第358話 魂と肉体
とうの昔に間合いなど踏み越えている。
だが、ともに、まだ。
剣は振らない。
格落ち。
この場に集う誰しもがそう思っていただろう。国家の英雄たる〝王壁〟を下され、〝戦姫〟をも討たれ、もはや玉砕覚悟での戦いしか残る途のなかった者たちの目からは、突然戦場に飛び込んできた子供の姿など。たとえプロクスに一度は土をつけたとしても。
絶望でしかないだろう。
だが――。
ああ、だが、わかる。
漲る。何かが次々と俺の中に入ってくる。そいつらの熱が俺の全身を燃やしていく。この小さな肉体の限界を超え、炎となって燃えていく。
熱い。
力が溢れてくる。
風が凪いだ。
俺はプロクスを睨み上げ、プロクスは俺を睥睨した。
視線がかち合った次の瞬間――!
俺が下段から斬り上げたクレイモアと、上段から叩き下ろされたツヴァイヘンダーの刃が轟音を打ち鳴らしていた。
天空から落とされた雷が頭頂部から全身を貫き、大地へと抜ける。それほどの衝撃。
足下の大地がヒビ割れて爆ぜ、膝下まで地に沈む。
「~~ッ!?」
だが驚愕に顔を歪めたのは俺ではなく、プロクスの方だった。
俺は両腕の筋繊維を引き千切り、己の血管を破裂させながらも、ツヴァイヘンダーを強引に跳ね上げていたのだから。
「ガアアアアァァァァァーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!」
「な――っ!?」
プロクスが数歩、後方へとよろめいた。
俺はクレイモアの切っ先をやつに向けて言う。
「……この肉体に生まれ落ち、これまで散々苦労した。かつての弟子は遥か先、たかがホムンクルス程度にも敗北し、果ては学生ごときガキにさえ勝てん。振るえども振るえども、短い手足では届かん。何度も死線を彷徨い、何度も逃れてきた。だが――」
一歩。クレイモアの刃を肩にのせて。
意味がわからずに眉を寄せたプロクスに、俺はゆっくりと詰め寄る。
「なぜだろうな」
「何を言っている……?」
ツヴァイヘンダーの間合いに入った。
だが、それがどうした。大した問題ではない。
俺はもう一度、至近距離からプロクスを睨み上げた。
「――不思議と貴様にだけは、負ける気がせん」
「おおおおっ!」
今度は薙ぎ払いだ。叩きつけで潰せなければ、こんな小さな肉体など吹っ飛ばしてしまえばいいと考えたのだろう。
だが――!
俺は薙ぎ払われた刃に合わせて、クレイモアを振り下ろす。
「おおっ!」
再び轟音が鳴り響いた。
俺の胴体を寸断すべく迫っていた大きな刃が膝下あたりまで叩き下ろされる。このままでは足を断たれて終わり、おそらくプロクスはそう考えているはずだ。
わかるのさ。この男はかつての俺なのだから。その思考くらいは。
だから。
ツヴァイヘンダーの刃を叩き落とした勢いを利用して、俺は両足を自ら振り上げた。だが跳躍したわけではない。
「剣で跳――ッ!?」
プロクスの目が見開かれる。
足で地を蹴るのではなく、剣を叩き落とした反動で跳び上がり、空中で逆さになる。
空が見えた。さらに回転し、両足を地に着ける。
プロクスの背後だ。
「ではな。出来損ない」
それだけを告げ、俺はクレイモアを薙ぎ払った。
入る。確実に。
だが――。
刃がやつのコートを裂いた直後、轟音を鳴り響かせその侵入を拒まれた。
「硬質化か……!」
「おお!」
直後に薙ぎ払われたツヴァイヘンダーを受けてしまい、俺は大きく吹っ飛ばされた。それこそ数十歩もの距離を取って俺たちを取り囲んでいる騎士たちのところまでだ。
だが、それだけだ。今日はすべてがよく見えている。
だから俺は途中でクレイモアを地面に突き立て、勢いを減衰させながら地に足をつけた。両足で大地を掻いて止まる。
視線を上げれば、プロクスの表情が怒りに歪んでいた。当然だ。俺のようなガキに、不意打ちですらなく一矢報いられたのだから。
