第357話 おかえり
誰も俺を見ていない。
誰もが一方向を眺めている。
この場からその光景が見えるわけではなくとも。
戦場で何かが起こっている。
それだけはわかるらしい。
アジフを全速力に近い速度で走らせる。
死体の川に立つ共和国軍騎士たちは敵である俺に背を向けたままだ。自らに蹄鉄の音が近づいてなお、振り返る者はいない。誰もが同じ方角を見つめて動かない。まるでそこに神が生誕したかのように。
都合がいい。もはや雑兵と戦っている暇などない。
いまは一刻も早く、プロクスと戦うリリの下へ行かねば。
「急げアジフ!」
さらに速度が上がる。死体から流れた血で湿った土を力強く蹄鉄で跳ね上げ、足下の死体と立ち尽くす騎士たちの隙間を縫って、若い馬は駆ける。
手綱は引かない。持つだけだ。位置取りはアジフに任せた方がいい。
まだわずかばかりの付き合いだが、俺はこいつを信頼している。本来ならばこのような危険な場にまでは連れ込みたくなかったくらいだ。
ぬかるみで蹄鉄を滑らせたが、すぐに立ち直る。
「頑張れ!」
アジフはその小柄な肉体を存分に活用し、共和国軍騎士たちの隙間を縫うように進む。まるで戦う俺のように。いまは俺も攻撃をしない。ヘタに攻撃してこちらに注意を向けられれば、足を止めざるを得なくなってしまう。
せっかく引き抜いてきたが、ヴォイドのクレイモアの出番はなさそうだ。
そんなくだらないことを考えたとき、にわかに戦場がざわつき出す。叫びだ。最初は遠慮がちに、けれども進むほどに熱気を帯びて。
それまではぽつぽつとしか立っていなかった騎士らの背が、ある一点で急激にその密度を増している。みながその場に詰め寄せていたから。
剣戟の音が響き始める――!
数十、いや、数百名もの騎士たちが俺に背を向け、戦場の中心部を眺めていた。涙ながらに声を上げ、武器を持ち上げ、叫ぶ。叫ぶ。叫ぶ。
応援と罵声が入り交じり、熱気がさらに上がっていく。
リリとプロクスが戦っている――!
その姿はまだ見えずとも。
限界までアジフで近づく。走れ。全速力で。人混みに入り、アジフの四肢が激しく左右を蹴る。しがみつくだけで精一杯だが、俺は手綱を持って鞍に立った。アジフの動きに合わせて腰を動かし、体勢を保つ。
もう少し! もう少し――見えた!
まさにその瞬間、リリの手からロングソードが弾けて空を舞った。
ドン、と大地を揺るがし――俺……ブライズの……姿をした男が……踏み込む……。いまはもう墓標になっているはずのツヴァイヘンダーを、両腕で引き絞って。
リリが視線を逸らせ、目を閉じる。
己の中で何かが爆発した。
熱く、熱く。場の熱気すら呑み込むほどに熱く。小さな肉体では抑えきれないほどに。
血管を通る血液がすべてマグマへと変わっていく。灼けるほどの熱量で、俺は鞍の上で両膝を曲げた。
そうして声を抑えてつぶやく。抑えねば怒号となってしまうから。
「……よくやった。離脱しろ、アジフ……」
同時に膝を伸ばして鞍を蹴り、跳躍する。
びゅうびゅうと風が鳴った。
アジフの最高速度をのせたまま、俺は空中を舞っていた。リリとプロクスの遥か手前をだ。到達までに数十名もの肉壁がある。
だが、ああ、だが――。
アジフの脚の力を借りた俺は空気の壁を突き破りながら全身を限界まで捻り込み、ヴォイドのクレイモアを背中まで引き絞りながら数十名もの共和国騎士らの頭を、凄まじい速度で飛ぶ。
「貴様……ッ」
およそ人間には、いいや、どのような生物であっても出せない高速移動で。
滾る想いを雷轟の如く響かせながら。
「――その顔でッ、その肉体でッ!」
思い描くは最初のダンジョンカリキュラムだ。
セフェクを相手に全滅しかけていた俺たち一組を、リリはたった一度の斬撃で救った。
速度をのせたまま空中で三度回転し、セフェクの頸部を断ったように。記憶を基に〝型無し〟で取り込んで。
回転する視界の中で、プロクスの視線が俺を見てギョっと見開かれたのが見えた。喉から意図せず漏れる
「リリに何をしてやがるーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!」
アジフの最高速度、クレイモアと俺の重量、さらには回転を加えた一撃が、リリへと振り下ろしつつあったプロクスのツヴァイヘンダーの刃を打った。
凄まじい音波と衝撃、大地が爆散し、プロクスの巨体が浮いた。
「ガアアアアァァァァァーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!」
俺は獣の咆吼を上げ、両手で柄を握るクレイモアを――振り……切るッ!!
