第31話 暗雲
いつものように凌霄の手伝いを頼まれ、それを終わらせた帰り道だった。
見知った顔がいたので、名前を呼びながら駆け寄った。
「玖雪さー……ん?」
玖雪がひとりで佇んでいると思っていたが、もう一人、見目麗しい女性が一緒にいた。ちょうど建物の陰で隠れていて見えなかった。
桜鳴は陽気に上げた手を恥ずかしそうにゆっくりと下ろす。
「す、すみません。お話しているところだったのに……」
「い、いえ。大丈夫ですよ」
玖雪の言葉にほっと安堵して、隣にいる女性の方を見る。吊り上がった赤紫の瞳に、胸のあたりまでの赤茶の手入れされた髪。見覚えがある気がするが、それほど顔を合わせていない人だろうか。
「……どこかで、会ったような……?」
首を傾げながら呟いた桜鳴の言葉に、女性は眉をわずかにぴくりと上げる。すぐそこまで近寄って見ないと分からないくらいの変化だった。
悩んでいる桜鳴に、女性はにこりと笑いかける。
「一度だけ、お会いしたことがありますよね。天瑞第二皇子の奏祓師、蔡華月でございます」
「……ああ! そういえば、そうでした! お久しぶりです!」
「お久しぶりです」
女性――華月は軽く頭を下げて挨拶をする。桜鳴もすっきりした表情で深くお辞儀した後、再び疑問が生まれてきた。
「蔡、ってことは、もしかして……?」
「……ええ、まあ。一応、皇女です」
「皇女様! わたし、初めてちゃんとお会いしましたよ!」
「、すでに、一度ご挨拶させてもらっているんですけどね」
「あ、そっか!」
華月は笑顔を崩すことなく、あはは、と豪快に笑う桜鳴を見つめている。桜鳴は「そういえば」と話を続ける。
「華月様も笛、吹けるんですよね?」
「奏祓師ですから」
「今度、聞かせていただけませんか? 華月様の音も聞いてみたいです!」
「……機会があれば」
「やった!」
純粋に喜んでいる桜鳴には、華月が若干嫌そうな顔をしていることには気付いていなかった。
それから華月は、玖雪に「またあとで」と挨拶をして、用事があるからと、この場を離れた。
玖雪の方へ、くるりと向き直る。
「玖雪さん、華月様と仲がいいんですね!」
「ま、まあ。そうですね……」
「何話してたんですか?」
桜鳴の問い掛けに、玖雪の瞳は右に左に泳ぎ始める。
「っ、えっと……何でもない、他愛ないこと、ですよ」
「? そうなんですね!」
どもりながら答えた玖雪を少し不思議に思ったが、特段気にすることでもないか、と、桜鳴も玖雪と他愛ない会話をした後、行き先を再び執務室へと戻した。
今日はどうやら、知り合いによく会う日らしい。
「あ、天瑞様。こんにちは!」
「……ああ、きみか」
通路の角を曲がった時に、人とぶつかりそうになり、足を止め顔を上げると、そこには天瑞がいた。いつもよりも元気がなさそうな様子だった。
「そういえば、さっき華月様にお会いしました! 初めてきちんとお顔を見たんですが、とてもお綺麗な御方ですね……」
「そう……」
天瑞は視線を桜鳴から逸らし生返事で答え、どこか上の空だった。
無理に引き留めてしまっただろうか。何か用事でも、と考えたところで、ぴんとくる。
「……もしかして、これからまた女性のところに行かれるんですか?」
「……まあ」
「やっぱり! それなら、そんな憂いた表情では愛してもらえませんよ。笑顔の方が……ああ、でも憂いを帯びてるのを好きな人もいるかも……?」
これだけの美貌だ。きっとどんな表情をしていても、たいていの女性は惹かれるだろう。
(わたしは、対象外だけど)
そんなことを考えていたら、あれだけ合わなかった視線がぶつかる。生気のない目で見据えながら、天瑞はぽつりと呟いた。
「……僕、愛されない?」
「い、いえ! 言葉の綾というか……」
何度か話した程度なのに、出過ぎた真似をしてしまった。相手は皇族だ。
慌てて言い訳をする桜鳴の右腕を掴み、天瑞はぐいっと自分の方へと引き寄せた。
「なら、桜鳴も愛してくれる?」
宝石のような瞳に桜鳴の顔が反射する。何かを悟ったような、それでいて縋るような、薄い緑が揺れる。
「……天瑞様は、寂しいから、こういうことをしてるんですか?」
「っ!」
引き寄せたのは天瑞だというのに、力いっぱい桜鳴を押し返す。その反動で少し後ろにふらつく。
何をするのか、と抗議をしようと天瑞の方を見ると、この国の人にしては白い肌が赤く染まり、みるみるうちに怒りをあらわにする。
「てんず――」
「うるさい! きみには、何も分からないっ!」
「え、ちょ、あ……」
何が、とか、何のことか、とか、言葉の意味を聞く前に、天瑞は走り去っていった。
あの優しい天瑞が、声を荒げるほどに怒ることがあるとは思わなかった。
(何か、まずいこと、言ったかな……)
おそらく、いや十中八九、自分が悪いのだろう。会った時からどこか様子もおかしかったし、虫の居所でも悪かったのだろうか。そこに、何か不快になる要素を加えてしまった。
次に会ったら謝らなくては。
自分の行いを後悔しながら、桜鳴は執務室へと帰っていった。
◇◇◇
「玖雪」
「あ、か、華月、様……」
「おかあさまのところ」
「は、はい」
日も暮れた頃、華月は再び玖雪の元を訪れていた。堂々と歩いていく華月の後ろを、おどおどと不安げについていく。
部屋の前に到着し、華月はさっさと帰るはずだった。いつもそうしていたから。
華月は、玖雪の方を見ることなく口を開く。
「……一応、一緒にいるところ見られたの、おかあさまに報告した方がいいわね」
「す、すみませんっ! 僕のせいで……」
「あたしも迂闊だったから」
華月はそう言って扉を叩いた。中から女性の声で「どうぞ」と返事があり、部屋に入る。円卓には、豪華な食事と見たこともない酒が並んでいた。
「あら、今日は華月もいるのね」
「おかあさま、実は――」
華月の説明を黙って聞いていた女性は、大きな扇を広げ口元を隠した。
「あの娘、ね……ねえ、華月」
「はい」
「よい皇帝には、よい奏祓師が必要不可欠。それがこの国の伝統……そうでしょう?」
女性の言葉に華月は顔を上げる。弧を描いている女性の目が、華月を見下ろす。瞳の奥にある冷たさに、華月はびくりとする。
この御方のために、――あの人のために、役に立たなくては。
女性の言葉の裏にある真意に気が付いている華月は「仰せのままに」と答え、玖雪と共に部屋を出た。
「……玖雪」
「は、はいっ。ぼ、僕も、お手伝いを……」
「いい。どうせあんたには出来ないでしょ。あたしたちに任せて」
華月は両手に力を込めるようにぎゅっと握りしめる。
「あたしたちが、あの奏祓師を『処分』する」
玖雪の息を呑む音が二人以外に誰もいない静かな廊下に響いた。