「……この俺に、硬質化など使わせおって!」
「なんだ、貴様? まさか人間にでもなりたかったか?」
「――ッ」
図星か。
プロクスが怒りにまかせて飛び込んできた。ツヴァイヘンダーのまるでナイフのような速さで振り回す。
だが、わかるのだ。俺には。俺だけには。
「ぐおおおおっ!!」
「……」
薙ぎ払われた刃を掻い潜って、すぐに側方へと飛ぶ。丸太のような筋肉で包まれた足が、大地ごと空間を蹴り上げた。そこに俺はもういない。
着地と同時にクレイモアの切っ先をプロクスへと向けて突き出す。やつの魔獣革コートを突き破るが、またしても硬質化に阻まれる。
そのたびに、プロクスは――。
「があああああぁぁぁぁっ!!」
己の不甲斐なさに怒り狂い、ツヴァイヘンダーを叩き下ろす。半身を引いて躱すと、ツヴァイヘンダーの刃が大地に叩き下ろされて足下が爆ぜた。飛礫とともに飛び退いた俺へと、プロクスは剣の刃を軸にして蹴り足を繰り出す。
俺はそれをクレイモアで防ぎ、背中から大地を転がりながらも膝を立てた。
「なぜだ――ッ! このようなガキ如きを、なぜこの俺が斬れん! 頑強なる〝王壁〟を叩き壊し、小賢しき〝戦姫〟をも捉えた俺の剣が! 貴様はやつらを超えているとでも言うつもりかッ!?」
「いいや。俺はまだやつらには届かん」
轟と風を巻きつけ、地面を抉りながら斬り上げられた巨大な刃を躱す。飛礫が頬を裂いたが、大した問題ではない。
返す剣で再び胴体を引っ掻いてやった。コートが破れ、硬質化した銀色の肌が露わになる。その直後、プロクスの眼球から結膜が消えた。
赤い瞳の色が結膜へと広がって、赤一色の――バケモノの目へと変化する。
どうやら形振り構わず、俺を殺すつもりらしい。同時に、これまでなぜかホムンクルスとしての優位性を使ってこなかったことに疑問を抱く。
頭頂部を遥かに超えて持ち上がった巨大な白刃は一瞬たりとも留まることなく、俺の頭部へと叩き落とされる。
「ゴアアアァァァァァーーーーーーーッ!!」
「ああああッ!!」
それに合わせてこちらも斬り上げる。白刃同士がぶつかり合い、とてつもない衝撃波を生み出した。
「なぜそのような小さな身で受け止められる!? なぜ避けられる!? なぜ折れんッ!!」
「知っているからだ。おまえのことを、誰よりも」
「ほざくなッ!! 貴様に俺の何がわかるッ!!」
プロクスの――ブライズの肉体でできることを、すべて。俺はずっとそれと比較し、何度も反芻しながら、この小さな肉体でできることを模索してきたのだから。
その上でプロクスについていたのはカーツだ。カーツの戦い方はよく知っている。けれどもそれ以前にあいつはきっと、記憶の中にあったブライズの剣をプロクスに教えたのだろう。
だからこそ、わかるのだ。次に何をするのかが。
「兵器として生み出されッ、鎖に繋がれッ、閉じ込められッ、忌み嫌われたッ! 狭いフラスコの中から見ていた世界をッ――俺たちがどれほど憎く思っていたと思っていやがるッ!!」
「……」
大地を上下させ、轟音とともに踏み込んできたプロクスに合わせ、俺も踏み込む。
視線が交差する――!
「があぁぁっ!!」
「おおおおっ!!」
互いに繰り出した袈裟懸けの斬撃が、両者の狭間でぶつかり合った。
大地が悲鳴をあげてめくれ上がり、衝撃がガライア高原の植物を薙ぎ払って走る。互いの狭間で何度も何度も剣をぶつけ合う。
「ともに肩を並べ戦うことで認めさせッ、ようやくつかんだ居場所なのだぞ――ッ! それを、言うに事欠いて、わかる、だとッ!?」
弾かれて後退し、すぐに追撃を受け止めた。
肩が外れそうな勢いで押し出され、両の踵で大地を引っ掻きながら滑る。
「……あいかわらず、おまえは寂しがりなのだな」
躱し、受け、流し、斬る――!
崩され、押し出されても、反転し攻勢に出る――!
