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みくのトラム

作者: 兆 晶

 ここは辛島神社(からしまじんじゃ)。熊本市の街中(まちなか)にある古い神社だ。

 私が拝殿(はいでん)の軒先に吊られている鈴を鳴らすと、カランカランと澄んだ音色が辺りに響き渡った。周囲には人影は見えず、早朝の爽やかな大気が満ちていた。

 私は拝殿の奥に向かって手を合わせた。

−−今日から、ちゃんとやれますように−−

 境内(けいだい)を吹き渡るそよ風が、肩まで伸びた私の茶髪を(なび)かせていた。

 おもむろに合掌を解いて振り返ると、真夏の朝日が眩ゆいばかりの陽射しを降り注いでいた。思わず額に手をかざしながら、私は目を細めた。

「これっ、みく!何をやっておる!」

 突然、背中に浴びせられた野太い声に、私は肩をすくめた。

「じっ、じいちゃん!」

 じいちゃんは辛島神社の宮司(ぐうじ)だ。代々神職を務める辛島家の第七十代目の当主でもある。

 じいちゃんは白い着物に紫色のはかまという作務(さむ)の格好をしていた。足先は足袋(たび)に包み、雪駄(せった)を履いて、手には竹箒(たけぼうき)を持っている。白髪が朝日に照らされて、銀色に輝いていた。

 じいちゃんは、私が幼い頃から、祝詞(のりと)の上げ方などを教えてくれた。〈お前には特別な才能がある〉と言ってくれることもあった。

「お前は辛島家の総本家の血筋じゃ。今から社殿(しゃでん)の掃除をするから手伝え」

「そういう訳にはいかないのよ、今日は」

 眉根を寄せながら、じいちゃんは小首を傾げた。

「この前、話したでしょう。市電(しでん)のトラムガイドに受かったって。今日から研修なの」

「うーむ、お前が市電の車掌(しゃしょう)か……」

 じいちゃんは腕組みをしながら、私の瞳を覗き込んだ。市電とは熊本の街中を走る路面電車のことだ。熊本市が運営しているので、市電と呼ばれている。

「なんなの?」

 じいちゃんは竹箒を地面に置くと、着物の(ふところ)から白い布を取り出した。

「これを持っておれ。八神(はっしん)の導きがあるじゃろう」

 その白い布は細長い帯で、ちょうどマフラーほどの長さだった。その表面には七色の絹糸で、虹色の八角形の紋様が描かれていた。

「ハッシン?なにそれ?」

「八つの神じゃ。この布は比礼(ひれ)と言うてな、神宝の一つじゃ。神霊に通じ、邪気(じゃき)(はら)う力が込められておる」

「ふーん」

 私は首を傾げた。

「さあ、こうして使うんじゃ」

 じいちゃんは、私の両肩にその布をかけると、左右均等になるように胸の前に垂らした。

「この上から車掌の制服を着るとよい。分かったか」

「えーっ……まあ、いいけど……』

 じいちゃんのお節介はいつものことだ。私は渋々頷いた。

「決して忘れるでないぞ。困った時はの、八神招来(はっしんしょうらい)、と祈るがよい。必ずや八神が手助けしてくれるじゃろう」

「はい、はい。分かりました」

「それから八神とはな、八つの柱で、まずはタカミムスビノカミ、それからな……」

 私は、「もういいから。ありがとね。わたし、これから研修だから」と、じいちゃんの口上を遮ると、その場から小走りで立ち去った。


 研修が始まって一週間が経ち、トラムガイドとして初乗車の日を迎えた。

 始発からの勤務シフトだったので、私は早起きして営業所に向かった。夜明け前の街は静かで、自転車のペダルを踏み込む度に、私の茶髪のツインテールが揺れていた。

 ちょうど五時に営業所に到着した。始発は五時五十分が発車時刻だった。

 私は更衣室に駆け込むと、急いで普段着を脱いだ。

 それから、じいちゃんから貰った比礼(ひれ)を両肩に回して前に垂らした。万が一にも落ちるといけないので、両端を摘んで胸元で蝶結びにした。

 その上から白いワイシャツに袖を通し、濃紺のツーピースの上着とスカートを着た。最後に薄紫のスカーフをネクタイのように首に巻いて、濃紺の制帽を被った。これがトラムガイドの制服だ。姿見用の鏡で自分の姿を映すと、まるで別人に見えた。

