第29話 対峙 伍
焔墨の右手が懐に入り、その手には短剣が握られていた。
まさか武器を隠し持っているとは。
「、桜鳴っ!」
後ろから、天瑞の叫び声と慌てて駆け寄ってくる足音が聞こえた。
天瑞の手が桜鳴に届くより先に、焔墨の手が動き出す。
そして、焔墨は、両手を掲げると同時に、自分の首元を短剣で切り裂いた。
「――え?」
焔墨の首元から勢いよく血が、ぶしゃ、と噴き出し、桜鳴の羽織りを汚した。
突然の出来事に思考が追いつかず、呆然とその光景を眺めていると、立っていられなくなった焔墨がその場に倒れ込んだ。
どさ、という音に、桜鳴は我に返り、倒れた焔墨の元へと駆け寄る。
「……っ、焔墨さんっ!」
桜鳴は、屈み込んで、血が溢れ続ける焔墨の首元を羽織りで、ぎゅっ、と強く押さえる。
だが、どれだけ押さえても出血は止まらず、羽織りをみるみる内に真っ赤に染めていく。
「っ焔墨さん! だめです、こんなのっ!」
「……っ、最期に、見るのが、……貴女の、清浄な、色、……とは、……っ、なんと、皮肉な、こと……、でしょう……ぅぐっ」
焔墨は、途切れ途切れに言葉を紡いで、口から血を吐き出した。
「もう、喋らないでくださいっ! すぐに、医官を、呼んで――」
桜鳴は、より強く焔墨の首の傷を押さえ込む。
羽織りではもう吸収できなくなった血が、桜鳴の指の隙間から滴っていく。生温かい血の温度に、焔墨の命がどんどんと流れ出ていくような感覚がした。
絶対にこんなところで死なせない。
桜鳴は、唇を切れてしまうのではないかというほどに強く噛み締める。
すると、焔墨は、吐き出した血で汚れた口元を緩めた。
「、ふっ……」
それから、ゆっくりと桜鳴の頬に向かって手を伸ばした。
血に塗れた焔墨の左手の指先が、桜鳴の右の頬に、ぴとり、と触れた。
「……、汚せ、たら、……どれほど、っ、美し、……かった、でしょう、……か……」
焔墨は、妖しく微笑み、掠れた声で絞り出した。
言葉を終えた瞬間、焔墨の手が力なく落ちていった。桜鳴の頬に、焔墨の指先が滑った跡が、べったり、とついていた。
「焔墨、さん……? っ、焔墨さんっ!」
桜鳴は、何度も焔墨に呼びかけるが、反応は一切なかった。
焔墨の瞳は色を失ったように、ただ空を映していた。
大丈夫、まだ助けられるはずだ。
回らない頭で考えを巡らせていると、とある人物の顔が過った。
「……そうだ! 心蓮さんに頼めば――」
桜鳴が思いついたように顔を上げると、天瑞が隣までやってきて、すっ、と屈んだ。
天瑞は、血塗れの焔墨の手を取り、手首の辺りを軽く掴んだ。
少しの沈黙の後、天瑞は、瞼を閉じて首を横に振った。
「……桜鳴。もう、心蓮でも、無理だと思う」
「っ、そんな……、こんな最後、なんて……っ」
命の灯火が消えてしまった焔墨の身体は、真冬の冷気に当てられ、どんどんと体温がなくなっていく。
桜鳴は、温もりを分けるように、焔墨の身体を抱き寄せた。
しばらくの間、抱き締めていた。だが、当然の如く、焔墨の身体が再び温かくなることはなく、すっかりと冷え切っていた。
呆然と焔墨の顔を見つめていると、肩に、ぽん、と手が置かれた。
ゆっくりと後ろを振り向くと、天瑞が立っていた。
「桜鳴、帰ろう」
「天瑞様……でも、……」
桜鳴は、天瑞から腕の中の焔墨へと顔を向ける。
このままここに焔墨を放り投げて帰ることはできない。
天瑞は、そのことを分かっていたのか、「うん」と頷いて言葉を続けた。
「焔墨のことは、きちんと埋葬してもらえるように頼んだから」
「埋葬……」
「うん。だから、一度、帰ろう。ほら、桜鳴の手、こんなに冷たくなってる」
天瑞は、桜鳴の右手を取り、両手で包み込んだ。
天瑞の手も十分冷えていたが、それでも、ほのかな温かさは感じられた。生きている証拠だ。
桜鳴は、ぐっ、とこぼれてしまいそうになるものを堪えて、天瑞と一緒に焔墨を道の端へ運び、ゆっくりと寝かせた。
せめて、澄んだ綺麗な青い空が見えるように、と空を見上げたら、いつの間にか太陽は傾き、茜色が滲み始めていた。
(もう、こんなに……)
朝方の喧騒から、気が付けば半日が経過していた。
桜鳴は、地面で寝ている焔墨の顔を見つめた。
嫌な感覚はもうしない。だが、ざらついた何かが胸の奥に積もっていくようだった。
どうしてこうなってしまったのだろう、と。何かもっと別の道があったのではないだろうか、と。
桜鳴が拳を強く握りしめると、その手に何かが触れた。
「桜鳴」
触れたのは天瑞の手だった。
桜鳴は、名前を呼ばれて天瑞の顔を見上げる。
天瑞は、ふんわりと微笑んで、衣の袖で桜鳴の右の頬を優しく拭った。
「さあ、帰ろうか。漣夜が待ってるよ」
「……そう、ですね。帰りましょう。わたしたちの戻るべき場所に」