もはや互いの応援や罵声さえも消えていた。誰もが息を呑み、俺たちの戦いに視線を取られている。
母上から与えられた白のコートが弾け、真っ赤な鮮血が噴き出した。いや、白いコートなどもうない。限界を超え、血管も筋肉を弾けさせながら戦ってきたせいで、内側から赤が染み出してしまっている。このようなところを母上に見られたら、卒倒されそうだ。
剣術では勝てる。プロクスがいま立っている位置は、かつての己が通り過ぎてきた途上なのだから。だが膂力の差に耐えるために酷使する肉体は、この分ではあっという間に壊されるだろう。
それでも――。
「無駄だ。やはりおまえにだけは負ける気がせん」
「ほざくなッ!! 貴様のようなガキにッ、俺がこれまで積み重ねてきたものをッ、壊されてたまるものかッ!!」
積み重ねてきたもの、か。
プロクスの斬り込みを受け止め、刃ごしに顔を近づける。
「哀れだな、ホムンクルス。おまえがいつから自我を持ち始めたのかは知らんが、たかだか十年にも満たないものなのだろう? おまえは俺などより、よほど子供だ」
「……ッ、だったら何だと言うのだッ!?」
プロクスが対話を拒絶するように、乱暴に俺を突き放した。
俺は踵で大地を掻いて滑り、身を低くしてこちらから斬り込む。
最初のダンジョンカリキュラムのとき、セフェクは言った。
人間が憎い、と。あのバケモノが泣きそうな顔でだ。
だが、違った。あの言葉は間違いだ。いまならわかる。あいつは人間がうらやましかったんだ。人間になりたかった。人間に生まれたかったんだ。だから俺たちを観察していた。ずっと。
同じだ。リオナやラセルのいた施設と。
だから、ほんの少しだけ――俺は。俺は、俺の姿をした怪物に同情する。
バギン、と歪な音が鳴り響き、俺たちは互いに弾けて距離を取った。
俺はやつに尋ねる。
「カーツは、おまえの救いになれていたか?」
「ハッ、あいつが欲したのは俺ではなかった! 俺の素体となったブライズだ!」
プロクスが首を左右に振った。
けれども穏やかに、わずかな微笑みすら浮かべて続ける。
「でも、それでもよかった。それでもあいつは、俺を家族だと呼んでくれた。俺を魔導錬金の檻から解放し、あいつだけが人間のように扱ってくれた」
迷い子のようだと、俺はそのとき思った。
「戦うことと引き換えにか?」
「戦いなどなくともだ! あいつはそのようなやつではない! ……だからこそ、俺は戦った。やつに剣を教わり、生き方を教わり、少しでもブライズに……近づこうとした……」
アテュラと同じだ。ネレイド・アーレンスミスの本物の娘を演じていたアテュラと。
歪んだ愛情が、怪物を造り出した。アテュラは不幸にも――いや、運よくネレイドを喪ったことで、自由意志を得ることができただけに過ぎない。
「それでも悪くはなかったさ。やつの望みどおり生きれば、仲間が増えた。ともに戦ってくれる仲間が」
もしもネレイドに固執したまま育てられていたならば、きっと彼女もまた否応なく、王国の脅威と成り果てていただろう。ネレイドの意志すら関係なくだ。
俺は首を左右に振った。
やはりこのような技術など、生み出すべきではなかったのだ。あらためてそう思う。
プロクスがツヴァイヘンダーを両手で高く、高く、空へと掲げた。
「ゆえに俺は与えられた名が違おうとも、ブライズとして生きる。たとえ誰に偽物であると罵られようが、世界のすべてを敵に回そうとも、家族のために剣を振るい、仲間に報いる。貴様にとやかく言われる筋合いはない」
「そうか……」
軽い。あまりにも軽い。
たかだか十年では、その程度の虚飾しか背負えない。
本来ならば、俺もだ。
だが俺は違った。いま俺の中には、多くの炎が渦巻いている。前世でも、今世でも、沢山の顔を思い出せる。そいつらひとりひとりが、俺に炎を預けるのだ。
一派も。
一組も。
友も。
家族も。
戦友も。
みんながいるんだ。俺の中に。
そいつらがな、寄って集って俺の背中を押すのだ。プロクスの膂力に押し切られそうになったときに背中を押して支えてくれる。腕が、膝が、砕けそうになったときに手を添えてくれる。挫けそうになった心を掌で包んでくれる。
二度の人生で、いっぱい、いっぱい、背負ってきた。
たとえそれが幻だとしても。プロクスは知らないだろう。これがどれだけ、己の力となってくれていることか。
哀れだよ、ホムンクルス。他者をなぞるばかりで、己では何ひとつ作り出せない存在よ。
