第322話 器用な男
グール戦を快勝で終えることのできた俺たちは、湿地と化している第九層の森をひたすら進み続ける。
湿った空気は重く、シダ植物とともにぬかるみがへばりつくように足を取るも、みなの表情に疲労の色はない。一年前とは顔つきが違う。どいつもこいつも自身を限界まで追い込み、死に物狂いで鍛えてきたのだから。
すでにかなりの距離を歩いてきている。俺の感覚が正しければ全行程の八割方は進んだはずだ。
リオナがセネカに視線を向けてつぶやいた。
「左手方向からグールが来てる。たぶん五体かもうちょっと。一定距離を保って近づいてこないみたいだけど」
「警戒してるということ?」
「……それもあるけど、そうじゃないかも」
木々の向こう側。確かに何か動いている影のようなものが時折見える気がする。だが遮蔽物が多く、俺にはその姿までは確認できない。
途端にリオナが声を落として囁くように言った。
「みんな、あんまし視線を向けないで。こちらが気づいてることを悟られたくない。なるべく自然に進も。会話しながらね」
イルガが振り返って言った。
「気になるなら俺が数名連れて仕留めてくるが、どうする? こちらがすでに気づいていることを悟られる前なら、奇襲はそれほど難しくないはずだ。何なら俺がひとりでやってきても構わないぞ」
自信に満ち溢れている。過信さえしなければ、これはよい傾向だ。
俺が咳払いで視線を向けると、リオナがすぐに察してくれた。
「そんならあたしも行こっかな。暗殺はお手の物だし~。おハゲが敵を引き付けてくれたら楽~ぅに殺れそ」
「まだハゲてはいないが? それに、この高貴な俺に餌になれとは身の程を知りたまえ。まあ別に構わんが。俺ほどの高級食材なら、やつらもさぞかし喜ぶだろうとも。女性を傷つけてしまった俺のような愚か者には相応しい役割とも言えるな。ふふ……」
おまえはずっと何を言っているんだ。レティスに対する先ほどの失態で、自分を見失ってきていないか。
何やら斜め下に視線をやって力なくうっすら笑っている。怖。
「さあ行こうか、ベルツハイン。存分にこの高貴な最低男を利用するがいい」
「言われなくてもするけどぉ?」
イルガの謎のぼやきとリオナの冷たい返事に、俺は慌ててふたりの背中をつかんだ。
「ちょっと待て。一応確認しておくが、陽動の可能性はないか? 分断されたら各個撃破される恐れがあるぞ」
リオナが首を左右に振った。
「他に近くにはいないから大丈夫だと思うよ。ただの偵察部隊じゃないかな。……あ、もしやエルたんったら、あたしと離れ離れになることが嫌で!? きゃーっ! ずっと一緒だよぉぉ!」
「嬉しそうに的外れなことを言うな」
「真顔でひどい……。でもそういう扱い、嫌いじゃないよ?」
ニチャァと笑ったリオナはさておきだ。
正直、俺がひとりで対処にあたった方が確実で早いのは間違いない。温存もわかるが、たかだかグール数体程度であれば体力の減りも誤差だ。
セネカにそう言おうとした瞬間、彼女は前方を指さした。
森の樹木が途切れ、広場のように見通せるようになっている。
「リオナ、あそこに罠ない?」
歩きながら、リオナがぐぐっと顔を前に突き出した。眉間に皺を寄せて凝視している。
湿った落ち葉の積もっていて、地面が見えない。だが、それはこの森の大半がそうだ。時折ぐじゅりと靴裏が沈み、そこが水たまりであることに気づくくらいなのだから。
「どうだろ。落ち葉の積もり方は自然に見えるね。周りの木にも仕掛けらしきものはなさそー」
「仕掛け? おまえ、そういうのは普段どうやって見分けてるんだ?」
これは前々から一度尋ねてみたかったことだ。
リオナが口元を隠すように右手で覆う。
