第35話 赤き眼の観察者
大穴の縁から魔導灯を吊して覗き込むと、砂山の頭頂部でうぞうぞと蠢くスライムらしきものが見えた。やつはしばらく粘液を触手のように上層の俺たちへと向けて伸ばしていたが、やがてあきらめたように砂山を下っていった。
だがしばらくすると、べちゃり、べちゃりという音が響き始める。おそらく、ゴブリンの死体の山を見つけて喰っているのだろう。あれだけの数のゴブリンを喰えば、一体どれほど成長するのか想像もつかない。
「もう二度と遭遇しないことを祈るばかりだな」
俺のつぶやきにミクがうなずく。
「そだねぇ。石ぶつけとこ」
ヴォイドも腰に両手をあてて、下を覗いている。
「どうせカリキュラム再開時に、教官様が処理してくれんだろ。魔術師ならともかく、あいつは騎士を目指す学生に任すにはちょいと危険過ぎるからな。脱出できたら報告だけあげとけや」
「だといいのだが、瓦礫で塞いだ階段程度なら染み出してきそうだ。脱出にあまり時間を掛けたくないな」
オウジンの言葉に、俺たちは同時に長い息を吐いた。
冗談ではない。うんざりだ。またあの追いかけっこは二度とご免だぞ。
だが当分の間、腹は減らないだろうし、数日は下層の元拠点からも出てこないはずだ。
「ヘッ、たった一匹のスライムごときに、ゴブリンの群れの十倍は疲れたぜ」
「僕も同感だ。剣ではどうしようもない魔物もいるのだな。この大陸には」
「へえ? 東の方にゃいねえのか?」
「面倒な魔物ならいっぱいいる。だけど、ここまでのは初めてだ」
「ま、火さえありゃあ、簡単に灼けるし追い払えるんだがよォ」
ヴォイドとオウジンはずいぶん砕けたように見える。
まるで昔からのコンビのようだ。
そんなことを考えた瞬間、ミクが視線を跳ね上げた。
第一層から下層まで続く連続で抜けた天井の大穴に、俺たちの持つ魔導灯の光は届かない。闇だ。闇がぽっかりと口を開けている。
ミクはその闇を見つめていた。
「ミク……?」
「……」
ミクが唇の前に人差し指を立てた。
顔色が尋常ではない。青ざめ、汗を垂らしている。
だから俺も気づけた。気配を探る。丁寧に。気配とは第六感ではない。第一から第五までの総合的判断だ。少なくともブライズはそう考えていた。
視覚はダメだ。ここでは使えない。聴覚は風の音さえないが、息遣いが聞こえる気がする。嗅覚は返り血を浴びた俺たちの臭いでわかりづらい。味覚はないが、強敵と出くわしたとき特有の渇きによる苦みが広がっている。
「……!」
触覚を広げるため、急いで袖をまくった。肌を晒す面積が多いほど、触覚は冴え渡る。
ミクがまだ雑談に興じているヴォイドとオウジンに駆け寄って、ふたりの制服の背中を片手でつかんで引いた。
「あ? てめ、何しやがる、オルンカイム」
「静かにして……!」
「ああ?」
オウジンが声を潜める。
「……まさか、上にいるのか……? あいつが……」
「いる。見てる。上からあたしたちのことを」
「……確かか!?」
「うん……」
俺の触覚は。皮膚が微細な振動を感じとっている。
ミクが動いた空気の流動と、俺たちの呼吸。だが上方からも微かに呼吸を感じるな。このダンジョンに風が吹き込まないのであれば、何者かの息吹だ。
上層に何かがいるのは間違いなさそうだ。
袖を戻そうとしてふと気づくと、両腕の肌が粟立っていた。背筋も薄ら寒い。
「……っ」
俺にわかるのはここまでだ。だがミクにはその先がわかるようだ。その存在が例のバケモノであるというところまで察知できているらしい。
「エルたんも、もっとこっちきて」
「ああ」
ミクに引きずられるようにして、ヴォイドとオウジンが俺の側に合流した。
その間も俺たちは天井の穴を見つめ続けている。たとえ闇しか見えなくともだ。実際問題、視線が合っているかどうかさえわからない。
だが、獣というものは視線を逸らしたものから狙う。背中を見せるなど以ての外だ。それは獣にとって、己より弱者である確信へと変わる。
だから、一度でも合ってしまった視線は絶対に外さない。同じ逃げるにしてもだ。
「あいつ、もしかしたら、あたしたちのことをずっと見ていたのかもしれない」
足下の穴底は、最初の拠点だ。
もしも夜目の利くやつならば、さぞや丸見えだったろう。ましてや魔導灯を腰に吊るし、自ら発光しているのだから。
だがなぜ襲ってこなかった?
「てめえで落として、どうするか観察してたってか。何様だ。バケモンが神気取りかよ」
毒づくヴォイドの顔にも焦燥がある。
見上げる深い闇にまだ変化はない。バケモノを産み落としはしない。それでもやつは確かに存在している。あの中から俺たちを観ている。
俺はつぶやく。
「遊んでいるつもりかもな。あるいは何か別の目的があるのか。いずれにせよバケモノの考えることなどわからん」
俺たちは大穴のある通路から、後ずさりながら角を曲がる。
瞬間、踵を返したオウジンを先頭にして、四人が同時に全速力で走り出した。その直後のことだ。
ぺたり……。
俺の聴覚は確かに、やつがこの四層へと着地する音を聞いた。
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