第355話 勝てない
かつての戦争で、誰かが言った。
それはさながら、戦場すら破壊し殲滅し尽くす天災であった、と。
雷轟の如き怒声を上げ、王壁は右手一本で巨大な戦斧を叩き下ろす。
そこに人類が編み出した小賢しき技の介入する余地などない。圧倒的な力。それは暴風を巻き込み大地を爆ぜさせ、空間すべてに震動と衝撃をもたらす。
たとえ片腕であったとして、たとえ数千年をかけて作られた自然石であったとしても、たとえ魔力を強く帯びた晶石であったとしても、ひとたまりもない。その身を裂かれ、爆破のごとき衝撃で悉くを吹き飛ばすのみ。
「ぬうううぅぅぅぅんッ!!」
だが意地と憤怒でそれを受け止め、弾く徒人ならざる者がいた。竜血を帯び不砕となった特大剣で正面から挑み、戦斧の叩きつけと打ち合う。
戦場すべてに轟くような凄まじい轟音が鳴り響き、衝撃が暴風を発生させ大地をめくり上げる。およそ人ならざる獣の咆吼を吐き出しながら。
「ガアアアアァァァァ~~~~~~~~~~~~~~ッ!!」
互いの渾身の力を込めた一撃が、大質量の戦斧と竜血のツヴァイヘンダーがぶつかり合った。
火花、と称するにはあまりに大きな炎が弾ける――!
とてつもない衝撃が戦場中を駆け巡った。
互いの命を奪い合っていた最前線ですら、その轟音に手を止める。敵も味方もなく、凄まじき覇気のぶつかり合いに視線を向ける。たとえ遠く両者の姿など見えなくとも。
その戦いには、卓越した馬術に武術、金剛の如き精神を宿す国境騎士らでさえ、立ち入れない。およそ人の身から発せられたとは到底思えぬほどの暴風に煽られ、その場に、数十歩離れた位置に踏みとどまることすら困難。
またひとつ、戦斧とツヴァイヘンダーがぶつかり合う。
互いに一歩も退かず、足を止め、歯を剥いて嗤い合い、意地と意地でぶつけ合う。襲いくる音波は人波を遠ざけ、他者の介入すべてを拒絶する。
二者の打ち合う轟音が響くたび、戦場から他の音が消えていく。やがて視線の大半が戦場の中央で打ち合う剣聖と王壁の両者へと引き寄せられていく。
あれほど互いの陣を削り合っていた投石機や対竜石弩ですら、その動きを止め沈黙していた。
轟音と咆吼。ただそれだけが大地を滑り、空間を揺るがせ、戦場を支配する。
誰かがぽつりと漏らした。
「……こ、れが……英雄同士の……戦いか……」
仁王立ちとなって戦斧を振るうマルドに対し、プロクスはこまめに足を使って位置を調整し、素速くツヴァイヘンダーを振るう。
互角――!
だが、誰の目にも明らか。
このままでは数秒先、あるいは十数秒先に膝をついているのは、王壁であると。
いまもまだ、失われた左腕からは血を流し続けているのだから。ひとたび斧を振るうたびに、血液は滝となってぼたぼたと大地を穢している。
「残念だ、爺さん。あんたとは一杯飲ってみたかった」
「ぐはははははっ、愉快、愉快! 心配せずともすぐに飲れるともよぅ、ホムンクルス! 王国におるは儂だけではないでのォッ!!」
「そりゃ楽しみだ。先に逝って待っててくれよ」
互いの将を応援する声が響き始めた。
「ぬはははっ! まだ早いわィッ!!」
「――ッ」
弾く。戦斧がツヴァイヘンダーを。だが体勢を崩すまでには至らない。
やがて誰もが気づく。この場での勝者こそが、両国の行く末を決めるのだということに。
誰かが叫んだ。それに釣られて、叫ぶ声が徐々に増えていく。叫ぶ、叫ぶ、叫ぶ、涙を流し、勝ちを信じ、叫び続ける。喉が潰れて血を吐いてなお、叫ぶ。
その声はもはや止まらない。輪のように広がって。戦場中に広がって。
もはや誰もが敵すら見ていなかった。国を背負い殺し合う、ふたりの男の背中に目を奪われていた。
だからこそ、女は走った。この瞬間を待っていた。自身が誰しもの意識から消失する瞬間を。
疾風を追い越し、他者の介入を拒絶するように鳴り続ける轟音と、大地を均すほどの衝撃の隙間を縫うように走り込み、両手に持った双剣を――振るう!
