第345話 猫とアサシン
ラセルはしばし唖然とした表情を見せたのち、突然火がついたように笑い始めた。肩を揺らしてひとしきり笑い、クレイモアの切っ先をリオナへと向ける。
「迎えに来たぁ? 遅くなってごめんね? ……裏切り者が何言ってんの? 僕はもうどこにも行けないのに」
「ううん、力尽くでも連れていくよ」
瞬間、リオナが執務机を蹴った。鋭く放たれたレイピアの切っ先がクレイモアの刃で阻まれ、刀身が大きく撓む。
リオナの表情が歪んだ。
「~~っ」
「なあ、それ何のつもり?」
弾かれ後退したリオナへと、今度はラセルが地を蹴る。
「無駄だよ、ベルツハイン」
放たれた刃は轟と風を纏い、身を反らせた少女の制服を掠める。
「……ッ」
刃が金属糸の制服を擦り、火花が散った。ほんの少し掠めただけでリオナは体勢を崩して執務室を勢いよく転がる。
ラセルが追撃に出てきたところを狙い、リオナは転がりながらダガーを投擲した。けれどもあっさりとクレイモアで打ち落とされてしまう。
リオナの表情に絶望が浮いた。力の差がありすぎる。
「おまえはただの諜報員や暗殺者として育てられたけれど、僕は暗殺技術の他に剣士としても育てられたんだ。知らなかったろ? 毎日誰かにボコられたなあ。まあ、そいつらみんな殺したけど。――こんなふうにしてさあ!」
「~~っ」
突き出された切っ先を地べたから両手両足を使って跳んで躱し、レイピアを構え直す。金属糸の制服の腹部が裂かれてはだけ、露わになった肌から赤い血液が流れ出した。
灼けるような痛みに、リオナの顔が歪む。
「生きていることさえ知らされなかった。もう死んじゃったって思ってた。毎日毎日ひとりずついなくなって、最後にあなたがいなくなって、ラセルもみんなと同じように死んじゃったんだって思ってた。生きてるって知ってたら――」
「――知ってたら何だ!? おまえが僕を……殺してくれたのか……?」
「何……それ……?」
リオナの意識の虚を突くように、ラセルが再び地を蹴る。
「だったらいますぐにやってみろッ!!」
「――っ!」
薙ぎ払われた剣を受け流しきれず、レイピアの刃が折れ曲がった。それを投げ捨て大腿部に巻きつけていたダガーを抜こうとしたリオナの腹を、ラセルの前蹴りが襲う。
「う――ぐ!」
込み上げる胃液まき散らし、リオナはダガーを抜いた。けれども次の瞬間には手の中から弾き飛ばされる。金属音が鳴り響き、空中で回転したダガーが床へと突き刺さった。
ラセルはトドメを刺さず、膝をつくリオナを冷めた瞳でただ見下ろす。
「ほら、やっぱり何もできないじゃないか。そこで見てろよ。国王が死ぬ様をさ」
「だめ! やめて!」
リオナが叫び、ラセルの足に飛びかかる。だがラセルはリオナの赤い髪をつかむと、乱暴に彼女を振り払った。その全身がフロアを転げて、執務机に頭部をぶつける。
「邪魔だよ」
「だめ、ラセル!」
再び縋り付こうとしたリオナを、今度は肩口を蹴って吹っ飛ばす。
その視線はすでに彼女には向けられていない。国王キルプスに。
「諦めろ。僕にはやらなければならないことがある」
「ねえ、戻ってよ! わたしが怪我をして寒くて死にかけてたときに、毛布をかけてくれたでしょ!? 自分だってひもじくて、痛くて、でもみんなに食べ物を分け与えてばかりいたじゃない! あの頃のラセルに――」
「黙れ!」
舌打ちをしたラセルの視線が、再びリオナへと戻された。
「毛布を掛けた? 食べ物を分けた? 欺瞞だ。……その頃にはもう手遅れだったッ!!」
暴風を纏わせる勢いでクレイモアを薙ぎ払い、それをかろうじて屈んで躱したリオナへと肩から全身をぶつけ、壁に押しつけながら大腿部に巻きつけられていたダガー用の鞘ベルトを強引にちぎり取った。
「う――っ」
残った数本のダガーまでをも奪われた。
その首に肘を押しつけて、ラセルが唾を飛ばす勢いで怒鳴りつける。
「みんな任務で死んだと思ったか!? 違う! 違う違う違う! あれはあくまでも実験施設だ! 新時代の暗殺や戦闘を担うとされたホムンクルスどもに対抗できるだけの人間兵器を造るための、錬金術師どもの実験場だった!」
「ど、ういう……こ……と……」
執務机に座ったままのキルプスが、静かに口を開く。
「そうか。共和国内の魔導錬金術師は、二派に分かれていたのだな」
