第32話 真意 壱
蒼峻お兄様が大好きだった。
尊敬だけでなく、恋慕の情も抱いていた。同じ血が流れている兄妹だとしても、そんなことまったく気にならないくらい、蒼峻お兄様は魅力的な人だった。
この人のためになら、どんなことでもする。
自分に奏祓師の能力があると分かった時は嬉しかった。蒼峻お兄様をお守りできる、と。
でも、その力は天瑞お兄様のためのものだった。残念だったけど、それでも、皇女としているよりも近くにいられると思って、やっぱり喜んだ。
玖雪のことは、嫌いだった。あんな、なよなよとした男が、蒼峻お兄様をお守りできるはずがない。本当だったら、そこにはあたしがいたはずなのに、と。
だから、あいつのことはいっぱいいじめてやった。皇女の権限で無茶をたくさん命じた。でも、困った顔をするだけで、どんなことにも従った。されたことを蒼峻お兄様に言うでもなく。
気味が悪かった。こんな権力に屈するやつが、蒼峻お兄様の奏祓師をやっていけるはずがないと思った。
いつだったかに、蒼峻お兄様に付き従っている玖雪を遠くから見かけた。
あいつの、蒼峻お兄様を見つめる目は、あたしと同じだった。恋慕は、多分ないと思うけど、尊敬して憧れている目。この人が、次の皇帝になると信じて疑わない目。
気に食わないけど、気持ちは痛いほど分かった。
その目が翳り始めたのは、おかあさまが『手伝い』を頼んでからだった。
おかあさまも、臆病者の玖雪なんて使わなくてもいいのに。
あたしが、あたしたちが、蒼峻お兄様を次期皇帝にするから。
◇◇◇
天瑞は、ぼーっと部屋の隅を見つめていた。昼の出来事が頭の中でぐるぐると回っていたところに、扉がきぃと開いた。
そこに立っていたのは、華月だった。ゆっくりと、だけど、一歩一歩しっかりと踏みしめて近づいてくる。吊り上がった目が、いつもよりもきつくなっている。
「華月? どうしたの」
「天瑞お兄様」
華月はひとつ深呼吸をした後、今日あったことをすべて話してくれた。
玖雪と話していたところを桜鳴に見られたこと。それを報告したこと。
それから――。
「おかあさまは、あの奏祓師がいなくなることを望んでいらっしゃいます」
「……そっか」
「貴方も、『おかあさま』の、蒼峻お兄様のために、働いてくださりますよね、天瑞お兄様?」
華月は目の前に手を差し出す。天瑞にこの手を拒否する権利はなかった。
するりと華月の手の平を撫でる。
「華月は、笛だけでいいよ」
「笛だけ、ですか?」
「うん。桜鳴は、――僕がやる」
天瑞は無機質な目で前を見つめ、撫でるだけだった華月の手をぎゅっと握った。
◇◇◇
数日後の夜。
天瑞と華月は、漣夜の宮の前にいた。宮の前には、見張りが立っていて、正面突破できるような隙がまったくなかった。にもかかわらず、二人は堂々と門を正面から入っていった。見張りにはまるで二人が見えていないかのようだった。
「さすがだね、華月の笛は」
華月はぎろりと天瑞を睨み、静かにという手振りをして、すたすたと宮の中へと進んでいった。
華月の音には、悪鬼を祓う以外にも狙った相手を操る力があった。脳に直接作用し、自在に身体を動かしたり、五感に働きかけたり、まるで人形のように操れる能力だ。
日中に、漣夜と桜鳴がいない間に、漣夜の宮で働く者すべてに笛を聞かせた。すでに、この中は掌握したも同然だった。
ただ、弱点もあり、自分が操られていると自覚されたら術は解けてしまう。
余計なことはせずに、さっさと事を済ませたい。二人は一直線に桜鳴の部屋へと向かった。
「――ここか」
なるべく音を立てないように扉を開くと、部屋の奥の寝台で寝ている桜鳴が見えた。
天瑞の手がじっとりと湿る。その緊張をかき消すかのように、天瑞は自分の衣に手をごしごしと擦り付ける。
寝台にゆっくりと近づき、都合よく仰向けで寝ている桜鳴の上に跨る。白く細い彼女の首に手を伸ばす。
(……桜鳴に、罪はない。蒼峻兄上が次期皇帝になれば、あの御方もお喜びになる。それに、母上も――)
『……天瑞様は、寂しいから、こういうことをしてるんですか?』
「っ!」
天瑞は、脳裏に桜鳴の言葉が浮かんだ瞬間、首に伸びていた手を止めた。それに華月は怪訝な表情を浮かべ、小声で囁く。
「ちょっと、天瑞お兄様、早くしてくださ――」
「ん……?」
「!」
華月の声で覚醒してしまったのか、桜鳴の瞼がゆっくりと開いた。見られてしまった、と、ひどく慌てる。
桜鳴の瞳が右に左に動いて、天瑞と華月を捉える。
「てんずい、さま……? かげつ、さまも……どうし――ぐっ!」
天瑞は桜鳴の首に手をかけた。ぐっと力を込めると、桜鳴の顔が苦しみで歪む。
「てん、ず、……さま……っ」
「、っ」
何も悪くない彼女を殺すのは、心が痛む。
でも、こうしないと、あの御方は喜ばない。
桜鳴は悪くない。
でも、でも。
母上が、母上のため、母上に、『愛されたい』だけ――。
◇◇◇
黎蘇芳。
彼女は後宮に入るなり、すぐに上級妃となった。
家柄よし、顔よし、学もあり、芸術の才能もある。そんな彼女を皇帝が放っておくはずもなく、寵妃になるのにもそう時間はかからなかった。
彼女のような人が皇后になるのだろう、と、後宮のあちらこちらで噂が絶えなかった。
そんな后妃としては順風満帆の彼女の運命は、皇子を産んだことで一変する。
皇子を出産してから、蘇芳の侍女が立て続けに罪を犯した。
蘇芳は、ずっと一緒にいた彼女たちがそんなことをするような人ではない、と、何度も訴えた。調べなおしてほしい、と。
そこに異を唱えたのが、先に皇子を産んでいた趙麗月だった。
そんなに庇うのは、蘇芳も加担しているからではないか、と。むしろ、蘇芳が命令してやらせていたのではないか、と。
蘇芳は必死に否定した。自分が罪を犯す必要がない。かわいい我が子も産まれ、幸せの絶頂なのだから。
だが、調査した結果、蘇芳にも罪を犯した証拠が見つかった。蘇芳は何もしていなかった。その疑われるようなことをした時には、信頼できる潔白の侍女と共にいた。つまり、彼女にできるはずのないことだった。
再調査したら、侍女の一人が蘇芳にも罪を着せようとしていたことが分かった。蘇芳は刑の執行を免れた。
蘇芳はほっと胸を撫でおろしたが、多くの侍女の不祥事によって、上級でいるのにふさわしくないとされ、下級に降格した。
命があるだけまだよかった。そう思えたのは束の間だった。
上級でいた時には下の位だった后妃たちから、下女扱いされる日々が始まった。それに従う必要はないから無視をしようとしたが、ひどい仕打ちを受けた。従うしかなくなった。
唯一残った信頼できる侍女が支えてくれたが、ひどく惨めな気持ちになった。
どうして、こんなことをしなければならないのだろう。
――あれを、産んでから全部おかしくなったんだ。あんなの、産まなきゃよかった。
蘇芳の中で、慈しみの対象だったはずの我が子が、憎しみの対象に変わった。