−−かっこいいじゃん!−−

 それから更衣室を後にすると、点呼を済ませて路面電車に乗り込んだ。

 トラムガイドが乗車するのは二両連結車両で、乗降口が前方車両と後方車両の二箇所ある。前方車両では運転手が料金を収受し、後方車両を担当するのがトラムガイドだ。

 今日の始発の運転手は馬野(うまの)さんだった。四十半ばのベテランの運転手だ。新米のトラムガイドの私にとっては、とても心強かった。

「辛島さん、大丈夫かい?緊張しなくていいからリラックスして研修通りにやればいいよ」

馬野さんは優しげな微笑みを浮かべた。

「ありがとうございます。頑張ります」

 私はペコリと頭を下げた。茶髪のツインテールが軽やかに揺れた。

「じゃあ、十分後に発車だから、機械の点検をしておいて」

「はい!」

 私は声を張り上げた。馬野さんは、満足そうに頷くと、前方車両の運転席に向かった。

 私は後方車両の乗降口に駆け寄った。最近は現金払いは少なく、ICカードで乗り降りする客がほとんどだ。だからカードの読み取り機の動作確認は欠かせない。

 動作テスト用のカードをかざすと、読み取り機がピッと甲高い電子音を鳴らした。

−−よし、オッケーだ!−−

私は、帽子を取ってインカムを付けると、マイクをオンにして、「後方乗降口、機械の確認完了です」と、馬野さんに伝えた。

「了解!」

 インカムのスピーカーから馬野さんの返事が聞こえた。

 私は帽子を被り直すと、カード読み取り機の横に立った。ここがトラムガイドのポジションだ。

 始発の時間が近づくと、路面電車がゆっくりと動き始めた。

 路面電車は滑らかにスピードを上げ、車両基地を後にして始発電停に到着した。

 まだ夜明け前だったが、電停には既にお客さんが待っていた。一人は男子高校生、もう一人は会社勤めと(おぼ)しき若い女性だった。

 私は乗降口の横にある赤いボタンを押した。これがドアの開閉ボタンだ。

ドアが開き、二人とも後方車両に乗り込んできた。二人がICカードを読み取り機にかざすと、その度にピッという甲高い電子音が鳴った。それから男子高校生は乗降口近くの座席に、女性は後方奥の座席に腰を下ろした。

 五時五十分になった。

 トラムガイドは車内放送を担当する。私はゴクリと喉を鳴らしながら、口の中に溜まっていたツバを飲み込んだ。

「扉が閉まります」

 緊張のあまり、私の声はちょっと震えていた。

 続けて赤い開閉ボタンを押すと、スーッと滑るように乗降口の扉が閉まった。扉が閉まったことを確認して、赤いボタンの下にある黒いボタンを二回押すと、ビビッ、ビビッと、くぐもった電子音がした。こうやって車両先頭にいる運転手に扉が閉じたことを知らせるのだ。

「電車が動きます」

 再び私のアナウンスが車内に響いた。

 路面電車が走り始めた。始発の電停を出発して、スピードを上げていった。

 熊本市電は道路の中央にレールが敷かれている。だから路面電車の真横を自動車が並走することになる。まだ夜明け前で、ヘッドライトを点けた車が猛スピードで電車を追い抜いていった。

