第41話 獣とバケモノ・死闘
己の右肩にオウジンの刀の峰をのせて左脚を前に出し、両膝を深く曲げる。前方に背を向けるほどに肉体をねじり、バケモノの襲来を待った。
額から伝う汗が目に入っても、瞬きはしない。
やつが不気味な笑みで、悠々と歩いて迫る。俺のことなど羽虫程度にも思ってはいないようだ。
「その余裕を命取りにしてやる――!」
注意をこちらに引くためにあえてつぶやいた瞬間、目が合った。
いや、赤一色の眼球だ。どこを見ているかなど判断できない。それでも獲物の群れの中に一匹だけはぐれた子供がいるなら、大抵のバケモノはそちらに注視することだろう。そうして真っ先に狙いにくる。
その瞬間は突然やってきた。
何の前触れもなく、やつが地を蹴った。口角を耳まで裂いたバケモノが、超高速で迫ってくる。
だから――。
こんな経験は初めてだろう?
俺はやつが地を蹴った瞬間、構えの姿勢のまま、自らもまた地を蹴って全速力で距離を詰めていた。一瞬の後にはもうゼロ距離だ。
思考する暇は与えない。やつの意識を速度で追い越してやったんだ。
瞬間、やつは蹈鞴を踏む。
――……ッ!?
惑ったな……ッ!!
だがもう遅い。懐に深く深く潜り込んだ俺に攻撃をしようにも、勢い余って拳の間合いすら通り過ぎ、それどころか互いに交差してしまっているからだ。
俺は足から滑り込みながらバケモノの股ぐらを通り抜ける――!
拳の間合いですら潰れる至近距離だ。当然、本来あるべき刀の間合いなど、とうの昔に過ぎ去っている。だが俺はあえて刃を背中側に引いた構えのまま突撃した。つまり、いまの俺の間合いは、己の後方にある。
ゆえに。
「おお――ッ!!」
交差の際、やつの脚部に刃を滑り込ませた。
動き波打つ面に対し、垂直に刃を入れて挽く。
キィィィと金属を擦り合わせるような音が響き、俺はバケモノの後方に、バケモノは俺の後方で足を止めた。
「糞!」
浅い。浅いどころか、刃は潜れなかった。
先ほどのグラディウスと同じく、皮膚の表面を滑らされただけだ。
岩斬り、真似事では斬れんか――!
だが。
同時に振り向いた直後、バケモノが俺を警戒するように距離を取った。今度は切っ先を照準するように合わせて、体勢を低く構える。
「いや」
俺は見ていた。
やつはとんでもない破壊力を持つヴォイドのブンディ・ダガーや、眼球を狙ったミクの刺突を回避しなかったくせに、オウジンの斬撃だけを避けていた。そしていま、俺の斬撃に戸惑いを見せた。
己を傷つけられる可能性のある武器と剣術を、本能的に理解しているようだ。ならばすべきことはひとつ。もう一度。いや、何度でもだ。
そう思った瞬間。
ピキリ……。
小さな音がして、やつの足から肌色の金属片のようなものが石床へと落ちた。今し方、俺が通してやった斬撃の痕だ。
斬れた。ほんの少し、浅く、浅く。皮膚一枚。だが。
そこから赤い血がわずかに垂れた。やつは血液と同じ色の真っ赤な眼で、膝にできた傷を不思議そうに眺めている。
「面に対し垂直に、斬るではなく、挽く。空振一刀流の岩斬りか」
完璧とは到底言いがたい。だが、真似事だとしても有効ではあるようだ。それどころか、唯一やつを斬ることのできる技。
そうとわかれば。
俺は小さな肉体をいかして、影の中を音もなく疾走する。
「よそ見をしている余裕があるのか?」
やつの胴へと刀を薙いだ。一瞬早く後退したやつの胸が、またしても浅く裂ける。
本来なら左脇腹から右脇腹を分断してやるつもりだったのだが、エレミアの肉体の小ささによる踏み込みの浅さが仇となった。
「ちぃ……!」
やつは傷をものともせず、後退の後にすぐさま反転攻勢に出てきた。
腕をぶん回して俺の頸部を薙ぎ払う。とっさに刀で受け流しかけて思いとどまり、俺は首を倒した。耳たぶを掠めて暴風を伴った腕が通過する。
鋭い痛みが走った。
