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第8話 初日

桜鳴おうめい様、用意はできていますか?」


 部屋の扉をこんこんと叩く音が響く。呼びかける声に応じて扉を開けると、そこには凌霄りょうしょうが立っていた。


 今日は、仕事初日だ。


 桜鳴は支給された服に身を包んで部屋を出る。

 家から持ってきた服を着たかったが、皇子の傍に仕えるものとしてふさわしくないと言われ、手元にあるのよりもはるかに質のいいものを渡された。派手を好まない意向を汲んでか、凌霄はできる限り地味なものを用意したらしい。

 部屋に置いてあった姿見の前でくるりと回ってみたが、ひらひらとしている割には動きやすく思いのほか気に入った。


「明日からは、御一人で皇宮まで、時間までに来てくださいね」


 皇族や官人が仕事をする場所である皇宮へと向かいながら凌霄が言う。敷地が広いうえに、似たような建物ばかりの風景に不安を覚えながら、小さく「はい」と返事をした。


 昨日は後宮の案内だったが、今日は皇宮の方を案内してもらうことになっている。――のだが。


「……なぜ、漣夜れんや様もついてこられるのでしょうか」


 前にいる凌霄は困惑の声色で、桜鳴の後ろに連なって偉そうにしている漣夜に問いかける。

 仕事場となる皇宮は、覚えておくべき場所が後宮に比べそれほどなく、案内は1時間以内に終わる見込みだ。だから、漣夜にも今日は仕事をしてもらっている、と凌霄は言っていた。

 つまりは、ついてくる必要など微塵もない。桜鳴は後ろを振り返りながら、漣夜の顔をぎろりと見遣る。


「いいだろ、別に。散歩だ」

「……散歩なら外ですればいいのに……」

「あ? 何か言ったか?」

「何でもございませんです」


 少し吊り上がった深い緋色の瞳で見下ろされ、言葉を取り繕う。

 敬意がないことなど百も承知だろうが、いちいち嫌味を返されるのも遠慮したいところだから、小さく呟いた言葉はなかったことにした。



 案内は当初の予定通り、1時間かからないで終わった。他にも今後行くことになるだろう場所もあるらしいが、その時は漣夜の付き添いであることが多いだろうから、と、今回は省かれた。



 次は、仕事内容を教えてもらうことになった。

 奏祓師は笛を吹くことが仕事ではあるものの、漣夜に悪鬼が憑いている時か、管轄地で悪鬼起因の騒動が起こった時くらいにしか出番はない。


 そのため、普段は凌霄の手伝いをすることが主な仕事となった。


「――では、先ほど案内した場所を覚えているかも兼ねて、こちらの墨の予備を倉庫に取りに行ってもらえますか?」


 棚の引き出しから一本の墨を提示される。簡単な御使いだ。桜鳴は、凌霄の指示にひとつ頷いて、記憶に新しい倉庫へと向かった。


「えっと……墨は、たしかこの辺に……あった!」


 少し迷いながらも辿り着き、多くの物がある部屋で目的の物を探し当てる。先日に忍び込んだ倉庫よりも整頓されていて、すぐに見つけることができた。

 よしよし、と弾む気持ちで部屋に帰ったのに、すぐにその思いはぶち壊されることになる。


「――遅い」


 漣夜は書物に視線を落としたまま言った。

 戻ってくるまでに十分もかかってない。ただ貶したいだけだ。そうは分かっているものの。


(このっ男はっ! ……はぁ、落ち着け、落ち着け……)


 言い返したいのをぐっと飲み込んで、気持ちを落ち着かせる。打てば響くのが面白い。昨日、漣夜はそう言った。反応すれば、この男の思うつぼだ。

 漣夜から目を離し、凌霄の方に向き直る。


「っあの! 他には、何かありますか!」

「倉庫の場所も覚えておられましたし、今は特に何もないですね」

「そう、ですか……」

「なので、漣夜様の仕事ぶりを御覧になっていてください」

「……は?」


 凌霄は、漣夜の仕事机からほど近い長椅子を示しながら言った。

 この男の仕事を見て何になるのだというのだろうか。任せられることがないのなら、空いている部屋でここ数日の出来事で疲れている心身を少しでも休めたいというものだ。体のいい厄介払いをするくらいなら、だ。


(……座ってぼーっと見てるだけなら、多少は休めるか……)


 桜鳴は、長椅子の、できるだけ漣夜から離れた場所に座る。観察対象は、引き続き書物を読んでいるようだった。そうして読み終わると、筆を手に取り何やら紙に書き込んでいく。さらさらと流れるように筆を走らせ、動きが止まったと思うと、それを凌霄に手渡す。

 何の仕事をしているのかはよく分からないが――。


(思ったより、真面目じゃん……まあ、怠けるような奴じゃないのは分かるけど)


 凌霄が部屋から出ていくのと同時に、息を吐く音がひとつ聞こえた。一仕事終えた漣夜と目が合う。


「なんだよ」

「……べっつに!」


 ぷいっと視線を逸らすように顔をそむける。

 いつもの厳しい顔つきでもなく、昨日のような能面の表情でもなく、真剣な面持ちで仕事に取り組む彼が、まるで別人のように思えて。


(少し、ほんの少し、感心したなんて、……気のせいっ!)


