第353話 プロクスの炎
ツヴァイヘンダーに付着した血を勢いよく払った男――プロクスは、視線をリリへと向けた。誰も、何も。音のない世界。わずか数秒であったとしても、戦場から音が消えた。
あの頃の視線で灼かれる。ブライズの死以降、涙の中で積み重ねてきたすべてが燃やされて、心の中から消えていく。炎の名そのままに。焦がれていく。
プロクスが馬上から手を伸ばす。ただ立ち尽くすばかりとなってしまった女へと。
そうして唇の端にあの頃と同じ笑みを浮かべて、こう言うのだ。
「――来い、リリ」
ああ、ああ……。
その声で、その熱で……。
わたしの名を……。
だから。
無限に続く闇の中で、炎に引き寄せられる蛾のように。
踏み出しかけて。
「戯けィッ!! 刮目せよッ!! そこにあの男の魂は、ない!」
老騎士の雷轟にも似た怒号に、足と息を止める。
肩口から滝のように血液を流しながら、老騎士が立ち上がった。頑強なる岩石の如く立ち、右腕一本で担ぐ大斧の柄で己の肩を叩く。
「オルンカイム……閣下……」
その覇気が、リリにわずかながらの正気を取り戻させる。
だからこそ理解する。老騎士の置かれた状況を。
いくらも保たない。あの出血量では。だがそれでも、老騎士は折れない。弱味など一切見せない。救いさえ求めない。
第一大隊の騎士がマルドへと駆け寄った。数名がプロクスとの間に身を入れて剣を構え、数名がマルドを支えに走る。
「閣下、急ぎ止血を――!」
「あとにせィ! まだまだ暴れ足らん!」
「なりませぬ! これ以上は! あなたは王国の希望! 我らが命を賭しプロクスめの足止めを致しますゆえ、どうかここは溜飲を下げ、今一度の退却を――」
目をかっ開き、凶暴に歯を剥いて。
「抜かせィ! 元より使い物にならん左腕を斬って捨てただけのこと。かえって身軽になったというものよ! ぐははははっ!!」
「将軍閣下、あなたはいつもむちゃくちゃだ! 今度ばかりは命を失いまするぞ!」
「知ったことかァ! どけぇ!」
流血を留めることさえせず庇いに入った騎士たちを払い除け、マルドは一歩、また一歩とプロクスへと近づいていく。
その悪鬼羅刹とも言うべき姿は、しかしあまりに尊く、そして美しく。
応じるように、プロクスが馬から下りた。背に収めたツヴァイヘンダーの柄へと右手を伸ばす。
だが。
「いかん。伝え忘れておったわ」
プロクスとの間合いに踏み入るまさに寸前、マルドが思い出したようにふと立ち止まった。
そうして肩越しに振り返り、リリへと向けて邪気のない笑みを浮かべる。
「イトゥカよぅ。ぬしはとうに見つけておるぞ。偉大なる炎を継ぎし者をな。あのような出来の悪い幻なぞに魅せられるな。顔も、声も、すべては夢幻。目を閉じ耳を塞ぎ己が心の行き着く先に刮目せよ。あれはそこにいる」
それだけを告げると、マルドは胸を張り、威風堂々とプロクスの前に立つ。
「さて、待たせたのぉ。ずいぶんとお行儀がよいではないか。ホムンクルス風情が」
「死に際の別れに立ち入るほど野暮ではないのでな」
「……言いおるわ。性質まで似せるとは悪質極まりない」
プロクスが表情を歪めて笑った。
「本音だぞ?」
「知っておるわ。ぬしよりよほどのぉ」
「そうか。貴様らもブライズの知り合いだったな。……まったく、どいつもこいつも。人の顔見りゃブライズブライズときたもんだ」
半笑いで呆れたように頭を掻く。
まるで本物の人間であるかのように。まるで本物のブライズであるかのように。
言動も、仕草も、思考すらもうり二つ。
「じいさんよ。おっ始める前に、俺の方もひとついいか?」
「お互い様じゃ。好きにせい」
「ありがとよ」
プロクスの視線がマルドからリリへと戻される。
そうしてもう一度手を伸ばし、同じ言葉をつぶやいた。
昔と変わらぬ表情で。拾われたあの日、馬車の下で聞いた、包み込むような暖かく優しい声で。
「……俺と来るか、リリ?」
胸の奥の柔らかい部分が、ぐにゅりと歪む。その声に、その顔に、仕草に、言動や思考にさえ。
発狂しそうになる。
けれども――。
目を閉じ、耳を塞ぎ、最初に見えてくる者。
どこまで逃げても続く現実という闇の中でふいに見つけた、炎。ううん、いまはまだ小さな、火。
どこか彼に似ていて、でもやっぱりよく見たら全然違っていて。
剣にひたむきで、強い癖に涙もろくて、いつも周囲には誰かがいて。
他者を励まして、力づけて、導いて、損な役回りばかり。
他の人には照れもせずに命を大切にと言う癖に、自分のことだけは投げ出してしまう。
誰もが彼に救いの手を差し出したくなる。
自信過剰で、強くて、可愛くて、ちょっとおバカな子。
ああ、ああ。思い出すだけで、自然と笑みがこぼれてしまう。親子ほども年齢が離れているのに、こんなにも胸の中が焦がれてしまう。
いま、すごく、逢いたい。
あの笑顔を、あのぬくもりを腕の中に掻き抱いて感じていたい。
だから――。
だから目を開き、リリは首を左右に振った。
そうして、半身を引き千切る心持ちで、喉奥からかろうじて言葉を絞り出す。
「……行かないわ。あなたはブライズではないのだから……」
しばしあった。
小さなため息のあと、プロクスの手が下がる。
半ば以上、リリのその返答を予想していたかのように。
「だろうよ。惑わせて悪かったな。誘いはカーツへの義理だ。戦場で戦姫と遭遇したら、必ずそう言えと言われていた。まったく、恥ずかしい真似をさせやがる」
鼻で笑って、プロクスが困ったように指先で頬を掻く。
「あいつはやたらとこだわっていたが、俺には終ぞ理解できなかった。俺にとって心から大切なのはカーツや、いまこの戦場をともに駆ける仲間たちだけだ。……戦姫リリ・イトゥカではない」
誰かが言った。
積み重ねてきた記憶こそが、その人たらしめるのだと。
「おまえの言う通りだ、リリ・イトゥカ。肉体は受け継いだが、俺はブライズではないのだろう。ホムンクルス・プロクスだ。プロクスとして生き、プロクスとして死ぬ。それでいい」
プロクスがツヴァイヘンダーを抜いた。リカッソを使用せず、その豪腕で以て柄を握る。
「――俺の名はプロクスッ!! 貴様らの脅威となる者だッ!!」
だからもう、迷わない。
大丈夫。わたしは戦える。
「立て。俺に戦意のない女を斬らせるな」
「……そうね」
ああ、いま。
いまこの瞬間、ようやく――。
マルドが片手で巨大な戦斧を持ち上げる。
そしてリリは両手の剣を翼のように広げ、立ち上がった。
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