第3話 子猫 弐
「桜鳴? こんなところで何してるの?」
明るい通りの方からやってきた足音の主――天瑞は、不思議そうに桜鳴に問い掛けた。
執務室で仕事をしているはずの人物が目の前に現れ、桜鳴は思わず同じ問いを返した。
「天瑞様こそ、どうして……?」
「桜鳴がなかなか戻ってこないから、心配で――って、桜鳴、それ――」
路地の奥まった場所にいる桜鳴の元へと歩いてくる天瑞の足が急に止まる。柔和な笑顔が少しの険しさを携える。
天瑞の視線は、桜鳴の隣にいる黒い靄を捉えていた。
「あ、これは」
「離れて、桜鳴」
「わっ!」
ぐいっと腕を引っ張られた桜鳴は、ぐらりと身体が傾き、天瑞の胸の中にすっぽりと収まった。
「暗くて気が付かなかったけど、悪鬼、だよね」
「悪鬼は悪鬼、だと思うんですけど、あの子は多分大丈夫です」
「『あの子』? 『大丈夫』?」
やけに確信めいた言葉に引っ掛かったのか、天瑞は訝し気に首を捻った。
当然の反応に、桜鳴はくすりと笑い、天瑞の腕の中からするりと離れた。
何か面白いことがあっただろうか、と、余計に困惑する天瑞に、事の次第を説明した。
「――だから、今のところは問題ないんですけど」
「ちょ、ちょっと待って」
「はい、何でしょうか?」
「桜鳴は、その悪鬼が言っていることが分かるの?」
そんなことあり得るはずがない。半信半疑どころか、疑いの気持ちしかないだろう。
信じられないものを見るような天瑞の瞳に、桜鳴はひとつ頷いた。
「わたしにも何故かは分からないですけど……この子の声が、頭に直接響いてきたんです」
「そっか。それなら、早く探さなきゃだね」
「……わたしが言うのもなんですけど、信じてくれるんですか?」
桜鳴の問い掛けに、天瑞はきょとんとした表情をした後、顔を綻ばせた。
「わざわざそんな嘘を桜鳴が吐くとは思えないからね」
「それは、その通りですけど……」
「ほらね」
言い淀む桜鳴に、天瑞はしたり顔で微笑んだ。何も言い返すことができず、桜鳴は頬を軽くぷくと膨らませた。
「ふふ、可愛いね」
「……」
「それじゃあ、早速人探し、といきたいところだけど、さすがに手がかりが少なすぎるなぁ」
桜鳴のじとりとした目つきを気にする素振りも見せずに、天瑞は話をどんどんと進める。今度は桜鳴がそれを制止した。
「天瑞様も、一緒に探すんですか?」
「時間がかかりそうだし、僕といたことにした方が後々都合がいいと思うよ」
「……もしかして、漣夜、怒ってましたか……?」
「んー、特には。桜鳴のこと探しにきたのも、僕が勝手にきただけだし」
桜鳴はほっと胸を撫でおろした。
今の心理状態で、必要以上に漣夜と関わりたくなかったからよかった。遅く戻っても天瑞と一緒なら、一言程度の嫌味で済むだろう。
それに何より、手がかりが少ない人探しに人手が増えるのは、有難いことだ。
「では、お言葉に甘えて、手伝ってくれますか?」
「もちろん。……それで、その女の子のことで、他に覚えていることはあるかな?」
天瑞は、悪鬼の傍に近寄りしゃがみ込んで、悪鬼に問い掛けた。
悪鬼の子猫は、うんうんと唸って少しの間考え、『あっ!』と何かを思い出したかのような声を発した。
『あのね! ぼくのこと、みいちゃん、って呼んでた。それと、ちいさいあおいはなのかみかざり、つけてた!』
「みいちゃん、に、小さな青い花の髪飾りかぁ……」
「『みいちゃん』は、女の子のこと?」
「あ、この子のことです。そう呼ばれていたらしくて」
子猫が教えてくれたことを伝えると、天瑞は顎に手を添えて考えるしぐさをした後、立ち上がり通りの方へと歩き出した。
「て、天瑞様? どこへ?」