俺は顔を上げる。
「おまえは大きいだけの子供だ。リリを傷つけたことを除けば、もはやおまえには何の怨みもない。同情すら禁じ得ん。――それでも、剣を納めるつもりはない。俺にも譲れんものがある」
「当然だ!」
俺もまた、クレイモアを両手で持って高く、高く、空に掲げた。
「ここに誓う。魔導錬金の技術は俺がこの手で必ず抹消してやる。二度と蘇ることのないよう、すべてを斬り刻んでやる。――貴様は安心して眠れ、プロクス」
「ほざくなと何度言わせるッ!!」
同時に地を蹴る。
これが最後だ。リリが恐るべき膂力を誇るプロクスと剣を合わせ続け、自らの両腕を壊してしまったように、俺の全身もまた変色し、その機能を失いつつあった。
だが、心はまだ燃えている。止まるな、走り続けろ、戦えと、俺を囃し立てる。
老いて痩せこけた弱々しい騎士が、俺の耳元で囁いた気がした。
――ブライズ……胸に炎を宿せ……。
わかってるよ、親父。
自然と口元に笑みがこぼれた。
「ガアアアアァァァァァーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!」
「おおおおおぉぉぉぉぉーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!」
ツヴァイヘンダーとクレイモアの刃がこれまで以上の勢いでかち合った。
凶器と化した音波がその場に集う全員に耳を劈き、遅れて衝撃波が嵐となって騎士たちを押し、空の雲を裂いた。
肉体のあちこちが爆ぜた。眼前にはプロクスの顔があった。赤目ではなくなっていた。やつは呆然とした顔で俺を見ていた。
意識の中の時間が、ゆっくりと流れる。
俺はツヴァイヘンダーを撥ね除け、クレイモアを振り切っていたんだ。膂力で劣るはずの俺が。刃がプロクスの体内を通過する――だが、そこにあるはずの手応えはなかった。
キラキラと、金属片が舞っていた。俺たちの周囲をだ。
俺も、プロクスも、その光景に目を見開く。
「……」
「……」
クレイモアの刃が砕けたことに気づく。偶然の勝機を拾ったのは、プロクスだった。
その瞬間だけは、確かにな。
クレイモアの刃は折れるに留まらず、破片となって宙を舞っていた。剣の差で命を拾ったプロクスの目が、諦観から正気のものへと変化する。
そうしてやつは、跳ね上がったツヴァイヘンダーを俺へと振り下ろした。
「……ッ、おおおおっ!」
けれどそのときにはもう。俺は――。
左手の親指で鍔を弾き、右手で腰に差したままだった刀を抜刀していた。
――岩斬り。
刀の刃がプロクスの胴体部を通過する。音もなく、抵抗もなく、ただ静かに。
時間が完全に止まった。
プロクスのツヴァイヘンダーは虚空を裂き、大地に刺さっていた。
やつの赤目が、動く。
「……そう……か……。……おまえ……が……、……そう……だった……の……か……」
「ああ。俺がブライズだ」
ずるり……。
プロクスの胸部が、わずかな傾斜を滑ってずれた。
「……ず……るい……な……、……勝て……る……わけが…………」
精悍な顔に笑みか浮かぶ。
それが最期だった。上体、胸部上方が肉体からずれて地面に落ち、中身をまき散らし、数秒と経たないうちに、やつの目は濁る。
こうして、たったひとつの虚飾だけを大切に握り締めて戦った哀しい男は、大地に散った。
「……」
直後に俺は刀を取り落とし、地面と平行になった景色を眺めていた。自身もまた倒れたのだと気づくまでに数秒かかった。
共和国軍の騎士たちが、何かを叫びながら泣きそうな顔で俺を目がけて走ってきていた。おそらくプロクスの仇討ちなのだろう。存外に、愛されていたではないか、あいつめ。
そいつが手にした槍が突き刺さる寸前に、第一大隊の背中が俺の視界を覆う。
……互いに良い仲間に巡り会えていたようだ。
意識が徐々に遠のいていく。
あちこちから言葉にならない叫びが響いていたのを覚えている。
プロクスの死を惜しんで嘆く共和国軍と、新たな英雄となった俺を敵の手に落とさぬため、命を張って死に物狂いで守ろうとする第一大隊がぶつかっていた。
静かだった戦場は、再び血と肉、怒声と悲鳴に溢れ返り、鋼鉄が命を穿つ。
そんな悲しい光景を眺めながら、俺は目を閉じ、意識の闇へと沈んでいった。
楽しんでいただけましたなら、ブクマや評価、ご意見、ご感想などをいただけると幸いです。
今後、作品を作っていく上での糧や参考にしたいと思っております。