視界の隅を、汗と血の雫が真横に飛んでいく。
「……ッ」
こんなものを受け流したら、刀が折られてしまう。そうなれば終わりだ。幸いにも持って行かれたのは耳たぶの肉片のみ。
まだやれる。
「おおッ」
反撃に出ようとした瞬間、やつの蹴り足が飛んできた。刀を持つ両腕をたたんで自ら後方へと飛び退きながら、やつの足裏を受ける。
「ぅぐ!」
直後、世界が反転した。
凄まじい勢いで吹っ飛ばされた俺は空中で後方回転し、どうにか両足を掻いて滑りながら着地する――が、俺が視線を上げたときにはもう、やつは眼前に迫っていた。
真っ赤な眼球で俺を見下ろし、疾走しながら光る拳を突き出して。
ダメか――。
「~~ッ」
だが、その拳が俺の額を貫く寸前、背後から忍び寄った人影によって、バケモノの腕は止められていた。
無意識に閉じた目を開けたとき、衝撃ではなく血の雨がボタボタと周辺に降り注ぐ。
「ヴォイド!?」
「があああああああッ!!」
ヴォイドは両腕をバケモノの右腕一本に回し、全身で抱え込むようにしてやつの光る拳――ではなく腕を止めてくれていた。
そこら中に飛び散った血液はバケモノのものではなく、すべてヴォイドのものだ。そうしてあいつは叫んだ。最後の力を振り絞るように、戦場中に轟く檄にも似た、魂すら震わす声で。
「やれンだろッ!! エレミアァァーーーーーーッ!!」
俺はたったひとりで戦っていた。冷たく暗い地の底で、ひとりで剣を振るっていた。
瞬間、炎が灯る。
小さな胸の中で、熱く熱く膨れ上がる。冷気を押しのけ、爆発的に広がって、全身を呑み込んでいく。
俺の中にいる獣が呼応し、咆哮を上げた。
「おおおおおおっ!」
ヴォイドが動きを止めてくれている。いまなら真似事でも。
迷いはない。俺は立ち上がると同時に、大上段からバケモノの頭部へと刃を下ろす。面に対し垂直に、触れた瞬間に、挽く。
バケモノが必死の形相で首を倒してそれを避けた。
構うものか! 命を絶てぬならば肉を削ぎ、骨を断つのみ!
刃がやつの右肩へと吸い込まれていく。
キィィィ、と軽い音がして、バケモノの肉体から右腕が外れた。当然、それをつかんでいたヴォイドも石床を転がる。
次の瞬間、鼓膜をつんざく悲鳴が上がった。
――ガアアアアァァァァァァーーーーーーーーーーーーーッ!?
右肩から噴水のように血を噴出させながら、バケモノが左手で傷口を必死で押さえて悶えている。
「いまだ、ぶっ殺せぇぇーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!」
「おお!」
ヴォイドの叫びが聞こえるより早く、俺は苦しむバケモノの頸部へと、刀の刃を横薙ぎに走らせる。面に対し垂直に。
バケモノの硬い頸部の皮膚に、刃が入った。俺はそれを挽きながら斬る――が、刃はその中央まで入ったところで骨にあたって止まり、折れ曲がってしまった。
それが支給用に用意された安い刀の刃の限界だったのか、あるいは慣れない剣技の真似事をした俺の腕の未熟さが原因だったのかはわからない。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
それでも、動脈は断った。まともな生物ならば生きてはいられない。現に凄まじい勢いで、頸部から血液が霧のように噴き出している。
終わりだ。俺は長い息を吐いた。ヴォイドが通路に大の字になった。
だが次の瞬間。
「が……っ!?」
俺は顔面を鈍器で殴られたかのような衝撃を感じて吹っ飛ばされ、地面に転がった。視界と意識が明滅する。右目から大量の涙が流れた気がして拭うと、血だった。
世界が赤く染まる。
ああ、油断した。
死に体のバケモノが、真横に倒れた視界の中で迫っていた。
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