第42話 そこに息衝く剣
世界が赤い。
心音が聞こえる。己の心音だ。
血に染まる世界の中を、やつが歩いて近づいてきていた。
首に刺さる刀の刃を素手で引き抜く。みるみるうちに傷が埋まり、噴出していた血の霧が消えた。切り離してやった右腕もまた、生えてこそいないものの傷だけは肉で埋もれてしまっている。
「……バケモノめ……」
右の視界が闇に染まる。ついに視力が消えてしまった。
やつは俺の目の前で立ち止まると、膝を曲げた。そうして俺の髪を左手でつかみ上げ、立ち上がりながら空中に吊り上げる。
ああ、己の間抜け具合に腹が立つ。
油断した。勝ったと思い、油断した。致命的だ。ブライズの肉体であれば耐えられただろう。まだ動けただろう。だが、十歳のエレミアの肉体では、もはや満足には動けない。
だがバケモノの向こう側には、若いクラスメイトらの絶望した顔が見える。
やつらを救わねば。抜け。スティレットを抜け。そんなことを考えて手を動かしたとき、バケモノが口を開いた。
初めてだ。バケモノは、確かにこう言った。
「……ニ、クイ……。……ニ、ンゲン、殺ス……」
憎しみを俺へと叩きつけるように。
「……オ、レ……タチ……ハ……生キ……テ……」
そうして俺の髪を放し、瞬時に拳を固めた。
その拳はもう光っていない。やつにもかなりのダメージの蓄積があるようだ。
俺はかろうじてスティレットを抜いて、放たれた拳を刃の腹で受けた――瞬間、スティレットの刃は砕けて手の中から吹っ飛ばされ、両肩に衝撃が走って、落下していたにもかかわらず足は地面につくことなく後方へと吹っ飛ばされ――。
ああ、死んだな。転生というものは、一度きりの奇跡なのだろうか。
見るまでもなく石の壁が迫る。頭から叩きつけられて終わりだ。
けれどもまさにその瞬間、壁と俺の隙間に飛び込む影があった。
「エルた――ンッ!!」
ぐちゃり、とふたり分の肉体が拉げる音がした。
ミクだ。馬鹿め。こんなことをする余裕があるなら、ひとりで逃げればよかったものを。おまえの穏形術なら、あるいは逃げ切ることができたかもしれないのに。
俺はミクと折り重なって地面に伏した。
ミクが歯を食いしばり、血の泡を垂らす。刀もスティレットも失った。さすがにもう戦えん。肉体がぼろぼろだ。十歳の肉体は打たれ弱すぎる。
ああ。この程度、俺がブライズだったなら。
やつが再び歩いて近づいてくる。
このようなときだというのに、俺はリリの言葉を思い出していた。
――わたしは師と同じことをする。
――ブライズの家族になりたかった。
馬鹿が。エレミアを家族に迎え入れようとでもしたのか。
まさかな。
だめだ。考えがまとまらん。
歪む視界の中を、バケモノが歩いてくる。
ただ、もはや悠々とではない。あいつも限界が近いようだ。何かは知らんが生物である限りは、もはやまともに動ける出血量ではない。人間ならば死んでいる。大抵の魔物でも死んでいる。それほどの深手だ。
いまにも膝を折りそうに、右へ左へと揺れて、壁を手につきながら。迫る。
クラスメイトが全員で動けばどうにかなるかもしれないが、残念ながら怯えきった人間はいつの世でも戦力外だ。心がすでに負けている。戦う意思すら失われている。口々に何かを叫んでいるが、もはや聞き取ることもできん。
ああ、糞……。俺の後に続くのが、戦場のリリだったなら……。
……勝とうが勝てまいが……あいつなら……。
「……こ、こまで、か……」
思考が濁る。このときの俺は、もはや俺自身がエレミアなのかブライズなのかもわからなくなるほどに濁っていた。
魂が混ざり合う感覚だ。
バケモノが俺の眼前で立ち止まったとき、叫び続けていたクラスメイトの集団が割れた。その道を通って青の教官服が見えた。
「あ……?」
かつて流浪の民だった女は階段を四足獣のような速さで駆け下り、中段から長い髪と教官服のスカートを踊らせて舞うように飛ぶ。
抜き身の剣を引いた体勢で空中で身をひねって三度回転――風を切る音に反応してバケモノが彼女を振り返った瞬間、回転によって蓄えた力を刃にのせて、その喉元を通過させた。
ただ、一閃。ほとんど音すらなく。
まるで踊るように。
バケモノはおろか、俺とミクの位置さえ越えて、彼女は着地する。それも、残る回転力を利用して、バケモノのいる方を振り返りながらだ。
だが、逆にバケモノは再び彼女を振り返ることなく、その両膝をついた。
遅れて頸部がずれる。平行にだ。
「……っ」
どん、と鈍い音がして、バケモノの首が転がった。
頸部から上を失った胴体から、噴火のように血が上がったのは一瞬。数秒と経たぬうちに収まり、首の横へと胴体部が倒れ込む。
ざぁと、赤い水たまりが広がった。
それを確認してから、女は剣を腰の鞘へと収める。チンと鍔が鞘を打つ音だけが静かに響いた。
俺は閉じかけていた目を見開く。
前世と今世の狭間で濁っていた思考が、瞬時にして現実へと引き戻された。
「リ……リ……?」
彼女は俺の側に膝をついて、上体を引き起こす。
「エレミア、無事!?」
ああ、何ということだ。何ということか。
凄まじい。その一言に尽きる。とてつもない腕だ。バケモノの硬質化した皮膚などものともせず、その欠片すら砕くことなく、斬った。
切断面に一切の乱れがない。美しい。
ブライズを喪ってから、リリは急成長を遂げていた。キルプスは、ブライズの弟子だからリリを剣聖にしたかったのではない。
正真正銘の剣聖だ。
この細腕では、ブライズのような剛力はないだろう。だがリリは己で考え出した技でそれを補った。斬撃力を高めるための先ほどの空中での三回転は、その最たる例だ。
わかるだろうか。彼女は理解しているだろうか。
それはブライズの剣技を継がなかったからこそ、つまり“型無し”であるからこそ、体得することのできた新たな力だ。
リリ・イトゥカは型無しの強さを体現した。これこそがブライズの求めた剣術の理想、その完成形の一角だ。ああ。これほど、これほど心躍る瞬間があるだろうか。ブライズは遺せたのだ。血よりも濃い何かを、リリ・イトゥカの中に。
息衝いていた。形を変えたブライズの魂が。
俺は呻く。
「……リリ……」
リリが微かに目を細めて、安堵したように息を吐いた。そうして艶やかな唇を動かす。ジト目になって。
「イトゥカ教官、でしょう?」
この期に及んで。なんと強情な。
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