桜鳴は、天瑞と共に漣夜の宮へと向かった。
◇◇◇
後宮へと戻り、漣夜の宮が見えてきたところで、門の前に人影が見えた。その人影は刺繍が施された衣を纏っていて、門番とは違うことは明確だった。
その人物がこちらを振り返ったと思ったら、ものすごい速さで駆け寄ってくる。
あれほどあちらこちらで起こっていた戦闘もほとんど終わり、喧騒など嘘だったかのように静かになっているが、まだ残っていたのだろうか。
桜鳴と天瑞は、思わず身構える。
が、顔がはっきりと分かるほど近付いたところで、その緊張を解いた。
「……っ! お前、その血は……」
「あ、えっと、これは……ちょっ!」
駆け寄ってきた人物――漣夜は、桜鳴の姿を見るなり、汚れることなど気にせず桜鳴の身体の隅々を触り始めた。
桜鳴は、そのくすぐったさに身を捩りながら、漣夜の行動を止めようとするが、一向に止まる気配がなかった。
それを見かねた天瑞が、ぐいっ、と漣夜を桜鳴から引き剥がした。
「漣夜、落ち着いて。桜鳴は怪我してないから」
「だったら、この血は?」
「全部、焔墨の血だから」
天瑞は、漣夜を宥めるように言った。
漣夜は、安心したように息を吐いた。だが、すぐに顔を険しくさせた。
「なんで、こいつにこんな……」
焔墨と戦ったのなら、天瑞がより多くの返り血を浴びているはずだと、そう言いたいのだろう。
桜鳴は、先ほどの光景が脳裏に浮かび、目を伏せた。
今の桜鳴には答えられないと思った天瑞は、少しの躊躇の後、口を開いた。
「焔墨は、……自ら命を絶ったよ」
「自死……? もう勝ち目がないと判断したのでしょうか?」
「んー……どちらかと言うと――」
「――わたしが、追い詰めた、から」
桜鳴は、唇を震わせて小さく呟いた。
漣夜と天瑞は、桜鳴をじっと見つめた。
「……どうして、そう思うの?」
天瑞は、優しい声色で問い掛けてくる。
「だって、最後に話したのは、わたしで……何か、焔墨さんを、追い詰めてしまうようなことを言ったから、……だから、焔墨さんは……っ」
桜鳴は、堪えていたものを言葉と共に溢れ出させていく。
焔墨は自らの手で命を絶った。その事実は間違いない。だが、それを引き起こしたのは、きっと――。
(――わたし、だ)
焔墨は悪人だ。本人が言っていた通りに、この騒動の作戦を立てたのが焔墨なら、間違いなく極悪人だ。たくさんの人が傷付き、たくさんの人の命が奪われた。華嵐も、邃烽も。捕まったら、極刑となるのは確実だった。
だが、だからといって、死んでほしいと思っているわけではない。死んでいい人間なんて、いないのだから。
それなのに、自分の言葉で焔墨を追い詰めてしまった。焔墨を、殺してしまった。
桜鳴は、両手で顔を覆った。
その瞬間、ぎゅっ、と抱き寄せられる。この匂いと、温もりは、――。
(漣夜……)
漣夜は、息苦しいと思ってしまうほど強い力で抱き締める。
「お前が、……誰にだって馬鹿みたいに優しさを向けるお前が、誰かを追い詰めるようなことを言うわけないだろ」
「っ、でも……っ」
確かにこの目で見たのだ。それは紛れもなく真実で、現実だ。
そう反論しようとする桜鳴に、天瑞は隣から「桜鳴」と呼んだ。
「桜鳴は焔墨の表情、見た?」
「表情、ですか……?」
「うん。焔墨は、苦しんでなんてなかったよ。すごく、穏やかな表情だった」
桜鳴は、天瑞の言葉に焔墨の最後の表情を思い浮かべた。
それは、死の恐怖に怯えたり、痛みに苦しんだりしているものではなく、安らかで、どこか希望すらも感じるようなものだった。
天瑞は、言葉を続けた。
「焔墨にとって、この世界は狭すぎたんだ。だから、自由に羽ばたいていったんだよ。きっとね」
「自由に……焔墨さんが、この道を選んだのが正解だった、ということですか……?」
「正解かどうかまでは僕にも分からないよ。だけど、追い詰められたから、じゃなくて、自分で、焔墨自身で選んだんだ」
天瑞の手が、桜鳴の背中に触れた。
焔墨が何を思って死んだのか。どうして自ら命を絶つことを選択したのか。そんなことは、焔墨本人にしか分からない。どれだけ考えても、真実には辿り着かないかもしれない。だが、天瑞の言葉で、少しだけ、ほんの少しだけ胸の奥が軽くなるような感じがした。
桜鳴は、漣夜の腕から、そっ、と離れた。
それを見た天瑞は、明るい声色で「ところでさ」と切り出した。
桜鳴と漣夜は、天瑞の顔をじっと見つめる。
「桜鳴も、漣夜も、まだ言ってないことがあるよね?」
「え? 言ってないこと……? なんですか?」
桜鳴が首を傾げながら問うと、天瑞は、「ふふ」と上機嫌で笑った。
「帰ってきたんだよ、ここに」
天瑞の言葉に、桜鳴と漣夜は、お互いに顔を見合わせた。
そして、どちらからともなく言った。
「ただいま!」
「おかえり」
と。




