第333話 いざ、要塞都市へ
晴れ渡る石畳の街道に、一頭分の蹄鉄の音が響いていた。
やや小柄ながらも逞しく発達した筋肉を躍動させ、馬は力強く走る。名をアジフというらしい。らしい、というのは、俺がこの馬の存在を知ったのは今朝方のことだからだ。
この日のためにと、遥か以前からベルナルドが辺境のヤーシャ族に手配をし、イルガが金銭を捻出して買い取ってくれていたものだ。
――乗っていけ。戦地でも耐えるよう、半年前から、辺境一の名手である父が、大自然の中で鍛えた馬だ。愛情を示せば、きっとおまえの助けになってくれる。
――これでようやくキミへの借りを返せたかな。心配など無用かもしれないが、俺たちが卒業してそちらに行くまで、絶対に死ぬなよ。これは男の約束だ。
それもご丁寧に鞍つきとは恐れ入った。
どうもこの鞍は、手先が器用なレティスがレアンで工房施設を借りて、ベルナルドに習いながら自ら拵えてくれたものらしい。
――へへ、ごめんな。もっと綺麗な意匠を凝らせたかったんだけど、慣れてないからうまくいかなくってさ。でも、その分頑丈に作っといたから。
その鞍には路銀の入った貨幣袋と、一振りの刀が揺れている。
刀は旅立ちの朝に、突然モニカから押しつけられたものだ。
――これを使って。リョウカさんの刀だから、これまでみたいにきっとエレミアの力になってくれる。彼もそれを望むと思う。あなたにはすごく感謝してたから。
刀の鞘には古代文字が彫られていた。
俺には魔術など発動させられないのだが、フィクスが昨夜のうちにナイフで刻んでくれたらしい。
――これは魔術の発動紋じゃなくて、大地の魔素を集めるだけの魔紋だよ。ただのお守りだと思ってくれていい。ただの臆病者だったボクに勇気をくれたお礼だよ。
馬をゆるく走らせながら、まだほんのりと温かいパンを囓る。中にはジャムが詰まっている。甘いコケモモのジャムだ。
テスカポリトカとの戦いのあとに母上と再会し、アルムホルトの試しに合格した昨夜。自身を含め全員が限界まで疲労を溜めていたにもかかわらず、リオナとセネカは自室に帰るなり俺の旅立ちを予見し、朝までかけて大きな大きな弁当を拵えてくれていた。
一食では到底食い切れんほどの量だ。
――いい、エレミア。朝、昼、夜に分けて食べて。明日以降のために保存食も沢山用意しておいたから、ガライアまで持つと思う。ミルクは腐るからだめだけど、チーズを入れておいたわ。水分はこまめにとって。それから……。
その様たるや、セネカはまるで母ちゃんのようだった。わかったわかったと、宥めるだけで一苦労だ。
笑っちまう。本当の母親の前なのに、泣き顔でそんなことを言われたら。
どいつもこいつも、俺の正体を知ってなお、まるで態度を変えずに接してくれたことが本当に嬉しかった。
ただ、毎日のように俺にしつこくつきまとってきていたリオナだけは、見送りに顔を出してはくれなかった。一抹の寂しさはあったものの、マヌケな俺でもわかっている。もはやいまの俺には、彼女に声をかける資格などないことくらいは。
……けれど、このときの俺はまだ知らなかったんだ。
今日を境にリオナ・ベルツハインが行方不明になってしまうことを……。
蹄鉄の音を響かせて、馬は走る。
全速力ではない。力はセーブさせている。なるべく長距離を移動させるためだ。使い潰す気は毛頭ないからな。
真横から吹き付ける山風が、新しい真っ白なコートをなびかせた。
……母上が金属糸を使用して編んでくれていたものだ。一針、一針。公務の間に何ヶ月もかけて、ただひたすらに俺の安全だけを願って。旅立ちを知るよりも、ずっとずっと以前からだ。
わかっていたのだろう。いつかこういう日が来ることを。
――陛下からあなたの話を聞いたときに、エレミー、わたくしにはもう羽ばたこうとするあなたを止められないかもしれないと思いました。ならばと、母にできることを考えました。せめてこのコートが、あなたを傷つけるものから、わたくしの代わりとなり守ってくれますように……。
アジフに乗る直前、そう言って母上は俺の肩にコートをかけてくれた。
それは金属糸とは思えぬほどに暖かく、袖を通した瞬間からまるで何かに守られているかのような心強さを感じた。
ああ、そうか。いまわかった。
ブライズから魔物革をもらったときのリリの気持ちが。
そんなことを思いながら、俺は母上に自ら抱きついた。ブライズとしての自我を取り戻して以降、初めてのことだ。
両腕に力を込めて、強く強く抱きついた。
母上は少し驚いて――けれども俺の頭を優しく撫でてくれた。
わずか数十秒。朝陽の中で、穏やかな時間が流れる。
やがて母上はみなを見回し、こう言った。
――あなたたちを見ていて思いました。エレミーは、本当によき友人たちに恵まれていたのですね。ここへ来られて、よかったのかもしれません。ありがとう、みなさん。
その通りだ、母上。
でも、まだ。まだいるんです。いまは言えないが、あなたの知らない友が。
紹介したいやつらがいる。
東国で、いままさに大きな壁を越えようとしている不器用な侍がいる。
故郷のスラムを救うため、今日も最前線に立って戦う優しい不良がいる。
過ぎ去った時代を求め、共和国に呑まれてしまった阿呆がいる。
俺の未来を守るため、その過ぎ去った時代を振り切って再び剣を握り、死線に立った女がいる。
俺は全員を救いたい。
だから。
「行ってきます」
顔を上げると、みんな泣いていた。
湿っぽいのはご免だと、ヴォイドのときもオウジンのときも笑って別れたというのに、今日はみんなが笑顔で泣いていた。
馬は走る。
小気味よい蹄鉄の音を響かせながら、心地よい風を追い越して。
だが、いまは晴れやかな気分だ。もはや旅立ちに何の憂いもなくなった。
レアンに何かがあれば、一組のみんなやサビちゃんが動いてくれる。それでどうにもならなかったとしても、最終兵器と言って過言ではないアテュラがいる。地理的にレアンが無事であれば、王都が陥落することはないだろう。
おかげで俺は前だけを見て走れる。
――いざ、要塞都市ガライアへ!
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