 路面電車は走り続け、途中の電停でお客さんを乗降させながら、終点の健軍町電停に到着した。

 ここからは折り返し運行となる。前方車両と後方車両が入れ替わるため、私と馬野さんはそれぞれ移動した。

 馬野さんはすれ違いざま、「辛島さん、今度はラッシュの時間帯になる。車内も混雑すると思うけど、よろしく頼むね」と、励ますように声をかけてくれた。

 今日は週初めの月曜で、折り返しの始発電停から、大勢のお客さんが乗り込んできた。車内の座席はすぐに埋まり、たちまち車内が混み合ってきた。

「この列車はB系統、上熊本(かみくまもと)駅方面へ参ります。入口付近には立ち止まらないで奥へお進み下さい」

 私がインカムで呼びかけると、お客さん達は慣れた様子で移動し、それぞれ吊り革や手摺りを握って立っていた。

「扉が閉まります」

 車内アナウンスをして、私は赤いボタンを押した。ドアが閉まるのを確認して、黒いボタンを二回押すと、路面電車が走り始めた。

 電停に停車する度に、次々とお客さんが乗り込んできた。

 その度に私は、「お立ちの方は吊り革か手啜りにおつかまりください」と、アナウンスをした。

 いつしか吊り革や手摺りも埋まってしまった。車内は隙間もないほど混み合い、空気まで(よど)んでいるようだった。

 お客さん達は一様に俯き加減で手元のスマホを覗き込んでいた。週初めで、みんなの表情は憂鬱そうで、瞳にも生気がない。

 そんな気怠(けだる)そうなお客さん達を目にしていると、いつしか私まで重苦しい気分に襲われた。初乗車のプレッシャーもあって、既に私はクタクタに疲れていた。

 思わず、フーッと大きなため息を吐いた。

 すると、私の間近に立っていた女子高生が、吊り革を掴んだまま、険のある眼差しで私のほうに目をやった。まるで〈こっちがため息を吐きたいぐらいよ〉と咎められているように感じた。

 その視線にハッと我に返ると、−−こんなことじゃいけない−−と、心の中で自分自身に言い聞かせた。

 その時、〈困った時はの、八神招来、と祈るがよい。必ずや八神が手助けしてくれるじゃろう〉という、じいちゃんのアドバイスが頭の中に(よみがえ)った。

 (すが)るような思いで、私は電車の天井を見上げながら、−−八神招来−−と心の中で呟いた。

 すると突然、天井を見上げている自分の視界の中にオレンジ色の(もや)が現れた。

−−いったいなに?−−

 私はその靄をじっと見つめていたが、お客さん達は何も気づかない様子だった。きっと私にだけ見えているのだろう。

 小首を傾げながら靄を凝視していると、路面電車がカープに差し掛かった。

 慌てて私は、「電車は右に曲がります。ご注意ください」と車内放送をした。

 路面電車が滑らかにカープを走り抜けていく。立っているお客さん達は吊り革や手摺りをギュッと握り締めていた。

 再び車内の天井を見上げると、依然としてオレンジ色の靄が漂っていた。

 すると次の瞬間、

『どうしたのですか、みく?』

 と、私の胸の内に聞き慣れない声が響いた。それは女性の声で、涼やかで透き通るような声音(こわね)だった。

−−誰なの?−−

 私は心の中で問いかけた。

『わらわはミツケノカミ。みく、あなたに呼ばれたのですよ』

 再び胸の内に涼やかな声が響いた。同時に頭の中に〈御食津神〉という文字が浮かんでいた。

−−ミケツノカミ?……私が呼んだ?−−

『そうですよ』

 どうやらじいちゃんが言っていたことは本当らしい。ミツケノカミと名乗る存在は、きっと八神の一柱(ひとはしら)に違いなかった。

 咄嗟に私は、−−車内の澱んだ気を(はら)ってください。お願いします−−と、心の中で(まく)し立てた。

『そういうことね。お任せあれ』

 間髪(かんはつ)を入れず、ミツケノカミが即答した。

 天井付近に漂っていたオレンジ色の靄が、瞬く間に車内全体に広がった。

『澱んだ気を祓い、皆さまの心を安らげるため、(かんば)しい香りを立てましょう』

 途端に爽やかな香りが車内に漂った。まるで柑橘(かんきつ)系の果物のような香りだった。ただ呼吸するだけで、体の芯まで浄化されるように感じた。

 近くにいた女子高生が、手元のスマホから視線を上げ、クンクンと軽く鼻を鳴らしていた。

「ねぇ、なんか、いい匂いしない?」

 その子は小声で隣の女子高生に話しかけた。

「私もそう思った!市電の新しいサービスかな?」

「分かんないけど。頭がスッキリする。眠気も覚めたし」

「そうそう。いい感じよね」

 ついさっきまでとは打って変わって、二人の表情は明るく溌剌(はつらつ)としていた。

 他のお客さん達も顔を上げて、深く息を吸い込んでいた。爽やかな香りを吸いこむ度に、みんなの顔に生気が戻っていく。

−−すごい!−−

 私は心の中で感嘆の声を上げた。

『この程度のことなら造作もないですよ。これからも何かあれば、また我々を呼ぶといいですから』

−−ミケツノカミ様、ほんとにありがとう−−

 次の電停が近づいていた。すぐさまインカムで、「まもなく水道町(すいどうちょう)電停(でんてい)です。お降りのお客さまはお手元にちょうどの運賃、またはICカードをご用意願います」と、早口で車内放送をした。

