第97話 たとえその血に非ずとも(第9章 完)
養子。それは俺が思いもつかなかった言葉だった。
だがイルガは闇を見つめながら、確かにそうつぶやいた。俺の聞き間違いでなければな。
振り返り、問い返す。
「養子? おまえが?」
「ああ。庶子でさえない。俺には貴族の血など一滴たりとも流れていない。フレージス家の嫡子イルガ・フレージスは別にいた」
頭が混乱する。
リオナが名乗ったミク・オルンカイムでもあるまいに。
「ああ……? 意味がわからんぞ」
「何のことはない。本物のイルガ・フレージスは、例の戦争で殉死していた。初陣だったそうだ。俺はその代わりにフレージス家に迎え入れられた出生不明の孤児だった」
言葉もない。
イルガは闇を見つめたまま、唇だけを動かす。
「フレージス侯爵にとっては、失われた子の代わりだったのだろうな。あるいは侯爵夫人の涙を止めるためのコルク栓だったのか。……笑えるぞ、本物とは年齢すら違ったのだからな。ただ、俺の髪色と顔つきが、幼い頃のイルガ・フレージスと少し似ていただけのようだ」
フレージス侯爵によって貧しい孤児院から連れ出された子供は、イルガと名付けられ、夫婦に可愛がられた。子供が本物のイルガとは違う行動を取っても、彼らは微笑みながら本当の我が子であるかのように見守ってくれた。
俺は尋ねる。
「おまえは自分が……その、ああ……。引き取られた当時から知っていたのか?」
「俺が代替品に過ぎなかったということをか?」
皮肉の混じった言い方に、うなずくことすら躊躇われた。
だがイルガは構わず続ける。一切こちらに目を合わさずに闇を眺めながら。
「当然、最初は知らなかった。フレージス夫妻も教えてはくれなかったからな。いや、認めたくはなかったのだろうな。俺が偽物であることを」
「そう……か」
「とにかく俺は何も知らないまま侯爵家に迎え入れられ、衣食住に困ることのない幸せな毎日を過ごさせてもらった。だから自分は運良く神に愛されたのだと思っていた。彼らを本当の両親であるかのように愛した」
けれどもある日、使用人のひとりが口を滑らせた。夫妻が少年にだけ巧妙に隠していた、本物の実子――少年が自身に与えられた名前と同じ名を持つイルガ・フレージスのことを。
そこから自力で調べ、少年はイルガ・フレージスに辿り着いた。
少年は知った。
夫妻から与えられた自分の部屋には、かつて本物のイルガが住んでいたことを。
成長過程において夫人から与えられてきた服は、かつて本物のイルガが身につけていたものであることを。
この優しい両親に本当に愛されていたのは名もなき少年ではなく、本物のイルガであることを。
――俺は、ただの身代わりに過ぎなかった。
夫妻が自身に向けてくれていた愛は、すべて仮初めのものだった。姿が似てさえいれば、その役割は己でなくともよかったのだ。誰でもよかったのだ。
なぜなら、本来それを受け取るべきだった存在は、もうこの世にはいないのだから。
「膝から崩れ落ちたよ」
「ご両親を憎んだか?」
イルガが鼻で笑った。
「まさか。いまさら彼らを憎むことなどできはしない。俺が彼らからどれだけ多くのものを与えられてきたことか。でも、それでも、俺は、彼らに……名もなき少年である俺自身を見て欲しかった」
イルガは老人のように、疲れたため息をつく。
虚空を見つめて。
「ただ、もう、仮初めの愛ならいらない。だから俺は本物のイルガ以上に、イルガ・フレージスになることにした。ガリアの誇る名門貴族であること。勇敢なる正騎士であること。血統や才などなくとも、俺にはそれらが必要なんだ」
「……」
「クラスをふたつに割ったと言ったな。ノブレス・オブリージュ。貴族には貴族の成すべきことがある。少なくとも四班五班の彼らはまだ騎士爵ではない。戦いの義務を背負うのは、正騎士である貴族のみだ」
闇を見つめた少年は、最後に付け加えた。
俺に笑顔を向けてだ。
「だが、先ほどのリョウカのご高説はもっともだ。彼らが本当に騎士を目指してレアン騎士学校に入学したのかまでは知らないが、生き残るためには戦いから遠ざけるのではなく、俺たちも彼らも、もう少し強くなるべきなのだろうな」
俺が無言でかろうじてうなずくと、イルガが続ける。
「何が貴族の義務だ。偉そうなことを言ったところで、俺の力では何も果たせやしない。もっと強くならねば。一刻も早く。本物にならなければ」
「……」
「おまえやリョウカはもちろん、スケイルやベルツハインのように、強くだ。ああ、実のところ、もう少しくらいは自分自身でもやれる男だと思っていたのだが、ここにきて、ふがいなさばかりが露呈して、情けなくなった」
ようやくだ。ようやく、イルガが俺に視線を向けた。
何も言えずにただ呆けている俺を見て、やつの笑みが苦いものへと変化する。
「俺は弱いなあ」
それは弱さではない。剣ではない。血統でもない。おまえの強さは別にある。
精神力だ。だから弱さを認められる。そう言ってやりたいのに、間抜けな俺は喉が詰まって声が出せない。
イルガが指先で頬を掻く。気まずそうな表情でだ。
「要するにだ。俺はただ養父母から愛されたかった。侯爵夫妻が俺に与えてくれたものよりも大きな幸せを、本物のイルガが養父母に贈るはずだったものよりも大きな幸福を、俺から父様や母様に贈りたいと思ったんだ。いつか彼らが俺のことを誇り“おまえは本物の息子だ”と言ってもらえるように」
それが貴族であること。立派な正騎士であること。そして彼らよりも長く生きること。
すべては本物のイルガを超えるために。仮初めではない愛を得るために。
俺は喉から声を絞り出す。細く震えた声を。
「……本物以上に、本物になろうとしていたのだな……」
「ああ」
「……だったら、死んでいる場合ではないだろう……」
利用しろ。俺たちを。ヴォイドやリオナや平民も利用しろ。
目的を達成するために。
「ふふ、そうとも。だから本当はスケイルやベルツハインにも感謝している。あんな態度を取ってしまったけどな。ただ、貴族ではない彼らが命をかけて俺を守るようなことは二度とあってはならない。俺が誇り高き貴族で、勇敢なる騎士で、そして何よりイルガ・フレージスでいるために」
ふぅと、イルガが今度は爽やかに長い息を吐いた。
「平民に守られるくらいであれば、煙たがられた方がまだマシというものだ。だから俺は彼らを遠ざけた。本気で腹を立てていたのは、弱い自分自身に対してだ」
胸に詰まっていたものをすべて吐き出したからだろうか。イルガの表情が少し晴れたように見えた。
「それだけなんだ。ただの甘ったれだよ。――どうだ、これで半分くらいの借りは返せたか?」
「……もう、十分だ……」
イルガが懐から取り出したチーフを、俺の頭の上にポンと乗せる。
「だったらさっさと泣き止んでくれ、エレミア。勘弁しろよ。みんなに見られたら俺が何かしでかしたみたいだろ」
人の過去など、そう簡単にほじくるものではない。オウジンのことも、イルガのことも。
借りたチーフは鼻水まみれにしてやった。
楽しんでいただけましたなら、ブクマや評価、ご意見、ご感想などをいただけると幸いです。
今後、作品を作っていく上での糧や参考にしたいと思っております。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
明日の投稿はお休みです。
2~3日後には投稿を再開する予定ですので、お時間ありましたら、またお付き合いいただけますと幸いです。