プロクスの巨体が大地と平行に、恐るべき勢いで吹っ飛んだ。頭部から叩きつけられ跳ね上がり、背中を打ちつけさらに転がり、戦いを見ていた共和国軍騎士ら十数名を巻き込んで大地に転がる。
歓声が途絶えた。敵も味方もなく、誰もが息を呑んだ。
けれども、俺は。
俺は倒れたままのリリにすぐさま駆け寄り、その上体を抱き起こした。
ひどい怪我だ。両手は肘の先から紫色に腫れ上がり、呼吸は浅く速い。肌の色など残っている部分の方が少なく、大半は血と泥で赤黒く汚れている。
「リリ! リリ!」
「……」
渇いた唇が微かに震えていた。
俺が前世で与えた魔獣革のコートなど、もはや形すら保てていないほどにズタボロだ。
「リリ、目を開けろ! 深く息を吸え!」
「……」
微かに瞼が上がった。
そうして口元にわずかばかりの笑みを浮かべて、夢の中にいるかのようにつぶやいた。
「……ゆ……め……」
「夢じゃない! 俺はここにいるぞ!」
皮が剥がれ血まみれとなった手を取り、俺は自身の頬に擦り付ける。
「おまえを助けに来たんだ! わかるか!? エレミアだ! ここにいるぞ!」
「……」
遠くの方でプロクスが立ち上がるのがわかった。やつはツヴァイヘンダーを肩に担ぎ上げると、平然とした顔で歩いてくる。
だが俺はそれどころではなかった。初めて恐怖を感じた。これまでだって恐れたことはある。けれども比ではない。この腕の中で魂の火を失いかけているリリを見たとき、かつてないほどに恐怖した。
ああ、これが、この感情こそが、俺がリリに与えてしまったものだったのかと、愚かな俺はいまになって思い知った。
「……どう……して……」
「おまえを助けに来たに決まっている!」
恐怖で泣くなど、物心ついた幼少期ですらなかったというのに。
ぼろぼろと涙がこぼれた。どうしようもないくらいに、隠しようもないくらいにこぼれた。
「…………のぞんで……ない………………こ……んな……こ……と…………」
「おまえの意志など知るか! おまえが望もうが望むまいが、俺は助けに来る! そう決めている!」
前世からずっとだ。
ずっと、そうしてきた。一度の死すら乗り越えてだ。
「……バ……カ……ね……」
「だめだ、だめだだめだだめだ目を閉じるな!」
フィクスがいない。
治療可能な魔術師はあまりに稀少だ。だがゆえに彼らが最前線に出てくることは絶対にない。けれども、ガライアまで運ぶ猶予もない。リリの肉体からはいまも血が流れ出している。じわじわと、ゆっくりと。
どうすれば……。このままでは……もう……。
歯がみし、うつむく。
俺の人生は、前世も今世も間違いだらけだった……。
だから。せめてこれが。彼女の生きる意志に繋がるなら。
俺は――。
抱えるリリに頬を寄せ、そうしてその耳元に口をつけ、静かにつぶやいた。
「……俺が……ブライズだ……」
閉ざされた目が再び微かに開く。
瞳がこちらを向くのがわかった。
「……」
「馬車の下で野良犬のようなおまえを発見した。怯えて出てこないおまえを、最初は飴玉で釣りだそうとしたが、失敗した。それをカーツに小馬鹿にされたことを覚えている。結局は馬車を持ち上げて、おまえを引き摺り出した」
