第348話 壊れる
手綱を引いて馬を止めたリリの横を、ヴォイドが駆け抜けていく。馬上でクレイモアを高く掲げ、草臥れた優男へと向けて。
「おおおおおッ!!」
女は自身が犯した失態に気づく。
呆けたのだ。親しき兄弟子を見て。敵としてここに来ているであろうことは予測していたというのに呆けてしまった。時間にしてほんの一瞬。
だがそれは、同時に致命的な瞬間でもあった。
気づき、叫ぶ。
「だめ――ッ!!」
カーツとヴォイドの距離が消える。
たとえ聡く彼女の叫びの意図を汲み取っていたとしても、馬を駆る以上はもはや止められぬ勢いに達していた。
「~~ッ!?」
けれどもヴォイドもまた、戦場で猟兵として過ごしたこの一年で、その感覚を学生の時分より遥かに鋭敏にしていた。
その男の目を間近で見た瞬間に、肌が粟立ったのだ。指先から背中までを悪寒が駆け抜け、そのすべてが自身の死を想起させた。脳が全身に激しい警鐘を打ち鳴らす。
止まれ! 止まれッ! 止まれッ!!
一瞬前まで己が脳裏に描いていたすべての予測が覆っていた。
「く、お――!」
ゆえに男の頭部へと叩きつけるべく、高く掲げていたクレイモアの柄を取り回し、逆手に持ち替え、刃で己が身を守る。
そして交差――!
ずぐり、と血肉を裂く音が響いた。
馬首を斬り裂きながら通り抜けてきた鋭い刃が、ヴォイドの身を守るクレイモアの刃に直撃する。瞬間、鞍から全身が浮かんだ。
クレイモアの刃が悲鳴をあげた。
「ぐ――ッ」
金属同士がぶつかり合い、擦れて火花を散らし、その直後にヴォイドは首を失い走りながら崩れゆく馬の鞍から後方へと、大きく吹っ飛ばされていた。
「があああああぁぁぁ~~~~~~~ッ!?」
それは男の体躯からは到底想像できないほどの膂力だった。リリの警告がなければ、確実に両断されて死んでいた。いや、死してなお、己の死を理解すらできなかっただろう。首を失ってなおも走り、男を通り過ぎたところでようやく地面に崩れた馬のように。
「――く……っそがぁぁッ!!」
空中を蹴って後方回転し、斜面近くまで押し戻されながら着地し、勢いを殺しきれずに背中から何度も転がる。
かろうじて膝を立てたものの、攻撃を受け止めた両手がぶるぶると震えていた。舌打ちをして、唇の端から滲んだ血を袖で吹きながら立ち上がる。
優男は両手に一振りずつ――二振りの剣を提げ、目を丸くして口を開いた。
「おーおー、いまのを防ぐのか。大したもんだ。リリと一緒に動いてたってこたぁ、さてはおまえが一組三班の〝狂犬〟だな」
「んだてめぇは……」
ヴォイドは右手を振って感覚を取り戻してから、あらためて両手でクレイモアをつかみなおす。柄を握る手に冷たい汗が滲んでいく。
初めてホムンクルスやテスカポリトカと相対したときのように。もはやホムンクルスなど何体も沈め、敵ですらなくなったというのに。
頭にくる! どこまでいっても、上がいやがる――!
だからといってケツをまくる理由にはならない。ここは戦場。いまは稼ぎ時だ。手強いほど金になる。
息を吸い、あらん限りの殺気を叩きつける。
対する男は飄々と肩をすくめて。
「おー、怖え怖え。悪かったって。そう怒んなよ。どうにも俺ぁ、女と女見てえな顔したガキ以外にゃ、加減のできねえ性格でなァ。――おまえさんの刺激的すぎる殺気に、ちょいと興奮しちまった。なかなかどうして、いい線いってるぜ」
「カーツ兄さん……」
リリのそのつぶやきに、ヴォイドは顔をしかめて舌打ちをした。
散々耳にした名だ。傭兵や猟兵の間で、その名を知らない者はモグリだ。
片田舎ながら次期領主の地位を惜しげもなく擲ち、突然猟兵となった男。やがて男は剣聖ブライズにその腕を見込まれ、彼の一派に身を寄せるようになった。
剣聖という大きすぎる光によって隠されていただけで、以前の戦争では相当な数の将を討ち取っている。
「てめえが剣聖の右腕〝ラーツベルの孤狼〟か」
ヴォイドと同じように、今度はカーツが苦々しく顔をしかめて頭を掻く。
「よせよせ、カーツおじさんでいい。故郷の景色なんざ、もうとっくの昔に忘れちまった。いまじゃ〝孤狼〟ですらない。ただの〝共和国の狗〟だ。犬同士、ご同輩みてえなもんだろ。ヴォイド・スケイル」
「あ? 一緒にすんなや。裏切りもんがよ」
馬上のリリと、そして馬を失ったヴォイドを取り囲むように共和国軍の騎士たちが移動している。だが戦姫を恐れてか、十数歩の距離を保ったまま襲いかかってくる者はいない。
「せ、戦姫……っ」
「あんなに若い女なのか……!?」
「見かけに騙されるな……っ」
「……あいつひとりに、何百人の騎士が殺されたと思ってる……」
「そうだ……! だがいまこちらには、アランカルド隊長がいる……!」
「い、一斉にかかれば戦姫を討ち取れるぞ……」
騎士のひとりが、カーツに語りかけた。
「アランカルド隊長、我々にご命令を!」