「そうだ! 完璧を目指すように夢想を追うホムンクルス推進派と、当時の技術でも実現可能だった半人造人間の生産を推進する人体利用派に分かれていた! 僕らは後者だ!」
ラセルの表情が酷く歪む。怒りと悲哀の両方が入り交じる、激情の行き場を失ったかのように。
「アテュラの設計図を入手し急速に進む推進派の研究に焦った施設は、抱える研究素材で最も優れた個体を造り出すため、狂った実験を開始した!」
「か……っ……ぁ……」
ラセルが苛立たしげにリオナの首から肘を剥がし、再びその赤い髪を片手でつかんで絨毯の上へと彼女を勢いよく叩きつけた。
「あ……っ」
背中と頭部から打ちつけられたリオナは、咳き込みながら血を吐く。
そんな彼女を見下ろして、ラセルはつぶやいた。
「おまえはやつらのお気に入りだったから、運よくそこから逃れられただけだ」
「……ッ」
キルプスはうつむき、両肘を執務机についたまま静かに尋ねる。
「その実験とは?」
ラセルがキルプスを睨んだ。憎悪を込めて。
「言ったろ。最も優れた個体を選ぶこと――いや、造ることだ」
「……まさか、施設にいた子供同士を殺し合わせたのか?」
「ハッ、これは驚いた。ご名答」
リオナの目が大きく見開かれる。その視線を肯定するように、ラセルはありとあらゆる感情をすべて込めたような、ぐちゃぐちゃな表情を見せた。
酷く歪められた目から、涙がこぼれ落ちる。
「……僕が……みんなを殺した……。ともに育ち、慰め合ってきた仲間を、ひとりずつこの手にかけたんだ……。僕を殺そうとしてきたやつを殺した……。恨まないと言って、正々堂々戦ったやつを殺した……。やめてと叫んで、逃げ回るやつも殺した……。勝負がついても殺さなければならなかった……。……自ら死を選んだ少女も……見殺しにした……」
キルプスが歯がみし、執務机を肘で強く叩く。
だが両手で顔を覆っただけで、言葉はなかった。
「……そして僕はひとりだ。施設を移され、次はホムンクルスと戦わされた。セフェク型もケメト型も殺した。出来損ないの魔物型ホムンクルスも殺した。みんな殺した。けれど、ふふ、ははは。魔導錬金術師たちの人体利用派は負けた。当然だ。これだけの犠牲を出しながら、成功例がたった一例だけじゃあね。再現性はゼロだ。…………ッ、ざまぁみろだッ!!」
怒号のように吐き捨て、自嘲し、切っ先を下ろして黙り込む。
「なあ、誰が悪かったんだと思う? 我が身かわいさでみんなを殺した僕か、それとも運だけで生き延びたベルツハイン? はたまた、こうなる前にエギル共和国を滅ぼすことができていたはずなのに、それをあえて選ばなかった――……ガリアの国王キルプスと、剣聖ブライズか」
沈黙が辺りを支配する。
ラセルが大きなため息をつき、クレイモアをその場に落とした。
「ラセル……?」
「あ~。ようやく叶ったぁ……。は、はははは、ははは。僕はね、ずっとキルプスとブライズに恨み言を言いたかった。あんたたちの甘さのせいで、こんな生き方しかできなかったぞって。ただ……それだけのために……」
いまのラセルが隙だらけであることは、剣の素人であるキルプスの目から見てもわかる。だがそれでも、キルプスもリオナも動けなかった。
だから。
もう一度、ラセルがため息をついた。いいや、違う。それは紛れもなく安堵だ。十数年をかけ、敵国の王にようやく言葉を伝えることのできた、安堵。
そうして少年は微笑み、懐からダガーを取り出す。
「知っておいてほしかった。いいか、国王。もしこの苦境を永らえても、僕らのことを忘れるな。おまえたちの甘さ優しさが、欺瞞が招いた罪を、生涯忘れるな。目に焼きつけろ。魂の奥深くに刻み込め」
「ラセル……待って……」
「目的はもう達成した。――じゃあね、リオナ。世界に許されたなら、ただ普通に生きろ」
逆手に持ち替えて顎を上げ、その切っ先を自らの喉に照準し――。
両腕に力を込めた。
「ラセ――っ!?」
ずぐり、と肉の裂ける音がして、リオナは目を閉じ顔を背ける。そうして恐る恐る瞼を上げたとき、少女はその光景に驚愕した。
「陛下ッ!?」
赤い雫がいくつも絨毯に滴り落ち、影のように染めていく。
ダガーの刃が貫いていたのはラセルの喉ではなく、懸命に伸ばされたキルプスの掌だった。驚き戸惑うラセルをよそに、キルプスは貫かれた手を震わせながらダガーを強く握り締め、柄をつかむラセルの指をゆっくりと解かせる。