瞼がさらに上がった。
思い出せた前世を語る。文献などには決して書かれていないことを。時系列も何もめちゃくちゃに。
拾ったばかりのリリを持て余し、娼館に預けようとしたこと。
夜な夜なカーツと消えていたのは、踊り子酒場ではなく、戦いのない時に下がった一派の収入を補うため、ふたりで魔物狩りに勤しんでいた。
好きな食い物は、実は肉より甲殻魔獣の類だ。
ケリィの演奏で踊るリリを眺めながら、カーツと飲む酒が一番好きだった。
一派を作る前の家族は老騎士ケインだった。
キルプスの後頭部を掌で張って、一派の全員から責められたこともあった。
「……」
「マルディウスで死の間際に約束しただろう」
――心配するな。どこにいても、探すから。何度でも、俺がおまえを見つけてやる。
「だから、なあ、帰ってきたんだ……」
「……」
ほんの微かに……頬を弛め、リリが小さく「おかえり」と囁いた。
そうして瞼が落ちる。
「う……あ……ああああぁぁぁぁっ!」
わけがわからずに、俺は本当のガキのように声を上げて泣いた。
俺は本当に愚かだ。こんなにも愛しいのだと、こんなにも失うことが怖いのだと、人生を二周してようやく気づけた。こんなになるまで気づけなかった大馬鹿者だ。
いつの間にか俺たちを取り囲んだ騎士どもが、リリに手を伸ばしてきていたことに気づいたのは、その手がリリの肉体に触れてからだった。
俺はクレイモアを持ち上げて涙声で叫ぶ。
「……ッ触るなッ!!」
「落ち着け、少年! 我々はオルンカイム閣下直下の第一大隊だ! 閣下同様、このお方を死なせるわけにはいかん! 魔術師団第四小隊が現着した! 第四小隊には優れた才を持つ治療魔術師がおられる! 閣下のご息女だ!」
「――っ!?」
「わかったなら剣を下ろせ! すでに治療魔術を考慮してなお手遅れに近しい状態なのだぞ!」
彼らは俺の返事を待たずに、リリへと手を伸ばした。
「た、頼む。リリを……リリを助けてくれ……」
「邪魔をするなっ! ――急げ! そっとだ! 揺らさずお運びしろ!」
すぐさま騎士たちはリリを担架に乗せ、第一大隊の方へと走り去っていった。
その段に到り、ようやく俺の頭は冷静さを取り戻しつつあった。
振り返れば、プロクスがツヴァイヘンダーの切っ先を大地に突き立て、柄に両手を重ねてのせ、こちらを見ていた。
俺は不思議に思い、尋ねる。
「……リリを――戦姫を見逃すのか?」
「構わん。運よく命を拾えたならば、何度でもかかってこい。そのたび俺が叩き斬ってやる。王壁も戦姫もだ」
ああ、嫌になる。
嫌になるほどに、プロクスは前世の俺だった。
けれど。
俺はクレイモアを担いで立ち上がる。
「いいや、次などない。貴様はここで死ぬ。俺が殺す」
「なんだぁ? 次の相手はおまえか? くだらん、ガキは引っ込んでいろ」
「先ほどそのガキにぶっ飛ばされ、地べたを舐めたのをもう忘れたのか? 大したアタマだ。恥じ入りたくなる」
プロクスと顔を見合わせる。
魂と肉体。互いに引き寄せられるように、ゆっくりと歩み寄り――。
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