 ◇◇◇


 それからも手伝えることはほとんどなく、暇な時間はゆったりと経過していき、ようやく昼食の時間になった。

 通常、食事は後宮で摂る。そう事前に聞いていたから、長椅子から立ち上がり、後宮に戻ろうとしたら、漣夜が筆を置き口を開いた。


「凌霄、昼餉はこっちで摂る」

「かしこまりました。……桜鳴様に取りに行かせてもよろしいですか」

「え」


 急に名前を呼ばれて、驚きから上擦った声が出る。確かに、漣夜の身の回りの世話をするのも仕事だと、昨日後宮を周りながら凌霄は言っていたが、自分にはそう関係ないと思って適当に相槌を打っていた。


「昨日教えたのを覚えているか、確認したいので」

「ば、場所は覚えてますけど……わたしがすることですか……?」

「午前中、だらけていたんだから、それくらいさっさと行け」


 追い出すかのように手を動かす漣夜に、言いたいこととやりたいことは何個もあったが、いろいろと我慢した。何より、腹の虫が早く早くと騒いでいる。主人が食べ終わらないことには、いつまで経っても従者は食べられない。



 記憶が少し曖昧ではあったが、いい匂いのする方に導かれていったら、目的の場所に到着した。「すみませーん……」と、桜鳴は小声で言いながら扉を開けると、騒がしかった空間が一瞬静まり返った後、あちらこちらで声をひそめて何かを話していた。


(? ……ああ! 誰か分からないから、不審人物だと思われてるのかも!)


 ここにきて挨拶をしたのは漣夜と凌霄、それに皇帝陛下と皇后に、陛下の奏祓師だけだ。案内中にすれ違った人はたくさんいるが、誰であるというのは彼女たちの中では不明であるはず。

 第一印象は大事だし、これで漣夜がどうこう言われるのは悪いような気が、まあ、少しはする。


「初めまして! 先日から、第三皇子様に仕えています、楊桜鳴ようおうめいです!」


 お手本のような元気な自己紹介をしたのにもかかわらず、ひそひそ声が一気にざわめきに変わる。


「やっぱり、あの人、噂の……」

「女官の分際で皇子様にあんなこと……」


 女官たちの言っている意味が理解できなくて、桜鳴の頭に疑問符が浮かぶ。噂になるようなことをした覚えがない。首をひねって考えても、何の答えも出てこなかった。


(――って、今はそんなことよりも)


 また、あの男に遅いって言われないように早くしないと。


「あ、あの……第三皇子様の御食事がこちらにあると……」


 そう言うと、一人の女官が食器が乗った御盆を、音が鳴るくらい雑に目の前の机に置いた。汁物が少し御盆の上にこぼれる。


(これ、このままでいいのかな……)


 女官の方に目を移すと、くすくすと口の隅で笑いながら、奥へと消えていった。差し出されたものを持って行く、それでいいはずだが、この部屋にいる彼女たちの言動の意図がまったく読めない。


(なんだろ……あ、残虐非道とか言われてるから、漣夜嫌われてるのかな……)


 あの横柄な態度を誰にでもしているというのなら、それも理解できる。あんな性格の悪い奴を好きになる人などいないだろう。

 桜鳴はうんうんと頷いて、皇宮へと足早に向かった。



 部屋に着いて、持っている御盆を見るなり、漣夜は眉をひそめた。


「――おい、どういうことだ」

「え?」

「遅いのはまあ目をつぶろう。だが、どうして盆にこぼれている」

「それは――」


 女官が雑に渡してきたから。

 桜鳴はそう説明しようとしたが、言い終わる前に漣夜が言葉を遮った。


「別に言い訳などいい。お前が形を保って持ってきただけでも、褒めてやるべきことだ。こぼれてはいるがな」


 わざわざ、こぼれていたことを強調して言ってから、料理に手を付け始めた。

 本当にやっていないのに。どれだけ言っても、今の彼は納得してくれないだろう。その判断材料も信頼もない。

 不服ではあったものの、可能性がまったくないことに労力を割くのも馬鹿馬鹿しいと思った桜鳴は口を閉じた。



 それから、似たような、というべきか、不運な出来事が何度も続いた。

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