「何の……つもり……」
「〝ウェストウィルの異変〟以来、私たちは一瞬たりとも忘れたこどなどない。停戦中、ブライズとともに悔いた夜を、いまも鮮明に覚えている。施設のことも、そこのベルツハインからある程度は聞いていた。その上で返答の機会をもらいたい」
キルプスは血まみれのダガーを足下に落とすと、ラセルに向き直ってゆっくりと頭を下げた。
「すまなかった。どうか許してほしい」
「……何……なんだよ……。何なんだよ、あんたッ!! ふざけるなッ!! 言えよ! 共和国民の被害を抑えるためだったんだろ!? 停戦は何も間違ってねえよ!」
その怒号は、やがて鼻にかかる涙声へと変化していく。
「言い訳……しろよ……。たった十数名の子供と……数百万の命を天秤にかけた結果だろ……? 決断は間違っていなかったって、胸を張って言え……」
ラセルが後退り、壁に背をあてて静かに崩れ落ちる。
その頬を涙が伝った。
「それを何で……そんな……いまさら……。……僕はずっと長い間……たったひとりで戦って……罪を重ねて……戻れないところまで来て……。……もう遅いんだよぉ……」
その瞬間、ラセルの上擦る声を掻き消すように、けたたましい音とともに執務室の扉が開かれた。
「陛下! ご無事で――ッ」
飛び込んできた近衛騎士アルムホルトはキルプスと、そしてその前で崩れ落ちた暗殺者の少年を見比べて戸惑う。
「私は問題ない。それより声を落とせ、アルムホルト。人を呼ぶ必要もない」
「……その掌は!?」
右手で押さえた左の掌からは、いまも血液が流れ続けていた。
「転んだだけだ。もういい大人だ。騒ぐほどのものではないだろう」
「またそのようなことを……これでは私の精神の方が寿命まで保ちませぬぞ……」
アルムホルトが顔を歪めて歩み寄り、キルプスの掌へと魔術による治療を施していく。魔術光をあてながら、老いた騎士は視線をラセルへと向けた。
「少年。おぬしが近衛をひとりでも殺めていたら、陛下のご意志に逆ろうてでもこの手で殺す気であった。だがそうではなかった。いまは何より優先すべき陛下の治療中。困ったことに、この部屋よりひとりふたりが消えたところで儂は追おうにも追えん。さっさと失せるがいい」
キルプスが胸を撫で下ろすように息を吐く。
「おまえはいつも理解が早くて助かるよ」
「陛下、ご無礼を承知の上で、少々お黙りください。あなたはあまりに身勝手です」
「すまない」
うつむき、座ったままのラセルが静かに吐き捨てる。
「……バカしかいないのか、この国は。いいさ。待ってる。治療を終えたら、僕を斬ってくれ。もう目的は達成できたからな。ひとりよがりの戦いは終わりだ。……それに、そろそろみんなにも謝りに行かなきゃな……」
瞬間、乾いた音が鳴り響いた。
リオナの平手がラセルの頬を打ったのだ。
呆然として彼女を見上げるラセルに、リオナが言い放つ。
「立って。ここから逃げるの。それにひとりじゃないよ。あたしがいる」
「……リオナは普通の暮らしを送れよ。本当は恨んでなんていない。あの頃のことや僕らのことなんて忘れて、もう幸せになりなよ。ほら、一組三班のエレミア・ノイだっけ。あの子と一緒にいたいんだろ」
キルプスが一瞬目を泳がせたが、それには誰も気づかなかった。
リオナの表情が少し曇り、弱々しい笑みを浮かべる。
「幸せにはなれないんだよ。あたしは用途的にそういうふうに造られてはいなかったから。この身体で未来は作れないの。だからもう、卒業したら彼には二度と会わないつもりだった」
「……え……」
少女は意識的に歯を剥いて、ニィと笑う。
けれども涙はすぐにこぼれ落ちた。
「地獄なら見てきたよ。ラセルが知らないところでいっぱいいっぱい見てきた。だからあたしもラセルみたいに踏み外してた。でもね、彼があたしを人の道に戻してくれたの。それまで負ってきた多くの傷口に触れてくれた。泥に沈む汚物のようなあたしに手を伸ばして、引き上げてくれた。何度か振り払ったのに強引に抱きしめられた。もうね、頭ヤラれちゃうくらい大好きになっちゃった」
ごしごしと袖で目元を拭うが金属糸の制服ではあまり効果はない。
