第39話 絶体絶命の状況で
脇腹を押さえて苦しげに走るオウジンに肩を貸し、俺は叫んだ。
「ミク、後方警戒!」
「追ってきてる! 今度は走ってる……けどたぶん本気じゃない……?」
「本気ならすぐに追いつかれているな」
それほどの肉体性能の差だ。ほんの一瞬の交戦だったが、嫌というほど思い知らされた。
力も、速さも、こうして獲物を弄ぶ知能も、何もかもがデタラメだ。前世から培ってきた己の常識を疑いたくなる。
後方、闇の奥底から足音が響いている。まるで甲冑を着込んだ騎士のような足音だ。
やつはいったい何なのだ。ブライズ時代から思い出しても、あんな魔物は見たことはなかったし、噂にすら聞いたこともない。
魔物というよりは人間に近しい容姿を持っていることも気になる。やつは本当に魔物なのか、それとも……。
思考を遮るようにヴォイドが吐き捨てた。
「関係ねえ! とにかく上に続く階段を探せ! 絶対にあるはずだ! 運がよけりゃ、捜索に向かってきてる教官連中と合流できるかもしれねえ! 他はクソだが戦姫がいりゃあ、まだ仕切り直せる!」
声にこそまだ力が残ってはいるが、ヴォイドも血まみれで足を引きずるように走っている。その膝がわずかに揺れて、体勢を崩した。
「……ッ」
「ヴォイド!」
だが、やつは険しい顔ですぐに立て直す。
「バカヤロウ! 止まんじゃねえ! 他人の心配なんざしてる場合かクソガキが!」
俺が足を止めれば、俺が肩を貸しているオウジンも止まる。もうオウジンはひとりでは走れない。
走る足を弛めた俺を押し出すように、ヴォイドが背中を乱暴に押した。
「走れオラ!」
「やかましい! だったら貴様もしっかりついてこい! 間抜けのように転ぶな!」
「ヘッ。抜かせ、このアホガキ」
だが、いくらもしないうちに俺たちは行き詰まることになる。
クラスメイトの列の最後尾が見えたからだ。
「な――っ!? てめえら、なんでまだこんなとこにいやがる!?」
人混みを抜けて、セネカが顔を出した。
「行き止まりに上層に続く階段を見つけたんだけど、鉄扉が閉じてて開かないの!」
「ああッ!?」
そうか。そうだった。
リリは確かに言っていた。教官が魔物を駆逐したのは三層まで。四層以降は未知の領域だから、念のためにダンジョンの入り口と同じ鉄扉を設置している、と。
開いていないのか。まだリリたちは三層までこれていないということか。
「きてるっ!! もう近いっ!!」
ミクが叫ぶ。
生徒らはもはやパニックだ。鉄扉の設けられた上層への階段に詰め寄って、夢中で叩き叫ぶことしかできない。
「ぐ、クソが――ッ!」
ヴォイドが苛立たしげに右の手甲を壁に叩きつけた。左の手甲は破壊され、すでに刃だけになってしまっている。バケモノをぶん殴った右の手甲の刃も、先が潰れていた。
セネカは再び青ざめ、両手で口を押さえて震えている。
もはや指揮でどうにかなる状況ではない。どれだけ優れた指揮官であろうともだ。
ミクも構えてはいるが、切っ先が揺れている。集中できていない。腰が退けていて、もはやセネカ同様、戦闘のできる精神状態ではなさそうだ。
クラスメイトらの悲鳴がダンジョンに響き渡っている。
「助けて! 誰か! ここを開けて!」
「おい開けろ! 誰かいないのかッ!?」
「教官! お願い!」
「みんな下がれ! 剣で――!」
ガン、ガン。刃で鉄扉を殴る音が響く。
無理だ。鉄扉は盾より分厚いのだから。
「だ、だめだ……もうおしまいだ……」
「死にたくない! ここまで生きて戻ってきたんだぞ! こんな終わり方があるか!」
「……お家に……帰りたい……」
「あきらめないで! 叩き続けて!」
だが鉄扉が開く気配はない。向こう側に人の気配もだ。
虚しく、何度も。重い鉄の音を響かせるだけで。
ああ、やけに――。
やけに自分の呼吸音がうるさい。クラスメイトの声が遠のくほどにだ。
俺は周囲を見回す。
「……」
ヴォイドは血まみれだ。歩くだけでいくつも赤い水滴が滴る。
それでも前に出ようとして、やつは己の血に滑り尻餅をついた。そのまま立ち上がれずに、壁に引き摺るような血の痕跡を残しながら、ついに倒れ込んだ。
オウジンも限界だ。俺の肩から離れた途端に壁に寄りかかるようにして膝をつき、口から血を流している。もしかしたら内臓が傷ついているのかもしれない。呼吸が苦しそうだ。
俺のグラディウスは砕かれた。予備のスティレットは無傷だが、これだけではもはやどうにもならないだろう。
絶望的状況の中、頭だけが冴え渡っていく。
ほとんど無意識に、バケモノとの接触を頭の中で反芻する。何度も、何度も、繰り返し。得た情報を整理し、細い糸をたぐり寄せる。このどん底の状況から希望を見出すために。
ああ、そうだ。一つだけ、試してみたいことがあった。
ブライズの新たな境地。いいや、違う。ある意味ではこれこそが“型無し”の真髄か。
前世の己の声が聞こえた気がした。
――目を開け、エレミー・オウルディンガム。まだ死ぬときではないぞ。
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今後、作品を作っていく上での糧や参考にしたいと思っております。
 




