第60話 ウェストウィルの異変
リオナ・ベルツハイン。その名ですら確かではない少女は、エギル共和国の片田舎ウェストウィルで産まれた。農業と畜産業を生業とするウェストウィルを治める領主こそが少女のベルツハイン家だった。
当時泥沼化していた共和国と王国との戦争は、剣聖と呼ばれるひとりの男の登場によって、徐々に王国側の勝利へと傾き始めていた。それまで防戦一方だった王国が、共和国の領地をいくつか奪い取ったのだ。
ガリア王国の若き国王キルプス・オウルディンガムは、奪ったエギル共和国のすべての領地を共和国へと返還することを条件に、エギル共和国のルグルス・ネセプ大統領へと停戦の申し出を打診する。
ネセプはそれを受け容れ、停戦交渉は締結したかのように見えた。だがその年、戦地より遙か遠方に位置するウェストウィルに異変が起こった。
王国軍の猛将マルド・オルンカイム辺境伯の治める共和国との国境線からウェストウィルまでは、共和国の首都を通って横断せねば辿り着くことができない。馬に乗っても数十日をゆうに要する距離がある。
それゆえ、ウェストウィルは両国の戦争に巻き込まれることはなく、平穏無事に過ごせていたのだが、ある日突然蔓延した病によって、ベルツハイン家を含む住民すべてが、ウェストウィルの実り豊かな地とともに死に絶えた。
その後の共和国軍の調査により、水源からは共和国では産出記録のない毒物が検出される。ネセプ大統領は大陸に向けて声明を発表する。
――これは卑劣な王国軍による工作である!
キルプス国王は即座にそれを否定。だが彼が推し進めていた停戦交渉は、キルプス国王による共和国への領土返還がなされた後に、ネセプ大統領によって破棄される形となった。
領土返還の直後だったのだ。この“ウェストウィルの異変”は。
そうして戦争は再び泥沼化の様相を呈し、戦渦の中で剣聖は死亡。その数年後、彼に代わる戦姫リリ・イトゥカが誕生するまで、停戦交渉が再開されることはなかった。
いまでこそリリの活躍のおかげで停戦協定は結ばれたが、この一件は未だに両国の間で燻り続けている。憎しみは消えていない。
だが俺の知るキルプスは、戦地から遠く離れた無関係の地を卑劣な毒で殺すような男ではない。ならば何者がウェストウィルを死の土地とさせたのか。
あまり考えたくはないが、領地の無条件返還を望む男がいるとするなら、それは共和国大統領ルグルス・ネセプの他にいないだろう。
小さな焚き火にあたりながら、俺は呻くように言った。
「ベルツハイン家……。そうか、思い出した。おまえはベルツハインの生き残りか。公式発表ではみな死に絶えたとされていたが」
「よく知ってるね。そんな古いこと」
「あ。ぶ、文献を読んだ」
「そっか。本当のところはわかんないんだ。リオナ・ベルツハインらしいってだけ」
リオナが俺を背中から抱きしめながら、頬を寄せる。
「らしい?」
「うん。あたしは産まれたばかりだったから、正確なことは何も覚えてないもん」
「そうか。そうだな」
だからリオナ・ベルツハインであることさえ曖昧なのか。その上でいくつもの名を名乗って生きてきたとあらば、なおさらだ。
ああ。こいつは父の愛も母の愛も知らずに育ったのだな。愛し方を知らないわけだ。
「それからどうした? リオナは赤ん坊だったのだろう?」
「あたしはベルツハインの生き残りとして、共和国政府に保護されたの。そこである程度まで育てられてからウェストウィルの事件を聞かされた。おまえの家族を殺したのはガリア王国のキルプス国王だって」
洗脳教育か。幼い頃からそう教わり続けてきたなら、そこから抜け出すのは難しいだろう。
「だから暗殺者として、諜報員としての訓練を受けてミク・オルンカイムに成り代わり、レアン騎士学校に潜り込んだんだよ」
「キルプスを憎んでか……」
リオナが少し笑った。
「ううん、そっちは別に。だって家族を殺されたって言われてもピンとこないもん。0歳や1歳でしょ。両親の顔なんて覚えてないよ。……あたしが本当にベルツハインの娘だったかだってあやふやなんだから」
「ではなぜ、そんな生き方をしているんだ」
リオナが囁くような声でつぶやく。
「そういう生き方しか教わらなかったから。そういう生き方しか知らなかったから。この学校にくるまでは」
俺の後頭部にリオナの額がこつんとあたる。
「……あとはもう知っての通り」
「もうひとつだけ教えてくれ。あのホムンクルスはおまえが放ったのか?」
リオナが首を左右に振った。赤い髪が頬を撫でて少しこそばゆい。
「ううん。違う。たぶんあれは他の諜報員。同じようにリリちゃんの暗殺が目的だったんじゃないかな。それでね、あれでわかったことがあるんだ」
リオナが少し言い淀んでから、弱々しい声を出す。
「……あたしも捨て駒だったんだってこと。……最初からリリちゃんの暗殺に期待なんてされてなかったんだ……」
なせれば儲けもの程度か。まさに捨て駒だ。
「だろうな。あのバケモノには見境がなかった。へたをすればおまえも殺されていた。それは俺が保証する」
「……うん……」
「あれとリリをぶつけることが本来の目的、あるいはホムンクルスの力を試す実験だったのだろう。だがあれがリリと接触する頃にはもう、俺たち一組三班がその力を大きく削いでいた。正しい実験結果など得られるはずもない。ざまあみろだ」
しかしそれでも。
剣聖の記憶を継ぐ俺や、突出した技能を持つオウジン、優れた肉体性能のヴォイドがいなければ、ホムンクルスは苦もなく一組全員を全滅させ、無傷のままリリと戦っていただろう。
俺の見立てでは、それでもリリが敗北することはあり得ないだろう……が、こうも水面下で動かれては、何とも気分の悪くなる話だ。
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