「とりあえず、女官の寝所かな」
「今のだけで分かったんですか!?」
桜鳴は、驚きで天瑞に詰め寄る。天瑞は一瞬目を丸くして頬を緩めたが、すぐに元の表情に戻った。
「あくまで推測だけど、少なくとも后妃ではないかな」
「どうしてですか?」
「后妃ならもっと着飾ってるから、『小さな髪飾り』が一番の記憶にならないはずだろうなって」
「……たしかに!」
天瑞の推論に、桜鳴は思わず膝を打った。
目的の人物が后妃なら、すぐ目につくのは面積の広い綺麗で鮮やかな衣だろう。ゆらゆらと揺れる簪も、子猫にとっては注目を集めるものかもしれないが、『小さな髪飾り』には該当しないだろう。
「じゃあ、行こうか」
「はい! みいちゃんも、おいで」
『え、でも、ぼく、ここからうごけな――あれ?』
子猫は困惑した様子で桜鳴の伸ばした手に、身体を傾けようとしたた。この場からは動けない。そのことを証明するために。
だが、予想に反して、子猫の身体は、桜鳴の手のひらの上にちょこんと収まった。地面から足は離れ、確実に桜鳴の手を踏みしめていた。
『ぼく、ずっとうごけなかったのに……』
「奏祓師だから、かなぁ?」
『そうふつし?』
「悪鬼を、祓うことができる人、だよ」
桜鳴は、この後のことを考えてしまい、心苦しい気持ちで答えた。それを感じ取ったのか、子猫は小さく『そっか』と寂しそうに返した。
子猫を右肩に乗せた桜鳴は、先に通りに出ていた天瑞の元へと駆け寄る。
「お待たせしました」
「……悪鬼がそれだけ近くにいて、何か嫌な感じとかしない?」
「不思議としないですね……みいちゃんにその気がないから、ですかね?」
「それならいいんだ」
天瑞はほっとしたような表情を浮かべ、女官の寝所へと歩き始めた。桜鳴も慌ててそれについていく。
元々後宮の倉庫に向かっていたから、女官の寝所にはそうかからずに到着した。
昼過ぎで各々の仕事が一段落しているのか、女官の出入りはまばらだった。突然の天瑞の訪問に、何事かという周囲の視線が突き刺さる。
「それで、どうやって探すんですか?」
桜鳴は、寝所の前で立ち止まった天瑞に問い掛ける。
目的の人物が后妃ではなく女官だと推測できたのはいいが、それでも優に数千は越える。ひとりひとりに小さな青い花の髪飾りを持っているかと尋ねていては、時間がどれだけかかることか。その間に子猫が悪鬼として目覚めてしまう可能性だってある。
天瑞には何かいい案があるのだろうか。桜鳴は天瑞の顔を見上げた。
「んー……聞いた話から考えて、経っても五、六年ってところだと思うんだ」
「みいちゃんが亡くなってから、ってことですか?」
「そう。多少前後したとしても、その頃から小さな青い花の髪飾りを付けてた女官は、数人だから、彼女たちに話を聞けばいいかな」
「、え」
桜鳴は、何でもないように言ってのけた天瑞に、思わず素っ頓狂な声を上げた。
数千の中から一人を探し当てるのは大変だと考えていたのに、天瑞の中ではすでに数名にまで絞られていたのだ。
何故そんなことを覚えているのだろうか。そもそもすべての女官を把握しているというのだろうか。
そう聞こうとしたところで、桜鳴ははたと気付いた。
(好色、だったな……)
まだ皇子だった頃の天瑞は、後宮にいる女性の大半に手を付けていると噂されるほどの好色だった。最近は鳴りを潜めているが、その記憶だけは健在なのだろう。
黙ったままなのが気になったのか、「どうしたの?」と天瑞に顔を覗き込まれた。
「あ、えっと……よく覚えてらっしゃるなぁ、と」
「ああ……昔取った杵柄、はいいように言いすぎかな」
ふふ、と微笑む天瑞に、はは、と桜鳴は乾いた笑いを浮かべた。




