第28話 対峙 肆
(あと、もう少し……)
もう少しで追い求めていたものが目の前で生まれる。
焔墨は、口元を吊り上げた。
「貴女があの場にいなければ、いや、漣夜皇子の奏祓師などにならなければ、漣夜皇子が隻腕になることはなかったでしょうねぇ!」
桜鳴は、俯いたまま微動だにしなかった。
焔墨は、桜鳴の胸元辺りをじっと見つめる。
(……やはり、見えませんか……)
いつもなら徐々に浮かんで見えてくる『心』だが、桜鳴の『心』は一切見えてこなかった。
耀京や心蓮もまったく同じ現象だったことから、おそらく『力』を持っている人物には『力』が通用しないのだろうと仮定していたが、その通りだったようだ。
桜鳴の『心』が潰れて折れていくさまが見られないのは残念だが、纏う色ははっきりと見えていた。どういう原理なのかは分からないが、人に纏う色が見えるのは『力』とは別の何からしい。
(さて……どのような景色が見られるでしょうか……)
桜鳴の纏う純白が、ゆらゆら、と揺れ始める。これは色が変わっていく前兆だ。
さぞや美しい景色になるだろう。
焔墨は、目を輝かせて期待しながら、汚れていく桜鳴の純白を見ていた。
だが、なかなか黒色が差し込んでいかなかった。それどころか、纏う色は、ぐるぐると渦を巻き始めた。
見たことのない現象だった。一体何が起こるのだろうか。
(もしや、至上の『あらわれ』……?)
纏う色が変わるのに時間がかかるのは仕方がない。ましてや、至上ともなれば、多くの時間を必要とするのだろう。
じっと桜鳴の頭上を見つめて待っていると、渦がふいに動きを止めた。
ようやく見ることができる。ずっと、この世に生を受けた時からずっと、見たかったものが。
そう思っていたのに、桜鳴の纏う純白は、ぎゅっ、と一度小さくなった後、ぱっ、と大きく開いた。色は純白から変わっていた。
――煌びやかな極彩色に。
「……は?」
焔墨は、思わず声を漏らした。
その極彩色は、桜鳴を中心にして、まるで花弁のように広がっていた。
形になって現れていることも意味が分からないが、何よりもその鮮やかな色は一番理解できなかった。
見ることはできないが、確実に桜鳴の『心』を折ったはずだった。
それなのに、どうして。
見たくもないその色を怪訝に見つめていると、桜鳴が顔を上げた。
「……焔墨さんの言う通りです」
焔墨は、桜鳴が纏う色から視線を移して、桜鳴の顔を見つめた。
表情にはまだ翳りが見える。だが、その瞳は光を失っていなかった。
「わたしが奏祓師にならなければ、……漣夜が辛い思いをすることはなかった。でも、それでもっ! わたしは! ――漣夜の奏祓師だから!」
桜鳴は、顔を明るく綻ばせた。
「笛と出会えて、奏祓師になれて、……漣夜と出会えて、嬉しかった! その気持ちに嘘も偽りもないから、後悔は、もうしません!」
「……想定外、いや、想定内かも、しれませんねぇ……」
焔墨は、大きな溜め息を吐いた。
こうなることは予想していなかった。だが、この未来は十分あり得たもので、容易に想像できたものだ。
それだけ、桜鳴の纏う純白は清浄だったから。
桜鳴は、その少しくすんだ橙色の瞳に焔墨をしっかりと映し出す。
「……もし、この襲撃に焔墨さんも関わっているなら、極刑は免れないと思います」
「関わっている、というより、私が立案した作戦です。おそらく、どころか、確実に極刑でしょうねぇ」
「もし、極刑になったとしても、できるだけ執行の日を延ばしてもらえるように、お願いするつもりです」
焔墨は、桜鳴の言葉に首を傾げる。
桜鳴に何の権限があるというのだろうか。そもそも、何を考えて敵にそのような恩情を与えるのか。
「……なぜ?」
焔墨がそう問い掛けると、桜鳴は、少し照れながら笑った。
「その……さっき、音を鳴らしていたものが、とても綺麗な音色だったので、わたしの笛と一緒に奏でてみたいなぁと思って……」
桜鳴は、胸を張って「わたしのわがままです!」と付け加えた。
桜鳴の後ろに立っていた天瑞が「ふふ」と声を漏らして笑った。
(……、そうですか……)
焔墨は、きらきらと眩しいくらいに輝き続ける桜鳴の纏う極彩色から目を逸らすように、瞼を閉じた。
黒は一度差し込んでしまえば、二度と消えることはない。他の色に染まることもない。その存在感は唯一無二で、気高さすら感じられ、とても美しいものだった。
人の『心』が折れていくさまも綺麗ではあるが、纏う色が黒に染まっていくさまには遠く及ばなかった。
色を纏う当人が不幸に感じたり、憎しみを抱いたり、絶望を味わえば黒に変わると分かってからは、多くの人の色を黒に染め上げた。どれもこれも綺麗で美しかった。だが、何かが足りないような感覚がずっとあった。
もっと他の追随を許さないくらいの美しい景色があるはずだ。
そう渇望して邃烽国を飛び出てまで探し回った。そうして、ようやく見つけたのが桜鳴の清浄な純白だった。
あれが黒に染まれば、きっとこの世のどんなものですら敵わないほどの美しさになるだろう。
そう思っていたのに。
(終末が、こんな景色とは……)
桜鳴の纏う極彩色は、気高い黒色ですらその一部にしてしまっていた。どんな暗く汚く醜い感情だとしても、優しく包み込み、すべてを受け入れる。まるで、そう言っているかのようだった。
今までに、人が纏う色を見ることができる人に会ったことがないから、きっと自分以外に誰もできないのだろう。だから、しかたがないことだとは分かっていても、この素晴らしい景色を、なぜ『美しい』と思えないのだろうか。
焔墨は、ふう、と小さく息を吐いて、瞼を開いた。
「……なぜ、理解、されないのでしょうか……」
焔墨は、桜鳴に聞こえるか聞こえないかくらいの声で、ぽつり、と呟いた。
やはり聞こえていなかったようで、桜鳴は、「え?」と聞き返していた。
この忌々しいほどに煌めく極彩色とは、もうお別れだ。
焔墨は、右手を懐に突っ込み、隠していた短剣を取り出した。
「、桜鳴っ!」
少し離れた位置に立っていた天瑞が、桜鳴の前に出ようと勢いよく駆け出す。
(――いきましょうか)
焔墨は、天瑞の手が桜鳴に届くより先に、両手を青く澄んだ空に掲げた。
それと同時に、持っていた短剣で自らの首元を切り裂いた。




