第26話 緋色 弐
「――、桜鳴っ!」
久しぶりに漣夜に名前を呼ばれた気がした。
(そうだ、あの時も、こうやって手を伸ばして……手を、――)
どさ、と何かが雪の上に落ちた音に、思考が現実へと引き戻される。
「漣夜様っ!!」
凌霄の叫び声が耳を劈いた。そのすぐ後に、剣が、ひゅん、と空を裂く音が聞こえ、「ぐわっ」という短い呻き声が辺りに響く。
凌霄は、桜鳴の足元に屈みこみ、地面に落ちた何かを抱えた。
その何かは、人の形をしていて。
よく知っている顔立ちで。
馬車の中で貸してくれた羽織りを着ていて。
桜鳴は、濡れた感触のする頬を手で拭った。手のひらには、べっとりと真っ赤な血が付着していた。
「れん、や……?」
桜鳴は、足元に倒れ込んでいる何か――漣夜に目を向けた。
漣夜は、凌霄の腕の中でぐったりとし、表情を歪めていた。伸ばしてくれた右腕は、羽織りごと肘から下が切り落とされ、雪の上に『ただの物』として転がっていた。
羽織りの中からぼたぼたと大量の血が流れ出し、真っ白な雪を赤に染めていく。
「止血、まずは止血を……っ」
凌霄は、自らの衣を破り、漣夜の右腕をきつく縛った。
溢れ出していた血は徐々に弱まっていくが、漣夜の顔から血の気も引いていっているようだった。
「漣夜様っ、しっかりしてくださいっ」
「、だい、じょぶ、だ……」
「――漣夜皇子!?」
凌霄が漣夜の名前を叫ぶように呼んだのが聞こえたのか、将軍が本陣の奥にやってきた。
将軍は、赤くなった雪の上に倒れ込んでいる漣夜を見つけるなり、驚いた表情で駆け寄った。
「い、一体何が……」
「将、軍……っ」
「は、はいっ」
将軍は、消え入りそうな声で話す漣夜の口元に耳を近付けた。
「戦況、は……?」
「必死の攻防の末、戦線を維持しつつ、押し返し始めている状況です」
「敵、も、力尽き、始めたか……頃合い、を見て、撤退……しろ……」
「で、ですが、また攻められ始めたら……!」
漣夜は、ぎろりと将軍を睨んだ。
将軍は、びくりと身体を跳ねさせる。
「っ、……相手も、被害は甚大、だろう……これ、以上は、……相手にとって、も、不利になるはず、だ……」
「……承知、しました。敵の数を減らしつつ、撤退するように指示をします」
「、ああ、っ、……頼ん、だ」
将軍は、すぐに本陣内にある吊るされている大きな鐘に向かった。
槌で鐘を一度叩くと、大きく鈍い音が辺り一帯に響き渡る。
これが撤退の合図なのだろう。鐘を鳴らした将軍は、数人と言葉を交わした後、人を引き連れて戻ってきた。
「衛生兵をお連れしました。すぐに応急処置を――」
「……、俺は、いいから……他の、兵士を先に、診てやって、くれ……」
「ですが……」
「血は、止まっている、から、問題な、い」
「――問題ないわけ、ないでしょう」
漣夜の言葉に被せるように、凌霄は、震え声で言った。漣夜の肩を掴む手に力が込められる。
「っ、申し訳ございません。先に後ろに、行府に下がらせていただいてもよろしいでしょうか?」
「あ、ええ、もちろんです。すぐに馬車をご用意いたします」
将軍は、馬車を用意しに本陣の外へと出て行った。
漣夜は、虚ろな目で凌霄の方を見る。
「凌霄、っ、俺は、……」
「今だけは、どんな御命令もお聞きできません。後でいくらでも叱っていただいて構いませんので」
凌霄は、漣夜と目を合わせることなく、頑なに譲ろうとはしなかった。
間もなくして馬車の用意ができ、凌霄は、他の兵士の手を借りて漣夜を馬車へと運んでいた。
桜鳴は、呆けたようにその光景をただ眺めていた。
「桜鳴様っ!」
「……え?」
桜鳴は、名前を呼ばれて真っ赤になった雪から凌霄へと視線を移した。
「早くしてください!」
凌霄に手招きされ、わけもわからず早足で向かい、馬車に乗り込んだ。
馬車の中で横たわっている漣夜は、真冬だというのに顔中に汗が滲んでいた。
漣夜の顔がわずかに動き、その虚ろな視線とぶつかり、思わずどきりとする。
「……おそ、い……っ」
「そ、んなこと、ないと思う、けど……」
「ふ、っ」
漣夜は、口角を上げた。それから、虚ろな目がゆっくりと閉じていった。
「漣夜様……? 漣夜様っ!?」
桜鳴の隣に座る凌霄が漣夜に慌てて近付き、口元に耳を寄せた。
凌霄は、少しほっとした表情をした後、漣夜の左手を祈るように両手で握りしめた。
桜鳴は、馬車の小さな窓から外の雪景色をじっと見ていることしかできなかった。




