第68話 その後の猫
朝、目を覚ますとすでにリリの姿はなかった。
別段これは珍しいことではない。職員会議がある日や、何かしらの準備が必要な授業のある日、あるいはイベント事のある日は、教官の朝は早くなる。さらにリリに至っては、それらに加えて要人警護や騎士団の応援要請にまで、何かあるたびに駆り出されている。
おかげで一組は全5クラスの中で最も自習が多い。
今朝の用事は、おそらくは王都に戻るキルプスの護衛だろう。
つまらん用事であれば、あいつは前日の時点で俺に教えてくれる。それができない用事は、極秘で来校していたキルプス関連や、ダンジョンカリキュラムのような授業関連くらいのものだから、あいつが黙っていなくなると余計にわかりやすい。
さしずめ今朝の用事は、中継地点となる宿屋までキルプスを護衛し、そこで近衛騎士に役割を引き継がせる。まあ、概ねそんなところだろう。
俺は黙々とストレッチをこなす。
子供の肉体というものは恐ろしい。性能は軒並み下がったが、疲労がほとんど残っていない。一晩寝ればほぼ全快だ。なんという回復力か。
顔を洗って制服に着替え、鞘ベルトを腰に巻く。
リリの一撃を受け止めたグラディウスは、すでに刃が欠けている。粉々に砕かれたホムンクルス戦のあとに、わざわざ備品倉庫から新調したばかりだったというのに。配給品では仕方がないとはいえ、ナマクラはこれだから面倒だ。安物買いの銭失いだな。
ため息をついて腰に差した。今日中にはまた交換だ。
リリから預かった鍵を手に、ドアを開く。
朝食は食堂だ。この時間は混雑する。それが面倒だから普段は食堂には行かず、前日に食堂の購買コーナーで買っておいたパンや惣菜をリリと食べることにしているのだが、昨夜はそんな暇さえなかった。キルプスの護衛に張り付いていたリリもだ。
次にいつありつけるかわからない戦場ではないのだから、一食くらい抜いても問題はないのだが、早く肉体を大きくしたいいまは貴重な栄養と言わざるを得ない。
ドアに鍵を掛けて歩き出した瞬間、横目に入った壁にもたれるリオナの姿に、俺は野生動物のように飛び跳ねた。
「うおわっ!?」
び、び、びっくりした……。
「……おはよ」
「気配を消して待つな! 心臓が止まるかと思っただろうが!」
「んー……」
リオナが指先で髪の毛を弄りながら、拗ねたようにつぶやいた。
「だって教官フロアだもん。生徒がいたら不自然じゃん」
「だったらせめてノックしろ」
「リリちゃんが出てきたら気まずいじゃん……」
「情けない声を出すな。リリなら今朝は早くから出ている。もういない」
「そーなんだ」
俺が歩き出すと、リオナは従うようについてきた。
珍しくしおらしい。
「で、なんで俺を待ってたんだ?」
「他の人に会うの怖いもん」
「安心しろ。誰もおまえの悪行は知らない。ただの病欠扱いになっている。だから真実を知っているのはヴォイドとオウジンくらいだ」
「……そのふたりのこと言ってんの。特に野犬の方は殺しにかかってきそうじゃん」
学校で殺すか、阿呆め。そんなことをするのは暗殺者くらいだ。
「結局あの不良は何だったの? 何であたし、あいつにマークされてたんだろ……。妙な動きをした覚えはなかったんだけどな……」
おまえは妙な動きしかしていなかっただろうが。別の意味でだが。
「……」
「あたしよか不良の方が得体の知れないやつだよ。まあそれでも、あたし以外にとっては良い人間なんだろうけどさ」
説明してやりたいのはやまやまだが、同時に俺自身の正体を話さなければならなくなってしまう。難しいところだ。
「ヴォイドが怖いのか?」
「へ?」
「あいつは身体が大きいから。その……なんだ……。……昔を思い出すかと思ってな」
リオナの過去の話だ。
あいつは大人にひどい目に遭わされながら過ごしてきた。心身ともに傷のひとつやふたつ、あってもおかしくないだろう。
女子寮から出て食堂の入り口までやってくると、人だかりが増えてきた。購買コーナーの方にも生徒たちが詰め寄せている。
ああ、糞。面倒な。人ごみが引くまで少し待つか。
「そういうんじゃないよ。だってヴォイドはまだ子供じゃん。あんなん全然怖くない。どちらかと言えば、陛下の方がよっぽど怖かったくらい」
親を悪し様に言われるのは、少し哀しいものだな。子になって初めて知った。前世ならば笑って同意していたところだが。
「優しいぞ、キルプス――陛下は」
「うん、知ってる。あたしを赦すくらいだもん。でもやっぱりだめなんだ。目の前にいられると身体が竦んじゃう。反射的に殺さなきゃって思っちゃうくらい」
リオナが続ける。
「ううん、あの怖さは、それだけじゃなかった。もっと根源的な何か。正直大人の男の人ってだけで怖さはあったけど、たぶん、それとは別に」
うまく言葉にはできないが、そっちの恐ろしさは俺もわかる気がする。得体の知れない大きなものに呑まれてしまうような、そんな恐ろしさだ。
善し悪しはあれど、おそらくそれが王の資質なのだろうと、俺は考えている。
「キルプス陛下、切っ先が喉に迫っても瞬きひとつしなかった。表情ひとつ変えなかった。ただあたしの目を見てただけ。抵抗もしないのに、不思議と殺せる気がしなかった。あんな対象は初めて……」
リオナが自分の手に視線を落とした。指を畳んだり伸ばしたりしている。
迷っているな。
暗殺者は迷わない。やつらが最初に殺すのは、対象ではなく己の理性だ。しかる後に対象を躊躇いなく殺せるようになる。一流の暗殺者の完成だ。
だがリオナには、まだ理性の欠片が残っているように見える。根拠のひとつは、切っ先を突き立てる直前、こいつがキルプスに謝っていたことだ。
理性のない暗殺者は感情の介在しないビジネスで対象を殺すが、なり損ないは生きるために迷いながら対象を殺す。リオナはおそらくまだ後者に指を引っかけているように思える。
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