第88話 大地の精霊とともに在る者
ベルナルドが両腕を組んで炎を見つめながら、ぼんやりとつぶやいた。
「火勢が足りない。エレミア、腰のものを貸してくれ」
「この脇差しのことか?」
「ああ、そうだ」
俺は脇差しを抜いて手首を回転させ、刃を下向きにして差し出した。
「スライムには効かないぞ、どうするんだ?」
「こうする」
ベルナルドは脇差しを受け取ると、己の長い髪にあっさりと刃を入れた。長身のベルナルドの腰まであった長さの髪だ。それを何の躊躇いもなく。
切った。
「うむ」
その髪の束を、やつは炎へと投げ込む。
ぼわっ、と音がして、瞬時に炎が広がった。そのときになってスライムは初めて後退を試みる。だがすでに遅い。
「髪は、よく燃える。ちょうど、切ろうと思っていたところだ」
あるいはそのまま直進すれば、まだ消せる程度の炎だったかもしれない。だがスライムにそこまでの知能はなかった。躊躇い、後退したからこそ炎は広がりを見せ、やつへとその牙を剥く。
炎はすでにスライムへと燃え移っていた。いまやランプの燃料で濡れてしまった黄土色の全身を、じわじわと侵蝕しつつある。
無言で差し出された脇差しを受け取り、俺は腰の鞘へと戻した。
ベルナルドは火から目を離さない。
「まだ、少し弱い。消えてしまうかもしれん。――他に燃やすものを持っているなら、みんなもくべてくれ」
「わ、わたし、紙束を持ってきた! マッピングするつもりだったから!」
そう言って、レティスがノートを破って投げ込む。
それを皮切りにして、他の生徒らが次々とチーフや切った髪、金属糸ではない普通の羽織などを投げ込み始めた。
あっという間に炎は拡大し、スライムがその場で巨大な全身を苦しげによじらせる。
強い火勢に、ベルナルドを除く全員が一歩後退した。
「まあ、こんなものだろう」
俺は思った。
断じて剣士の戦い方ではない。だが、やつの冷静さを含め、これはとても大きな力だと感じる。
いやはや、なかなかにおもしろい男だ。前世でもいなかったぞ、こんなやつは。
胸が躍る。ああ、楽しい。楽しいことばかりだ。学校というものは。意外性を意外性で上回っていく。若さというのは実におもしろい。
「おまえはすごいな、ベル」
「そうでもない」
もはやあのスライムに自力で炎を消す力はないだろう。死を――燃え尽きるのを待つだけだ。
石のダンジョンであれば、他のものに引火する恐れはない。ここはすでに木の根も届かぬ深度だ。酸素がなくなる前には確実に燃え尽きているだろう。
だがベルナルドは少し不満げな表情をしている。
「ふむ……」
背中からハルバードを取り出し、トドメでも刺すのかと思いきや、その刃をまだ炎に包まれていないスライムの端へと叩き下ろした。
「むん!」
切り取った小さな欠片を刃で掻いて、炎から遠ざけている。
本体は燃え尽きても、あれではあの一部が再びスライムとして活動を初めてしまうだろう。現にちぎり取られた部分はすでに意思を持ったかのように独自に動いて、炎から遠ざかりつつある。
小さな小さなスライムだ。それこそ子犬程度の大きさの。やがてそのスライムは、瓦礫の隙間へと染み込むようにゆっくりと逃げていった。
ベルナルドが、今度は満足げにうなずく。
「これでよしだ」
不思議に思った俺は、ベルナルドに尋ねた。
「おい、ベル。なぜ、わざわざ逃がすんだ……?」
「うむ。このダンジョンの生物的な仕組みを、おれたちはまだ、理解できていない。へたに生態系のバランスを、崩さぬ方がいいだろう」
「どういう意味だ?」
大男がうなずく。
「熱心だな。エレミア」
「ああ、いや、おまえを理解したいと思ったんだ。なぜか。うまくは説明できんが」
ベルナルドが「そうか」とつぶやき、目を細めた。
そうして口を開く。
「例えばな、前回のカリキュラムで倒したゴブリンの死骸が、まだここに残っていたとしたなら、それらはすでに腐り落ち、新たな病原の発生源となっていたやもしれん。あのスライムにも、その地に役割というものがある」
「ああ……」
考えたこともなかった。
大部分を炎に呑まれてしまったゆえ、ダンジョンの掃除屋としてのスライムはずいぶんと小さくなってしまったが、食糧となるゴブリンの大半を俺たちが間引いてしまったいまとなれば、あれくらいの大きさがちょうどいいのかもしれない。
燃やしながらそんなことを考えていたのか。この大男は。
イルガが感心したように口を開いた。
「さすがだ、ベル。部族の知恵は俺たちにはないものが多い。おまえの存在には救われる」
「すべての生き物は、大地の精霊とともにある。命はやがて大地へと還り、空からの恵みで目を覚まし、そしてまた命へと還ってくる。生と死は循環している。そうして世界は成り立っている。循環を断ってはならない。これがおれたち、ヤーシャ族の教えだ」
イルガが誇らしげに俺に笑いかける。
「どうだ、ノイ。俺たちのパーティも捨てたものじゃないだろ」
「……ああ」
両腕を広げて、イルガは朗々と言った。
「みながそれぞれその場で考え、最も効果的な方法を持つ者が対処にあたる。他は全員で手伝うんだ。そうして幾多の困難をも乗り越えていく。我らは勇敢に戦い、そして下民たちを正しく導く存在だ」
そこまでわかっているなら。
おまえにそれがわかっているならば、なぜクラスを割るようなことをするんだ。そんなにも血統や身分が大切なのか。能力は血統では測れないというのに。
血統も身分も蹴散らして歩いてきた俺には、理解できそうにない。
オウジンも俺と同じような表情で、イルガを眺めている。だがその口が開かれることはなかった。俺もだ。うまく言葉にはできない思いだけが、胸の中でもやもやと渦巻いている。
「……」
ベルナルドがイルガとオウジンの背中を、大きな手で叩いた。
「――さあ、進もう。リーダー」
屈託なく笑いながら。
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