だが言葉こそ勇猛なれど、リリへと注がれる視線は怯えたままだ。カーツの顔も一切見ていない。リリがほんの少しでも殺気をあてようものなら、そのまま腰を抜かしそうな表情をしている。これでは戦えたものではない。
カーツが眉間に皺を寄せ、面倒臭そうに言い放った。
「おめえら、無粋過ぎんだろぉ。かわいい妹弟子との再会だぜ。空気くらい読めよ~。ちっとは気ぃ利かせて席外すとかあんだろーが」
「し、しかし我々はあなたの護衛と……その、監視も命じられていまして――」
がちがちの騎士の鎧の背を、カーツが馴れ馴れしくたたく。
「バァカ、心配すんな。いまさら共和国を裏切ったりしねえよ。つか、俺は人生で一度も人を裏切ったことなんざねえ。そいつが唯一の誇りだっつーの」
「あいかわらずの適当さね」
リリが呆れたように真顔になっているのを見ても、カーツは動じない。
「ああ~、つっても親だけ例外な? 領主みてえな退屈なもん継いでらんねーから、家から飛び出しちまったからなっ。はっはっは!」
少しだけ目を細めて声を低くし、静かに囁いた。
「……ガキの時分にな、おもしれえ男に会っちまったのさ。だから、そいつを裏切ったこたぁねえんだ。いまもな」
ふうと、疲れたように息を吐く。
「わかったら、おめえらは投石機を安全な場所まで運んでな。ここにあっちゃあ戦姫や狂犬にぶっ壊されちまう。それだって大事な任務だぜ。心配すんな。裏切らねえし、ちゃんと手柄も折半にしてやるよ。だから外してくれよ」
騎士たちは目を見合わせると、少し躊躇いながら後退り、我先にとリリから逃げるように投石機の方へと走っていった。
「クソがッ、逃がすかよッ」
すぐさま駆け出しかけたヴォイドの前へと、カーツが剣を持った両腕を広げて牽制する。足を止めたヴォイドが舌打ちをした。
「話が終わるまで、そこでおとなしくしててくれよ。ヴォイド・スケイル」
戦場の喧噪が遠のく。
リリがようやく口を開いた。
「カーツ兄さんがここにいたのは偶然ではないわね」
「ああ。待ってた。おまえがいまも先生の戦法を踏襲しているなら、将狙いか投石機破壊のどちらかだ。この戦力差で前者は無理だ。だから戦場の端にある投石機の近くにいりゃあ、いずれ現れるだろうとは思ってた」
「ではプロクスとわたしがこれまで一度も遭遇しなかったのは、カーツ兄さんがそういうふうに調整していたから?」
「そういうことになるな」
リリの表情が強張った。頬を微かに引き攣らせ、何かを言いかけて口を閉ざし、歯を食いしばる。
そして一度頭を振って顔を上げた。
「……どうして王国を裏切ったの?」
「その質問でいいのか?」
血生臭い風が流れる。金属音も爆発音も聞こえ続けている。
だが、静かだった。この場だけは。ここに立つ三者の耳に音は入らない。相対する人物の言葉と、己の肉体が刻む鼓動のみで。
カーツが視線を下げて首を振り、ため息をついた。
「ま、いいか。どうせそこに収束する話だ。……さっきも同じことを言ったがな、リリ。俺は王国にもオウルディンガム国王陛下にも忠誠を誓ったことなんざ一度もねえ。裏切ったもクソもねえのさ。そして、俺が女の他にこの命をかけてもいいと思えたのは、後にも先にも先生だけだ」
ギシリ、とリリの両手の剣が鳴いた。
柄を握る手が震え、固く目を閉ざし、感情の爆発を堪えるようにうつむく。
誰も言葉を発さない。実際には数秒に過ぎないが、ヴォイドには永遠にも続く沈黙のように思えた。
けれども、やがて。
やがて女は、その言葉を口にする。
「…………プロクスは、やはりブライズのホムンクルスなのね……?」
カーツが微笑み、うなずいた。
それはおよそ草臥れた中年男のものではなく、まるで子供のように無邪気な笑みだった。
「そうだ。この事実を知る前に戦場でおまえとプロクスが遭遇しないよう、俺はずっと動いてたんだ。だがようやくおまえに報せてやることができた」
カーツが一歩、リリへと踏み出す。
その手を伸ばして。
「……だめ……」
男の声が上擦る。
嬉しそうに。宿願を果たしたかのように。
「時間がかかっちまったけど、おまえを迎えに来たんだ。なあ。俺と来いよ、リリ。あの時代を取り戻そう。先生にもう一度逢わせてやる。ブライズとリリはふたりでひとつだろ」
「……もう……やめて……」
「ケリィもきっと来てくれる。他のやつらもだ。みんなであの時代をやり直すんだ」
微かな狂気の混在する無邪気な笑みで、カーツはまた一歩、リリへと近づいた。
「だから、なあ! もう一度だけ、俺に色づいた景色を見せてくれよ!」
「~~ッ~~」
瞬間、言葉を遮って長い髪を振り乱し、両手で自身の頭を挟み込み、リリが戦場中に轟く悲鳴のような声で叫んでいた。
だから、少年ヴォイド・スケイルは動く。
地を蹴り、悲哀と怒りの悲鳴の中を、疾走した。
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