第62話 遙か遠き日の尻叩き
服は生乾きだったが、どうせこれから雨に打たれるのだ。肉体が温まっただけで十分。
レアンダンジョンから出ると、雨足はさらに強くなっていた。うんざりするくらいの土砂降りだ。よりによって。
学校を飛び出してくる際に雨除け用のローブを着てくるべきだった。
「滝のような雨だねぇ。あたしたちの愛の巣に戻ろっか」
「巨大なスライムが闊歩し、無数のゴブリンの蠢く規模すら不明の大規模ダンジョンを巣にはしたくない。雨ならむしろ好都合だ。見回り騎士も出ていないだろう」
「そっかぁ」
俺もリオナも制服の上着を頭に被り、雨除けにして歩き出す。
雨は人々だけではなく魔物も嫌う。喜ぶのは植物くらいのものだ。おかげでダンジョンを出て学園都市レアンの門をくぐっても、人の姿はなかった。正確には門衛の姿はあったのだが、建物の中でぼーっとしていたから素通りできた。
足音も雨音が塗り潰してくれる。
街中を走り、俺たちはレアン騎士学校の門をくぐる。校舎に入る際にはさすがにリオナは躊躇ったが、誰もリオナのしでかしたことを知らない旨を教えてやると、恐る恐る入ってきた。
どのみち授業中だ。ほとんどの学生は教室内にいる。ヴォイドやオウジンもだ。
身を屈めながら本校舎を走り、渡り廊下を通って男子寮を上がっていく。
だが理事長室のあるフロアにまでやってきたとき、俺は自身の認識が甘かったことを思い知らされる。
そこには戦姫リリ・イトゥカがドアを守るように立っていたからだ。
リリはすでに抜いていた。おそらく近づいてくる俺たちの気配をつかんでいたのだろう。抜き身の剣を下段に構え、すでに膝を曲げていたのだ。
上がってきた俺の姿を見て、目を丸くしたのはわずか一瞬だった。
俺の背後、続いて上がってきたリオナの姿を見るや否や、リリはすでにフロアを蹴っていた。俺の腹部ほどの高さで滑るようにリリが急速に迫る。
「リ――!」
声すら間に合わない。
リリは俺の脇をすり抜けると、背後のリオナへと長剣を一閃する。俺はとっさに抜いたグラディウスの切っ先で、その軌道を逸らせるだけで精一杯だった。
ギィンと音が鳴り響き、リリがフロアを両足で掻いて反転する。
グラディウスをつかむ両腕がじんと痺れた。
「どきなさい、エレミア」
「待てリリ! 事情を――ッ」
俺がリリとリオナの間へと身を滑り込ませた瞬間、今度は俺の遙か上空を跳躍で越えながら、リオナへと刃を振り下ろす。
「屈め!」
「~~ッ!?」
叫ぶと同時に後方へと跳んでいた俺は、小さく丸まったリオナを庇うようにグラディウスでその刃を受け止めた。
上方から押し潰されるような衝撃が全身を貫く。
「ギ……ッ話を……、……聞け……ッ」
重い。本気で殺す気だ。
リオナの手が腰のレイピアへと伸ばされたのを見て、とっさに叫んだ。
「抜くな! リオナ!」
「……ッ」
「おまえが抜いたら何もかも台無しだ! 俺を信じるって言ったろう!」
直後、脇腹に踵を入れられる。後ろ回し蹴りを貰ったんだ。リリから。俺は側頭部からフロアに叩きつけられ、転がって壁に背を打った。
「げあ……っ」
「エルたん!」
レイピアを抜かなかったリオナへと、リリが疾走する。刃を引いて、濃厚な殺気を放ちながらだ。
俺はベルトから引き抜いた鞘を投げて、リリの足にぶつける。
「……っ!?」
リリがこちらに気を取られた一瞬を利用して再びリオナの前へ走り込みながら、長剣の刃をグラディウスで弾き上げた。
金属同士のぶつかり合う音と火花が散った。
肉体に染み込む条件反射。
「~~ッ」
「――ッ」
俺たちは互いに追撃に移ろうとして――躊躇う。
リリの相手は俺ではないし、俺にもリリを斬るつもりはない。だが構えは解けない。
膠着が生まれた。
俺はグラディウスを正眼に構え直す。ちなみにスティレットは鞘ごとベルトから抜いて捨てた。
重い。身を軽くしなければ、リリの動きについてすらいけない。
ああ。だが。
「そこをどきなさい」
「ふー……。この分からず屋め」
師を蹴り飛ばすやつがあるか。阿呆が。
頭にきたぞ。ああ。頭にきた。久しぶりにケツでも叩いてやろうか。
あの日。黙って俺の後をついて戦場にまでのこのことやってきてしまったあの日の夜のように。
リリが再び地を蹴った。
「陛下を殺させるわけにはいかないの。それは巡り巡って何百万もの命に繋がる」
なおも俺を迂回してリオナだけを狙おうとするリリへと、俺は横っ飛びで肩からあたっていく。
馬鹿が。この期に及んで俺を無視するとは。
「リ、リイィィィィ!」
「あ――ッ」
意外な行動に面食らったリリが、わずかによろけた。その隙に斜め下へと引いていたグラディウスを、俺は力一杯跳ね上げる。
「ぐるあああああッ!!」
「ちょ――と」
むろん斬るためではない。刃の腹で、リリの尻を狙ってだ。
ぶおん、と風が巻き起こった。あたる寸前、一瞬早く飛び退いたリリが、戸惑うような視線を俺に向けてきた。
「な……にを……?」
すっとぼけた顔をしおって。
「避けるなぁぁぁぁぁーーーーーーーーーーーーーーッ!!」
「~~っ!?」
雷轟のように怒鳴りつけてやると、ビクっとリリが震えた。
「頭にきたぞ! 俺の言うことを聞かん馬鹿者には、お仕置きだと言ったはずだッ!!」
「へ? え、ちょっと待――っ」
だが俺のぶん回したグラディウスは、またしても空を斬る。リリの尻は遙か遠く。
昔であれば俺の腕は長く、リリがちょこまかと逃げ回ろうがその尻に届いたものだ。だが残念ながらいまの俺の腕は短く、リリの足は長い。
それがまた妬ましい。俺の尻についてくるばかりだったガリチビ如きが。この俺よりも足が長くなるだなどと生意気極まりない。
「ぉぉお、らああああああああ!」
俺は地を蹴って体勢をさらに低くし、絨毯の上を滑りながらリリの尻へと向けてグラディウスの腹をぶん回す。リリが自らの尻を両手で押さえながら逃げ出した。
「待ちなさい! 待って!」
「もう遅いわァァァ!」
ぶぉん、またしても空を斬――いや、叩く。
いまやリリはリオナを放置して、俺から逃げ回っている。
「待って、待ってブラ――イ?」
リリの言葉と行動が急停止した。
その隙に追いついた俺は、グラディウスの腹でリリの尻を叩きあげる。スパァンという良い音がして、リリが尻を押さえながら飛び上がった。
「ああっ!! うぅ~……っ」
そのまま数歩、前によろける。尻を両手で押さえて。
ようやくあたった。あててやったぞ、はっはっは、ざまあみろだ。
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