 電停に到着した。

 サラリーマンと思しきお客さんが、ICカードの読み取り機にカード入れをかざすと、ピッという電子音が響いた。

 私が、「お足元、ご注意ください」と、乗降口と電停の段差に注意を促した。すると、その男性は、「いい香りだった。ありがとう」と、柔らかな笑みを浮かべながら電車を降りていった。

 私の胸の内を、まるで爽やかなそよ風が吹き抜けるような感じがした。

 これもミケツノカミのおかげだ。

 私は心の中で、−−ありがとうございます。ミケツノカミ様−−と、お礼を言った。

『礼には及びません。おじいさまの深い敬神のお心が、我々とあなたを繋いでいるのですよ。おじいさまへ感謝をなさい』

−−はっ、はい−−

 その時、ビッビッという電子音が聞こえた。運転手の馬野さんからの、発車準備ができた、という合図だ。私は、「ドアが閉まります」とアナウンスをすると、赤いボタンを押してドアを閉めた。

「動きます」

 私のアナウンスと同時に路面電車が走り始めた。

 まだ車内には爽やかな香りが立ち込めていた。お客さん達の瞳は輝きを取り戻していた。

 電車はスムーズに走り続け、終点に到着した。そこで私は一旦電車を降りて、勤務を交代した。

それから往復の乗車勤務を数回こなして、昼過ぎに私のトラムガイドの初日は終わった。


 自宅への帰り道に、私は辛島神社に立ち寄った。

 拝殿でお(まい)りを済ませると、社務所(しゃむしょ)を訪ねた。じいちゃんは眼鏡をかけて、肘掛け椅子に座っていた。執務机の上に広げた冊子を覗き込んでいる。その眉間には深い皺が何本も刻まれていた。

「じいちゃん!」

 私が声をかけると、じいちゃんは顔を上げて眼鏡を外した。

「おう、みくじゃないか。こんな時間に珍しいのう」

 私は、じいちゃんの執務机に近寄った。

「今日がトラムガイドの初日だったの」

「ほう、どうだったか?」

「それがね、ラッシュの時にあんまり車内がどんよりとしてたから、じいちゃんの言ったとおりに八神招来って心の中で唱えたの。もちろん()()は着けてたわ」

「ふむふむ、それで」

「そしたらね、ミケツノカミ様が現れて、車内の邪気を祓ってくれたわ。いい香りを漂わせてね」

「なんと!本当か、それは?」

 じいちゃんは瞳を大きく見開いていた。

「ホントなのよ」

「うーむ」

 じいちゃんは腕組みをしながら眉根を寄せていた。鋭い眼光で宙空をじっと睨んでいる。

「いったいどうしたの?」

 私が尋ねると、じいちゃんが私の顔に視線を戻した。眉間の皺はまだ消えていなかった。

「みく、お前にはもともと神主の素質がある。(たぐ)(まれ)な才能と言ってもよい」

「あっ、ありがとう」

 じいちゃんの唐突な褒め言葉に、私は戸惑いを隠せなかった。

「じゃがな、そんなお前でも、そんなに簡単に八神を招来できるものではない」

「じゃあ、どうしてミツケノカミ様は現れてくれたの?」

「これを見てみい」

 じいちゃんは机の上に開いている冊子を指差した。

「なにそれ?」

 私は冊子を覗き込んだ。そこには古地図が描かれていた。ところどころに朱色で(しるし)が記されている。

「これはのう、この地を|(しず)める封印を記したものじゃ」

「この地って、ここ熊本のこと?」

「そうじゃ。この封印を護ることが我が辛島家、そして辛島神社の役割なんじゃ。じゃがな、この封印が崩れかかっておる」

「崩れかかっている?どういうこと?」

「かつて同じことがあった。熊本地震の時じゃ」

「ええっ!」

 驚きのあまり、思わず私は調子外れの声を上げていた。

「あの時は崩れかかった封印を直そうとした。じゃが元に戻す前に地震が起こってしもうた」

「そんなことが……」

「封印が揺らぐのは、この地に暮らす人々の想念が狂い始めている時なんじゃ。神仏を敬う心を失い、この世のことだけに執着する。そんな人間が増えれば増えるほど、封印は(もろ)くなる」