「気づけばね、幸せになってた。いっぱいいっぱい、色んな人の手まで見えるようになってた。多くの人に助けられて、そのときわかったんだ。あたし、まだ生きていてもいいんだって。だってあたしが死んだら、きっとこの人たちを泣かせてしまうもん。――あたしはもう、十分に幸せをもらったんだよ」
やがてこぼれる涙を諦めて、リオナはラセルへと手を伸ばす。
ラセルは鼻先に突き出された手から視線を外した。
「もしラセルに伸ばされる手がないのなら、あたしがその手になるよ。だから、ここから先は一緒に行こう。いまこの世界であたしたちに何ができるのか、探しに行こうよ」
「……僕と逃げればエレミアとはもう会えない。共和国はもちろん、ガリアにも戻れなくなる。多くの国でお尋ね者だ」
少女はただ微笑む。
「いいよぉ。そのために、エルたんが一番好きな人にお願いしてきたから。あたしはもうすぐいなくなるから、そのあと彼が悲しまないようにしてあげてねって。でもきっと悪い別れじゃないから、追ってこさせないようにしてねって。あはっ、例えば料理修業で世界一周みたいな?」
微笑み、嗚咽する。
伸ばされた手は下げられない。自ら強引にラセルの手をつかもうともしない。
ただ待つのみ。少年の生きたいと願う意志が、この手をつかむまで。辛抱強く。
「ちゃんと言い残してきた。だから、あたしはもういいんだ。お腹いっぱい。彼から色んなものをもらったから。今度はあたしがラセルにそれをあげる番だよ。いらないって言っても押しつける。彼にそうされてきたみたいに」
流れる夜風が割れた窓から吹き込み、ふたりの髪を優しく揺らす。
やがてラセルは――。
「………………僕はまだ、その手をつかんでいいのか……?」
「いいんだよ。だから、一緒に行こう。償いながら生きよう」
震えながら伸ばされたラセルの手が、リオナの手をつかんだ。そうしてゆっくりと腰を浮かせ、少年は立ち上がる。
少女はキルプスに一礼をすると、少年の手を引いてドアの方へと歩き出した。
その手を少年が一度だけ切って立ち止まる。
「国王。北部の兵をもっと西壁へ割くといい。いまの共和国軍は毒を使用できない」
「……! なんとっ!」
キルプスが目を見開いた。
ラセルが早口で続ける。
「〝ウェストウィルの異変〟の影響は国内でも決して小さくはない。名目上は王国軍の仕業になっているけど、今回の戦争で使用すれば共和国軍上層部の仕業であったことが民に明るみになる。自国に毒を撒いたという陰謀論が確信へと変われば、ルグルス・ネセプは大統領の座を追われる」
「だから毒は使用できないと?」
「準備すらしていないし、北に出没している共和国軍はブラフだ。信じるかどうかはあなたが判断したらいい」
疲弊しきっていたキルプスの顔に、精気が蘇った。
「情報に感謝する。――アルムホルト、治療などあとで構わん! マルディウス領のジール・バイソンに早馬を! 並行し、夜明けとともに鳥も飛ばせ! 事は一刻を争う!」
「了解しました、陛下。すぐに」
足早に立ち去る近衛騎士隊長を見送ってから、少年は再び少女の手を取る。
そうしてふたりは歩き出した。少し照れくさそうに、探り合うように談笑をしながら。
「そういえばさあ、エレミアってもしかしてエレミー王子だったりする?」
「わおっ。なんでわかったのん?」
ドアをくぐって廊下に出る。
「ああ、やっぱりかあ。だってリオナがここにいるのはおかしいし、レオナルド王子やアランド王子は確認できてたけどエレミー王子だけが王宮内で見つかっていなかったからさぁ。まさかもう会っていたなんて驚きだ」
「あ~、そっか。あたしが王宮にいちゃ繋がりもバレるよねえ」
彼らを止めようとする者は誰もいない。
なぜなら今夜この王宮は、とても平和だったのだから。
「あの坊やがエレミーか。貴族とはいえ王族が自ら剣を握るだなんて、とんでもない跳ねっ返りだな。……やっぱこの国、バカしかいないのか」
「あはははっ。そうかも。でも、いい人ばっかりだったよ。……うん。……この二年間は、本当に楽しかった」
「そのへんの話、もっと聞かせてよ」
探り合うようだったふたりの雰囲気はすぐに変化して。楽しげに。嬉しげに。隔たる時間など、まるでなかったかのように。
こうしてふたりの暗殺者は、ガリア王国からその姿を消したのだった。
楽しんでいただけましたなら、ブクマや評価、ご意見、ご感想などをいただけると幸いです。
今後、作品を作っていく上での糧や参考にしたいと思っております。