に対して、指標があるかどうかだ。
たとえ、何の目印もない砂漠の上だとしても、人里との繋がりさえ見つけられれば遭難せず、帰還が可能となる。『召喚』はその手順を逆にしたものだと理解すれば、習得はさほど難しくなかった。
そして、健一の持つ『鎖』の属性は、その『召喚』を行うには非常に都合が良かった。
鎖とは環状の部品、つまり輪っかを繋ぎ合わせ、一本の紐として構成したものだ。つまり、点と点を繋げる線としてイメージしやすい属性の為、『召喚』魔法へと昇華させることができた。
「貴様……何をする気じゃ?」
「一人、大事なゲストを忘れてるぞ、爺さん……喚び出す呪文だけは、今でもイラつくけどな」
鎖が用いられる理由として、柔軟性があり、素材によっては腐食に強く、ほつれ防止にも繋がることが挙げられる。人と人を点とし、それらを繋げる『絆』としてもたとえられる程だ。
だからこそ、その繋がりを辿り……その先にいる人物を喚び出せる『召喚』魔法として、成立する。その段階でようやく、健一が行おうとしていることを、老科学者は察したらしい。
「きさっ!?」
「『鎖喚招来』っ!」
使用に際して、距離に応じて膨大な魔力の素を消費する。その上、異世界間でのやりとりができるとは限らない。こればかりは賭けでしかないが……健一は、成功を確信していた。
何故なら、異世界を渡った今でも……彼女との繋がりは、途切れていないのだから。
光源が縮小し、周囲からほぼ全ての魔力の素を霧散させたその空間に居たのは、箕田史織という一人の人物。
「紹介するよ。爺さん…………こちらが、『影の女王』陛下様だ」
いや……『魔王』にして『影の女王』、シルヴィア・ウンブラ・ディアヴォルが、静かに佇んでいた。