「そうだったの……」

 私は腕組みをしながら俯いた。

「この地に再び危機が近づいておる。そんな状態だからこそ、お前の祈りに八神が感応してくれたに違いない」

 私は俯いたまま、うーんと唸っていた。これはたいへんなことになった。

 しばらくの間、部屋の中に重苦しい沈黙が流れていた。

私は顔を上げると、「どうしたらいいの?」と、じいちゃんに問いかけた。

 すると、じいちゃんは眉間に皺を寄せたまま、「わしはできる限りのことはやるつもりじゃ」と、決意に満ちた口調で答えた。

「できる限りって?」

「封印の修復じゃ。間に合わんかもしれんが、やれるだけのことはやるつもりじゃ」

「そうなの……」

 じいちゃんはコックリと頷くと、机の上に暗い眼差しを落とした。私は、「何かできることはない、私に?」と、一歩前に足を踏み出した。

「お前には才能はあるものの、まだ封印を修復するまでの力量はない。それは仕方のないことじゃ」

 じいちゃんは諭すような口調で、私に語りかけた。

「分かったわ……」

 私はガックリと肩を落とした。

 じいちゃんは、「人々の心が神仏の方に向けばいいのじゃが……」と、独り言のように呟きながら天井を仰いだ。

 私は黙り込んだまま、そんなじいちゃんをじっと見つめていた。

 その日はなすすべもなく、ただ自宅に帰るしかなかった。


 次の日、トラムガイドの勤務は午後からだった。

 私は営業所で点呼を済ませ、路面電車に乗り込んだ。もちろん制服の下には比礼(ひれ)を蝶結びにして着用していた。

 市電は昼間でもお客さんはそこそこ乗っているが、ラッシュ時ほど混み合うことはなかった。

−−きっとじいちゃんは昨日から徹夜に違いない。今もあちこち回って封印を修復しているんだろうな−−

 トラムガイドをしながら、ふとそんな思いがよぎった。

 電停に路面電車が止まった。私は、「この電車はA系統、熊本駅田崎橋方面行きです」と、車外スピーカーでアナウンスをした。

 ドアを開けると、お客さん達が次々に乗り込んできた。

「ICカードをお持ちの方は読み取り機にタッチをお願いします。入口付近には立ち止まらず、奥へお詰めください」

 私のアナウンスに従って移動しながら、ハンカチで額の汗を拭っているお客さんもいた。夏真っ盛りで外はうだるような暑さでも、車内はエアコンが効いて快適だった。

「お立ちの方は吊り革か手摺りにおつかまりください。動きます。」

 再び電車が走り始めた。

 電車の窓から夏の太陽がキラキラと輝くような陽射しを降り注いでいた。お客さん達はみんな、手元のスマホを覗き込み、車窓を眺める人などいない。

−−人々が神仏を敬う心を失えば封印は脆くなり、遂には地震が起こってしまう。私にできることはないのかな……−−

 いつしか、そんな思いが私の心の内に湧き上がっていた。

−−八神招来−−

 祈るような気持ちで、私は心の中で呟いた。

 すると、『パン』という柏手(かしわで)の音とともに、車内のライトが一斉に消えた。突然、車内が暗転して、お客さん達がざわついた。

 私は焦ったが、すぐにライトが再び点灯し、車内に明るさが戻った。

 その時、『何事かな、みく?』と、私の胸の内に重厚なバリトンボイスが響いた。男性の声に違いなかった。

−−どなたですか?−−

 すると、『わしはコトシロヌシノカミ。八神の一柱じゃ』という低い声が胸の内に響いた。同時に〈事代主神〉という文字が頭に浮かんだ。

−−この地を鎮める封印が崩れかかっています。皆さんの心を神仏の方に向けることはできないでしょうか?−−

『ふむ、そういう願いか……』

 しばらくの間、コトシロヌシノカミは野太い声で、『うーむ』と唸っていた。

 私は固唾(かたず)()むようにしながら、じっと答えを待ち続けた。

 すると、『パンパン』という柏手の音とともに、車内のライトが二回明滅した。同時に、『承知した。八神で試みてみよう』という声が響いた。

 次の瞬間、二両連結車両のちょうど真ん中に光の玉が現れた。ドッチボールほどの大きさで、眩ゆいほどの白銀の輝きを放っていた。

「キャー」

 すぐそばに立っていた女子高生が悲鳴を上げた。途端に車内は騒然となり、パニック状態に陥った。