「――ッ!」
だが、声に音を潰され雑多な気配の入り交じる戦場にありながら、プロクスはそれを鉄板の入った靴裏で受け止めた。
リリの表情が歪む。
そうしてもう片方の剣を繰り出す直前に、乱暴に蹴り出されてしまった。とてつもなく長いツヴァイヘンダーの間合いにだ。
「~~ッ」
プロクスがツヴァイヘンダーを持ち上げて振り下ろす。
双剣術で使用されるような剣では、たとえ交差したとて受け止められる重さや威力ではない。だからこそリリは体勢を崩されながらも強引に地を蹴った。地を這うように、避けるのではなく、前へ。プロクスの方へと。右手の剣を左方下段に、左手の剣を右方下段に構えながら。
プロクスの眉が動いた。そうして振り下ろしかけていた剣を止め、リリから逃れるように大きく後方へと飛び退いて距離を取る。
「即興か。よく考えるものだ」
「おかげさまで。ああ、あなたではないけれど」
マルドだ。リリはマルドの存在を利用し、プロクスの剣から逃れた。
先ほどの瞬間、プロクスがリリを双剣ごと断っていたとしたら、その隙を狙ってマルドが必ずプロクスの頭部を割っていただろう。
「だが俺が王壁の狙いに気づかねば、おまえは死んでいたぞ。敵の実力や思考を信じて動くやつがあるか」
その仕草、その言い様が、あまりにも似ていて。まるで剣を教わっていた頃のように。
リリは少しだけ寂しげに笑う。
「信じてるわ。魂は肉体に引かれる。あなたはあなた自身が考えている以上に、ブライズと似てしまっているもの。ブライズは命を大切にする人だった。勝つために死ぬなんてあり得ない。あの人もあなたも、生きて勝つことにこだわる人よ」
プロクスが顔を歪めて吐き捨てた。
「……厭になるな、まったく。――だがあいにく、頼りの爺さんは限界のようだぞ」
「――! 閣下!?」
マルドの全身が揺らぎ、膝をつく。
「ぬぅ……」
率いる第一大隊から悲鳴のような声があがった。同時に共和国軍が一斉に盛り上がる。
だがマルドはプロクスでもリリでもない、あらぬ方角を向くと、頭を振って自身の膝を手で押し、強引に立ち上がった。
けれどもすぐに戦斧の重さに耐えきれず、大きく揺らいで再び大地に倒れた。ガランと音が鳴り響き、戦斧がその手の中から転がり出る。
マルドは大の字となって空を見上げていた。
「まだじゃ……。まだ……あやつが……」
「妄言か。そんな身体であんたはよくやったよ。もう楽になりな」
プロクスがツヴァイヘンダーを逆手に持ち替え、マルドへと向けて歩き出した。
マルドは戦斧を握ることさえできず、ただ大地から空を見上げている。プロクスが立ち止まって切っ先を喉元へと照準し、ツヴァイヘンダーを持ち上げた。
「……」
「ではな」
誰もが息を呑んだ。
第一大隊から悲鳴があがった。やめてくれと誰かが叫んだ。
けれども。
凶刃は老騎士を襲う――寸前に身を入れたリリは、右手の剣でツヴァイヘンダーを打ち据えて軌道を逸らせ、左の剣でプロクスの胴を薙いだ。
「させない!」
だがプロクスは一瞬早く身を翻してそれを避け、ロングソードでは届かないツヴァイヘンダーの間合いに身を入れたところで、豪腕で以て薙ぎ払った。
受けられない。流せない。本能が肉体に警鐘を鳴らす。瞬時に判断。
掻い……潜る――ッ!
刃に触れた頭髪が引っ張られ、長い髪が大量に舞った。大地を這うように足を目がけて右の剣を放つ。プロクスはそれを鉄板の入った靴裏で受け止め、さらに膝を目がけて繰り出した左の剣を跳躍で躱した。
右手の刃は左方に、左手の刃は右方に、全身を伸び上げながら鋏のようにプロクスの首を刈る――が、プロクスは後退しながらリリの間合いから逃れ、長いツヴァイヘンダーを振り下ろした。
「おお!」
「~~ッ」
恐れるな――! 恐れはおまえの身を滅ぼすぞ――!
左足を引いて半身で躱し、リリはさらに距離を詰める。
「はぁ!」
突き出した切っ先は、ツヴァイヘンダーの柄で受け止められた。プロクスがそのまま強引に押し戻すと、リリはその力を利用して後方宙返りをして距離を取る。
距離を詰めろ――! 攻め続けろ――! 敵の息が上がるまで剣を下ろすな――!
ひとつ、またひとつ、教えを思い出す。
直後に互いに距離を詰め、眼前で打ち合った。両の剣を駆使して放たれたリリの細かく早い斬撃を、プロクスは巨大なツヴァイヘンダーで器用に打ち落としていく。
休むな――! 苦しいのはお互い様だ――!
鋭く短い金属音が鳴り響く。
「ああああ!」
「おおおお!」
地を掻いて走り、互いの位置を入れ替え、打ち合う。
剛と剛、力と力の戦いから一転した凄まじい技の応酬に、周囲が再び息を呑む。
リリが獲物を狙う肉食獣のように油断なく周囲を疾走すれば、ツヴァイヘンダーを正眼に構えたプロクスは、踵を軸に常に彼女を正面に捉える。
そうしてぶつかり合い、弾ける。
互角――ではない。
プロクスの表情は変わっていないが、リリの表情には焦燥が浮かぶ。
これまで自身の剣をここまで受けた敵はいなかった。それだけならばまだいい。隙を見せるまで何度でも繰り返すだけ。たとえ技量が互角であろうとも、ブライズが提唱したバカげた根性論精神論で乗り切ることができるつもりでいる。
かつてはそれで共和国の〝偽英雄〟を討ち取ったのだから。
「がああああ!」
「~~っ!?」
剣を弾かれ、体勢を崩す。
だが、違う。精神論では乗り越えられないものがある。
傷むのだ。柄を握る手が。打ち合うたびに骨を伝い全身にまで響く衝撃が。このまま互角の戦いを続ければ、おそらくは先に潰されてしまうのは自身だ。わかっている。
追撃に踏み込んできたプロクスの攻撃を受け損ない、左の剣が空を舞った。
「――!」
「どうした、王国の戦姫! 貴様もそこまでか!」
薙ぎ払われた巨大な刃を、右手に残る剣でまともに受け止めてしまった。
「あぐ……ッ」
刃が軋み、欠ける。気づけば全身が宙を舞っていた。反転し損ね、大地に打ちつけられて滑り、けれども膝を立てる。
「げぁ……っ」
血混じりの吐瀉物を吐いた。全身が痛む。柄を握る右手の感覚が薄い。
悟る。
勝てない――。
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