「何かしら仕掛けるときには樹皮に傷がつくことが多いの。あとは枝が変な方向にしなってたりね。罠が新しければ緑の葉が周囲に落ちてたりもするよ。他にも色々あるけど、全部説明してると広場までついちゃう。そういうのを総合的に判断してるだけだから、見破るのは完璧ってわけじゃないよ」
リオナが口元を隠したまま顔をしかめた。
「でも、なんかヤな感じ。……エルたん、わかる? なんか可能性ない?」
「俺? おまえにわからんことが俺にわかるわけがないだろう……」
悔しいが、知識も感覚もリオナには勝てん。
そのときだ。背後からベルナルドがぼそりとつぶやいたのは。
「可能性があるなら、飛び道具だ。投石や矢に気をつけろ」
「それだ。さすがは狩猟民族だ。なるほどな、だから俺たちが開けた場所に入るまで様子見しているのか。ならばわざわざ待つ必要はない。やはり先に仕掛けるべきだ」
本来なら俺がひとりで斬り込みたいところだが、セネカがそれを許してはくれないだろう。イルガとリオナが視線を合わせてうなずき合う。
だが、今度はベルナルドがふたりを止めた。
「不要だ。――レティス、借りれるか?」
「もちろん!」
ベルナルドが手を伸ばすと、レティスが弩を彼に差し出す。
「まだ、有効射程に差がある」
大男はそれを受け取るなり矢を瞬時に番え、狙いもそこそこに間髪容れずグールの見え隠れしている方角へと向けて引き金を絞った。
放たれた一矢は乱立する木々の隙間を直線で抜け、密集している高いシダ植物を貫く。
ギャッと悲鳴が上がった。
あたった。まぐれでなければ、かなりの精密射撃だ。あの早さで。
「次だ」
「はいな」
レティスが差し出した矢を大男は目にも留まらぬ早さで番えて瞬時に放つ。また悲鳴が上がった。
やつらが反撃に転じることもなく、激しく植物を揺らしながらドタバタと遠ざかっていくのが俺にもわかる。
「逃げたか」
ただ一言。それだけを告げると、ベルナルドはくるりと弩を回転させ、レティスへとそれを返した。
ブライズも弓は得意だったが、このように遮蔽物の密集する密林で使ったことなどほとんどない。敵の姿がほぼ見えないのでは、矢の無駄だ。命中させることはもちろん、撃てば回収すら難しい。それをあの早さで。
我知らず、思わず言葉が漏れた。
「これは大したものだ……」
「森での狩猟は、幼少期にバルキン族で、父より教わった。ヤーシャに引き取られてからも、一族のためにと、養父とともに狩りには出ていた。それなりに慣れている」
レティスが言葉を継ぐ。
「ベルリンは剣が苦手なあたしに弩を作ってくれただけじゃなくて、訓練にも付き合ってくれたんだ」
「大したことは、していない」
ベルナルドが困ったように眉を寄せて指先で頬を掻くと、レティスは嬉しそうにその太い腕に両手を絡めた。ベルナルドは別段それを振りほどくでもなく、ふたりはそのまま最後尾をついてきている。
イルガが振り返ってそのふたりの様子を見たあとに「解せぬ」といった顔つきになっているのが少し可笑しい。ちなみに俺もイルガと同じで「解せぬ」派だ。レティスはもともと男女問わず他者との距離の近い少女ではあったのだが、あの距離はやはり特別なものに見える。
森の中にぽつりとできた光晶石の光射す広場にまでやってきた。グールの奇襲はない。むろん、あるならあるでリオナが予見して防いでいただろう。
だが、俺たちの意識はすでにグールにはなかった。
その瞬間、全員が一斉に空を見上げたんだ。
これまで木々の隙間から遠方に見え隠れしていただけのテスカポリトカの塔が光晶石の光に照らし出され、太く大きく、近くに見えたから。
相変わらずの存在感に圧倒される。何者をも拒絶する、不気味なオーラを放っているかのようだ。
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