慌てて運転手さんが路面電車を停止させた。

 空中に浮かぶ光の玉から離れようと、みんな一斉に車両の両端に向かって駆け出した。

「皆さん、落ち着いてください!大丈夫ですから!」

 インカムをオンにして、私は必死に叫んでいた。

 突然、光の玉が虹色に変わった。そして七色の光を放ちながら、四方八方へ飛び散った。

 気づいた時には光の玉は跡形もなく消えていた。お客さん達は車内の両端で身を(すく)ませていた。

 私は車両の中央に近寄ると、連結部分の具合を確認するように、上下左右に目をやった。それから前方と後方にいるお客さん達へ交互に顔を向けながら、「皆さん、もう大丈夫です。安心してください」と、インカムを通して告げた。

 お客さん達は、恐るおそるといった様子で車両の中央部まで近寄ってきた。みんな口々に、「いったいなんだったの、今のは?」などと呟きながら、首を捻っていた。

 ふと窓の外に目をやると、対向列車が近づいていた。その外観に違和感を覚えた。

−−何か……上にいる……−−

 対向列車は一両編成で、その屋根の中央部分には電線に接するパンダグラフがあった。その横に何者かが立っていた。

 私は瞳を細めながら目を凝らした。

−−女の人!それも神主姿!−−

 その肌は透き通るように白く、優しげな眼差しを左右に投げかけている。薄紫の袴をはいて、淡い緑色の唐衣(からぎぬ)羽織(はお)っていた。

 胸元まで伸びる黒髪が(あで)やかな輝きを放ち、おでこには金色の額飾りを着けていた。その飾りは、まるで地平線から昇る太陽を(かたど)ったように半円で、上に向かって三本の金色の線が伸びていた。

 ピンと背筋を張っている姿は高貴そのもので、まるで凛と咲いている一輪の花のように思えた。

 ふと女性の視線が私の方に向けられた。

『みく、また会いましたね』

 その涼やかな声に聞き覚えがあった。

−−ミツケノカミ!あなたなの?−−

『そうですよ』

 まるで鈴が鳴るような声音(こわね)が、私の胸の内に響いた。

−−いったい、どうして?−−

『あなたがコトシロヌシノカミに頼んだのでしょう。だから我々、八神がその姿を見せることにしたのです。それぞれが電車の上に乗っています』

−−そんなことが!−−

 私は目を丸くした。

『あなたが乗っている電車の上には、コトシロヌシノカミがおられますよ。ではまた』

 ミツケノカミを乗せた路面電車が通り過ぎていった。

 車内から屋根の上は見えない。でも窓の外に目をやると、歩道を歩く人々が足を止めて電車を凝視していた。呆気に取られたようにアングリと口を開けている人や、スマホを取り出して一心に写真を撮っている人もいた。

『みく、これで人々にも神仏は確かにいるということが分かるだろう。では最後にこれを見せよう』

 すると、二両連結の路面電車をスッポリと覆うように光の傘が現れた。それは虹色に輝きながら、四方八方へ(まば)ゆいほどの光を放っていた。車内のお客さん達は一斉に驚きの声を上げていた。

−−まるで虹色のドーム……きれい……−−

 その時、乗降口の外側に人影が現れた。

 恰幅(かっぷく)の良い男性で、青い羽織に水色の袴を着ている。頭には烏帽子(えぼし)を被り、丸顔で両頬が膨らんでいて、大きな福耳(ふくみみ)が印象的だった。瞳を細めながら目尻を垂らして、ニッコリと私に笑いかけていた。片手に釣り竿を握る姿は、七福神(ひちふくじん)恵比寿(えびす)様にソックリな見かけだった。

『そなたの爺様も封印の修復が終わったようじゃ。安心せい』

−−本当にありがとうございました、コトシロヌシノカミ—

 窓の外に向かって、私は頭を下げた。

『礼には及ばん。これからも人々が心を整え、神仏を敬うように導くのじゃぞ。では、また会える時を楽しみにしておる。さらばじゃ』

 その途端、ロウソクの炎を吹き消すように、虹色のドームがフッと掻き消えた。同時に男性の姿も見えなくなった。

 ハッと我に返って、私は発車を促すように、ビッビッと黒いボタンを二回押した。

 燦々(さんさん)と降り注ぐ夏の陽射しを浴びながら、再び路面電車が走り始めた。


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